厄病女神を夏風邪が襲う
夏風邪というのは治り難いものであるらしい。
俺はよく軟弱そうだとか病弱そうだとか言われるのだが、これが意外と丈夫で健康で、夏に風邪なぞにかかったことがない。よって、夏風邪は治り難いというのは話でしか聞いたことがない。
それは本当なのか? 嘘なのか? まあ、どちらにせよ。
「面倒臭いことになった」
俺は四畳の部屋にある本来は俺のベッドで寝ている絹坂を見下ろしながら呟いた。
「面目ないですー」
絹坂は困ったような恥ずかしいような顔で笑いながら言った。
彼女の顔色はやや赤く、額には冷却シートが貼られ、頭の下には凍り枕が置いてある。
「やれやれ。面倒臭いことだ」
俺は再び呟いた。
事の発端はといえば、やはり、あれではないだろうか? 大学案内をした日、つまり、昨日のことであるが、その日の帰りに降った雨が原因であろう。所謂、夕立という奴に遭遇したわけだ。
俺たちはびしょ濡れになって家に舞い戻り、さっさとシャワーを浴びることにしたのだが、その時、
「絹坂。先に入れ」
と、俺は珍しくも、ありがたい勧めをしてやったのだが、
「えー…。この部屋は先輩の部屋なんですから、先輩が先に入ってくださいよー」
絹坂は、小生意気に遠慮してきやがった。
「いや、妙な遠慮をするな。さっさとシャワーを浴びろ」
「先輩だってびしょ濡れじゃないですかー。先にシャワー浴びてください」
年下のうら若き乙女を差し置いて、先にシャワーを浴びるなど、我が仁義に反す。というか、男として、いかんだろう。
「いいから、とっとと入れ! 貴様が風邪をひいては迷惑だ!」
「えー。先輩にご迷惑をかけるわけにはー」
「貴様が居候している段階で迷惑だっつーの!」
その後、暫し、言い争いを続けた後、結局、俺が絹坂を風呂に蹴り込んで決着したのだが、それまでに十数分もの無駄な時間、二人は濡れっぱなしでいた。
これが絹坂の夏風邪の原因の一端を担っているであろうことは言うまでもないことだ。
絹坂の発病に気付いたのは今朝のことだった。
俺は毎朝8時に起きるように定めているのだが、絹坂の方もそれを心得ているようで、8時には起きて朝食の仕度をしているのが最近の我が部屋の有様であった。
しかし、今朝の様子は全く違った。
絹坂は六畳ある居間に布団を敷いて寝ている。いつも、彼女は起きると同時に、まずは、その布団を畳んでいるらしい。
今日もそうしようとしたのだろう。
絹坂の下半身は未だに布団の中だが、上半身と腕はぎりぎりまで伸ばされ、布団を畳もうと、布団の端を掴んでいる。
まずは、布団から完全に出ないと布団は畳めんと思うのだがね。
「おい、絹坂や」
「はふぅっ!」
話しかけると変な声を上げて、顔を上げた。きょろきょろと周りを見回してから、俺を見上げた。その顔はやや赤い。
「あ、ああー、先輩ー。こ、これーからー、朝ーごはんー、作ーりまーすねー」
「おい、いつも以上に、ーが多いぞ」
「れれー? そーでふかー?」
絹坂は首を傾げ、そのまま、布団に頭から突っ込んだ。
「あ、あれー? 頭がくらくらーしますー?」
この段階で俺はほぼ確信を持っていた。
食器棚の上に置いてある薬箱から体温計を取り出し、絹坂に突きつける。
「熱を計れ」
「へう?」
絹坂は変な顔で俺を見た。
「へう、じゃねえ。黙って熱を計れ」
有無を言わさぬ調子で言うと、絹坂は渋々と熱を計った。
ぴぴぴ。
体温計が律儀に三分を告知した。絹坂が脇の下から出した体温計を取り上げて数値を読み上げる。
「38℃きっかり」
「あははー」
乾いた笑い声を上げる絹坂。睨みつけると黙り込んだ。
「昨日、俺は言った。貴様が風邪をひいては迷惑だ。と」
「言ってましたねー?」
「故に、俺は貴様を風呂に放り込もうとした。それを拒んだのはどこのどいつだ! このアホンダラー!」
「ああー! 先輩、ごめんなさいー!」
その後、俺はとりあえず絹坂を四畳の部屋にあるベッドに押し込んだ。居間にいられても邪魔だからな。
「さっきまで俺が寝てた布団だが、我慢しろ。俺はあまり汗をかかん性質だから、それほど臭くはないと思うがな」
夏は外しているかけ布団を持ってきて、かけてやりながら言うと、絹坂は何を思ったのか、シーツに顔を埋めて臭いを嗅ぎだした。
「…くんかくんか……」
「止めろ。変態っぽいぞ」
「……先輩の臭いがする……べぶ!」
無言で頭を叩いた。変な鳴き声だな。
「とりあえず、朝飯を作ってやる」
「えぇー。無理しなくてもいいですよー」
俺が宣言すると絹坂は遠慮の言葉を口にした。俺は目つき鋭く絹坂を睨む。
「貴様。昨日もそうやって遠慮して風邪をひきおったな?」
「あう……」
「病人は黙って世話になってろ」
やれやれ。厄病女神の夏風邪の世話とは面倒臭いことだ。
