厄病女神はプールを存分に楽しむ
絹坂のはしゃぎっぷりたるや、一週間、留守にしていた大好きな飼い主が帰ってきた時の人懐っこい子犬並みだ。
俺の右手をしっかと掴み、
「あ! 波のプールですよ! 波乗りです!」
「流れるプールです! 一緒に流されましょうよ!」
「浮くプールに入りましょう! うわ! 本当に浮きますよ!」
「ほら、滑り台を滑りましょう! あれをやらなきゃ意味無しです!」
と、大騒ぎする。
いくら、人が多く、混雑しているとはいえ、そんな大声を出さんでも聞こえとるわ。俺は耳の遠い爺さんじゃない。
諸君、少し、俺のことを頑固な偏屈じじいみたいだと思ってやいないだろうな? 思っていなければいいのだが。
これだけなら、まだ、何とかなったかもしれない。ただ、ぶちぶち文句を呟きながら、引っ張られるがまま、付いていけばいいだけだからな。
しかし、反対側。俺の左手には何のつもりだか、京島姉がくっ付いているのだ。
「む! あの水着はダメか? ダメか」
「あの浮き輪は可愛いぞ。なかなか良い」
「日が強くなってきたな。ジュースでも飲もうか?」
「ああ、アイスもあるな。ちなみに私はバニラが好きだ」
と、京島は京島で、ぐいぐいと引っ張るのだ。おいおい、君君、そんなに引っ張ってはお胸に腕が当たってしまうではないか。いくら俺でも、それは健全な男として、問題が生ずる。
東? ああ、そんな青年もいたな。大丈夫。後ろから付いてきてる。何か泣きそうな顔でな。すまん。
ところでだ。二人の別個の意思を持つ人間は、いくつもの興味の対象がある中で、必ず同じ方向に行くとは限らない。当然、別々の方向に行く可能性の方が高いわけだ。
しかも面倒臭いことに。
「むー! 先輩はこれから私と滑り台を滑るんです。邪魔しないで下さい」
「むむ…、彼は疲れているようではないか。ひとまず、私と休憩すべきだ」
二人は事あるごとに反発しあうのだ。何故にこんなに意見が合わぬ?
当然、二人はそれぞれ違う方向に行こうとするのだが、その二人に引っ張られている俺は、どうなるのか? 両手を引っ張られてソロモン王の裁断を待つ子供状態だ。誰かソロモンを呼んでくれ!
何の話か分からない奴は自分で調べたまえ。日本人に分かり易く言えば大岡裁きのことだ。一人の子供を巡って二人の母親が云々。あれは、ソロモン王の逸話のパクリなのだよ。
て、そんなトリビアはどーでもいい。
いつまでも二人は俺の腕を引っ張り合う。ただでさえ短い俺の堪忍袋の尾が耐え切れるはずも無い。
「いい加減、止めろ! 肩が痛い! 腕がもげる!」
悲鳴にも酷似した怒声を発しながら、腕を払う。
二人はちょっと傷付いた顔をした。それって滅茶苦茶ズルくないか!? 何だか俺が悪いことしてるみたいではないか!
「……迷惑でしたか?」
「……怒ってるか?」
上目遣いで左右から俺に問う二人。この攻撃を受ければ全世界の男のおよそ九割が陥落するだろう。残りの殆どはゲイ。
「ああ、迷惑だったし、怒ってる」
だが、俺は屈しない。ゲイだからでは決してないことを申し添えておく。
二人はしょんぼりとした顔で俺を見つめている。絹坂の垂れ目は、いつも以上にふにゃんと垂れ。いつもクールな京島の無表情も何だか悲しげだ。
「お前ら、別々に行動するなら行動するで、各々、勝手に行ってくれ。俺を引っ張るな」
顔をしかめまくって言い放つ。顔に力を入れていないと、この悲しそうな二人の美少女の可愛さに負けてしまう。思わず抱きしめそうだ。そんなことしたら変態だから絶対に、やらんがね。
「俺は俺で回るから、好きにしろ」
そう俺は言い残して、その場を後にしようとした。が、いきなり、両手を掴まれる。
「それはやです」
「うむ、断る」
二人は急に強い調子で答えた。さっきまでの弱弱しさは微塵も残っていない。何処へ消し飛んだのだ?