俺は病人の看護とか見舞いとかが大嫌いだというのに。特に病院は嫌だ。入院した奴を見舞うのは二度とごめんだ。
病人に食わせる飯といえば、お粥である。
他の家は知らんが、我が家では、そうなっていた。病人が出たらお粥を食わせんとならんのだ。
しかし、俺は、このお粥という食いもんが好きではない。味は薄いし、ぬるぬるでぐちゃぐちゃで、あれのどこが美味いのか理解できん。姉上は喜んで食っていたが。
「まあ、俺が食うわけじゃあないがな」
独り言を呟きながら、俺は料理を始め……ようとはしたが、手が動かない。よくよく考えてみれば、俺はお粥を作ったことがない。
「……? お粥ってどーやって作るのだ?」
「うむ、できた」
台所で俺は満足げに呟いた。
結局、お粥の作り方が分からなかったので、味噌味のおじやを作ってみた。家や地域によっては病人におじやを食わせる所もあると聞いたことがあったからな。
しかし、何故に、わざわざ、俺が我が部屋に寄生する厄病女神の為に、飯を作って食わせなきゃならんのか、自分でやっておきながら、今更になって疑問だ。
しかも、俺自身、まだ朝飯も食えていないというのに、これが本当の朝飯前か? 阿呆らしい。
もしかしたら、絹坂は既に寝ているかもしれんなと思いながら四畳の部屋を覗くと絹坂とばっちり目が合った。
絹坂の目はキラキラと輝いている。こいつ、本当に風邪か? 仮病だったら、ただでは済まさんぞ。
「先輩、本当にご飯作ってくれたんですか?」
「うむ、食え。食って薬飲んで寝ろ」
俺は不機嫌な顔で言いつつ、タンスから冬物の上着を取り出す。
「これ着て、飯を食え」
「えー、暑いですよー」
「暑くする為に着るのだ。つべこべ言わずに着れ」
半ば無理矢理、絹坂に上着を着せてから、ようやく、絹坂の朝食と相成った。重ねて言うが、俺はまだ朝飯を食っていない。いい加減、腹が減ってきた。
「わー、おじやですかー。先輩手作りのー」
「ただのおじやだ。観察しても何も出ないから、さっさと食え」
そう俺が言ったにもかかわらず、絹坂は飽きずにおじやを見ている。それから、俺を見た。
嫌な予感がする。
「食べさせてください」
「貴様はガキかっ!?」
何を言い出すかと思えば! いくら風邪をひいているからといって、そこまでの甘えが許されると思うな!
「でもー、頭がぼーっとしてスプーンを掴むのも疲れるんですー」
「嘘を吐け!」
「嘘じゃないですー。先輩の意地悪ー」
絹坂は河豚みたいに頬を膨らませて恨めしげに俺を見た。
この俺が飯まで作ってやったというのに、言うに事欠いて意地悪とは! 恩知らずにも程がある!
「先輩が風邪ひいたら食べさせてあげますからー」
「そんなことせんでいい! 俺は死ぬ寸前の重病でも飯くらい自分で食う!」
そんな馬鹿みたいなこと、どんな顔で、されればいいというのだ!?
「じゃー、ご飯、食べれないですー」
絹坂はぶーたれた顔でそっぽを向いた。
何だ!? この我侭娘は!? 飯を食わせてくれって、貴様、何様のつもりだ!? どっかの姫様か介護老人か!?
色々と説教をしたり、怒鳴りつけたりしたが、絹坂に効果はなし。ぶーたれた顔でそっぽ向いたまま。
本当に面倒臭いことだ!
「この阿呆め!」
そう怒鳴りながら、俺はスプーンを手に取った。
ああ、もう、クソッタレ!
心の中で毒づきながら、おじやにスプーンを突っ込んだ。
「ほら、食え」
スプーンでおじやを控え目にすくい、絹坂に突きつけた。
何だかんだで、だいぶ時間が経ってしまい、おじやはやや冷めてしまった。まあ、まだ食べ頃の温度ではあるだろう。
絹坂は目と鼻の先に突きつけられたスプーン上のおじやを見て、目を輝かせた。
「先輩! ありがとうございまむ」
話してる途中だが口の中にスプーンを突っ込む。絹坂の口上を聞いて、どーなるわけでもないし、あれだ……恥ずかしいだろ。
絹坂はむぐむぐと口を動かしてから、ニッコリ笑った。
「美味しいです!」
「それは良かった。不味いとぬかしたら、蹴っ飛ばそうと思っていたからな」
「……むー、先輩って、素直に喜んだりできなあむ」
余計なことを話そうとする前にスプーンを口に突っ込む。あ行の字を話す時がチャンスだ。
それから絹坂は大人しく飯を食った。むぐむぐと口を動かしては、口をぱかっと開け、そこに俺がおじやを適量すくったスプーンを押し込む。その作業を淡々と繰り返す。
気分は雛に餌をやる親鳥だ。
「ごちそーさまです」
絹坂は手を合わせて満足げに言った。
土鍋に作った分、全部食いやがった。本当に具合悪いのか?
「先輩、ありがとうございました」
絹坂は俺をまっすぐ見つめてニッコリ笑った。
ええい、もう! そんな可愛い顔をするな! 照れるではないか!
本来、夏風邪編は一話のはずだったのですが、妙に厄病女神が先輩に甘えるものですから、二話になりました。たぶん、次で風邪治ると思います。