俺が困惑していると、二人は目を合わせた。そして、頷き合う。
「じゃあ、しょうがないので、三人で行きましょう」
「君と離れるよりは三人で行動した方がいいだろう」
二人は有無を言わせぬ様子で俺に迫った。お前ら、仲悪かったんじゃねえの?
二人はそれぞれ俺の両腕を掴んで歩き出した。一緒に行くというよりも強制連行に近い。
そして、東や。やや背後で臆していないで、絹坂にアタックしろよ。当たって砕けろよ。何の為に、ここまで来ているのだ?
「ふわー、波が来ますよー!」
「むむむ、耳に水が……」
「こんな頭から水かぶるような遊戯のどこが楽しいのやら…。ぎゃー!」
「あわわ! 先輩が波にさらわれてー!」
「だ、大丈夫か!?」
「こんなプールに流される遊戯のどこが……」
「先輩、文句言ってる割には楽しそうですよー?」
「な! どこが!?」
「浮きボートに寝そべっているところとかな」
「こ! これは、まあ、ちょっと気持ちいいから……。悪いか!?」
「ここは浮くプールか…」
「本当に浮きますよー!」
「高濃度の塩水で浮くのか。死海と一緒だな…」
「先輩、楽しいですかー?」
「全然!」
「…ぷかぷか浮かんで楽しそうだが……」
俺たちは、いくつものプール遊具を相次いで攻略していき、すっかり俺は疲れ切ってしまったよ。
大滑り台に行こうという二人を何とかなだめた俺はベンチに座ってオレンジジュースを飲んでいた。何故だか二人は仲良くプールで、空気で膨らませたプラスチック製ボールを投げ合って遊んでいる。仲悪かったんじゃねえのか? 分からん。
俺の隣では東がぼんやり座っていた。
「何やっとる?」
「は?」
「は?じゃねえ」
俺は東の間抜け面を不機嫌に見やった。
「そもそも、最初にプールに行こうと言い出したのは貴様ではないか?」
「あ、ああ、そうだけど…」
「それが、何て様だ? まるで、オマケではないか」
貴様は金魚の糞か! と言いそうになったが、その台詞は飲み込んでおく。東自身、分かっているだろうし、悲しそうな顔をしているからな。
ずぞぞーとオレンジジュースを飲み干し、氷だけになった紙コップをゴミ箱にぶち込む。
「貴様、絹坂のことが本気で好きなんだろ?」
俺は不機嫌な顔で太陽を見上げながら言った。忌々しい太陽め。そんなにも俺の皮膚細胞を殺したいか?
「あ、ああ。その気持ちは本気だ。一目惚れだって言っても信じてくれねーかもしれんけど。少なくとも、俺は本気で衣に惚れてる」
その脳味噌が腐るような激甘台詞は俺に言わんで絹坂に言うべきだろうよ。
「では、何故、もっと絹坂に近付かん? もっと話しかけん? あいつに避けられても、もっと行くべきだろう。貴様の本気とは、その程度か?」
何で俺はこんな恋のアドバイスみたいなことを吐き出してるのか、甚だ疑問に感じる前にイライラする。それもこれも東のヘタレっぷりが悪い!
東を睨むと、彼は世にも情けない顔をしていた。何だ何だ。情けない奴だな。
「玉砕覚悟でも突っ込め。もしかしたら、意外といけるかもしれんではないか?」
「そりゃねえよ」
東はぶーたれた顔でコーラをあおる。さながら失恋した青年か、リストラにあったおっさんかといった飲みっぷりだ。
「衣は、お前にベッタリじゃねえか」
「…あれは…あれだ。俺は奴の先輩だから」
「そんなんじゃねえよ」
俺の言葉の最中に東は口を挟んだ。
「衣の顔とか見れば、丸分かりだろ。姉貴もだけど、衣はお前のことを」
「言うな」
今度は俺が東の言葉を遮る。
彼は見る間に不機嫌そうな顔になった。今にも怒鳴りだしそうだ。
「分かってるのかよ? じゃあ、何で、あいつのこと突き放すようなことしてんだよ!?」
俺が普通の服を着ていたら胸倉を掴まれていたかもしれんな。
「しかも、俺をあいつに、けしかけさせようとかしやがって」
「貴様を応援してやってるんだ。ありがたく思え」
「いくら、あんたが応援しても、あいつに全然その気が無いんじゃ無理だろ……」
また凹む東。
「やってもいないのに無理無理言うな」
「もう、一回コクってフラれてんじゃん」
それもそうだったな。
「それでも、また、デートに誘おうとしたではないか」
俺が言うと、彼は悲しげに言った。
「ああ、まだ、望みがあるかもって思ってたんだ。でも、無かった。今日ので、よく分かった……」
「諦めるのか?」
「ああ」
東は最後だけ男らしく頷いた。そんな最後の最後だけ男らしくてもな。しかも、絹坂にじゃなくて俺に対して。意味ねえだろ。
「あんたは、衣と姉貴のどっち選ぶんだよ?」
いきなり何を聞くか?
「何を言ってる? 何故、俺がどちらかを選ぶ必要があるのだ?」
「分かってんだろ?」
「分からん」
「強情な奴だな…」
それでも東は何度も色々と聞いてきたが、俺には意味がさっぱり分からんね。ああ、分からんとも。女の気持ちなど分かって堪るか!?
「先輩先輩!」
暫くして絹坂と京島が駆け寄って来た。
時刻は夕方になろうかというところだ。そろそろ帰る気になったか?
「帰るか?」
「その前に!」
絹坂は俺の腕を強く掴んだ。
「あれに乗りましょう!」
そう言って絹坂が指差したのは大型滑り台の中で、最も高いの。あれの滑り落ちる速さは尋常ではない。下のプールに落ちた後、浮かんでこんのではないかというくらい危険な遊具だ。
あんなん、どうして設置が許可されてるのか理解できん。
今まで、その下のランクの滑り台には何度か渋々と乗ったが、あれだけは拒否していたのだ。
「あれは乗らん」
「いや、乗ろう」
京島が俺の空いている方の腕を強く掴んだ。痛いくらいに掴まれてる。
これで両腕が取られた。
「む。嫌だ。乗らん。帰る」
俺は偏屈で強情なじじいか我侭なガキのようなことを言いながら、その場に踏み止まろうとする。
「いいからいいから」
「物事は何事も経験だ」
そんなことを言いながら俺を引っ張る女二人。床が水で滑って踏ん張れないぞ!
「いや、止めろ! 止めんか! 俺は少し高所恐怖症気味なのだぞ! しかも、泳げない!」
そんな俺の悲鳴も虚しく二人は俺をずりずりと引っ張っていく。しかも、さっきから手が何か柔らかーいものに触れている気がする。
「おい、手が乳に当たっていないか!?」
「えー? 先輩ならいいですよー」
「わ、私も、君ならば……」
少し恥らえよ! そんなうら若い乙女が、そんなに簡単に乳を男に触らせていいと思ってるのか!? 破廉恥な! 一昔前なら社会から絶縁されるほどの重大事ぞ!
「わーわー言ってないで、さっさと行こう」
「あの滑り台を滑らなきゃ、ここ来た意味ないですよー」
二人はずりずりと俺を引っ張っていく。意外と力持ちなのだね。そんなことに感心している暇はない。
「あー! 止めてくれー!」
俺の悲鳴はあっさりと無視された。
帰宅後、俺は呟いたものだ。
「もう…金輪際…滑り台には乗りたくないものだ……」
「楽しかったですねー。また行きましょー」
行かねえよ!
読者数が5000を超えました。ありがたいことです。
これも読んでくださる、あなた方のお陰であります。
謹んで御礼申し上げたい。
これからも頑張って最後まで書い参ります。