第7話:迷子の忘れ物と、鏡の檻の独白
「あ……あ、アヤちゃん! じゃなくて、亜月さん!」
あまりの動転ぶりに、響は裏返った声を出した。
「あはは、アヤでいいよ。高山くんも勉強の息抜き? 隣、座ってもいいかな」
心臓が耳のすぐ横で鳴っているような感覚。ベンチの隣に、アヤが自然な動作で腰を下ろした。
足元では『Bell』というプレートをつけた黒いトイプードルが、響の足元にじゃれついている。
「も、もちろん! アヤちゃん、犬飼ってたんだ!」
「あ、ごめんねベルちゃん。ダメでしょ、勝手に」
リードを引くアヤの仕草に、響は見惚れそうになるのを必死で堪えた。
「な、何にも気にしなくて大丈夫だよ! 俺、犬大好きだし! ヤァ、ベルチャン、コンニチハ!」
「……っ、ふふ!」
一気にアヤが吹き出した。
「高山くん、学校であんまり喋ったことないけど……面白い人なんだね」
――面白い人。これって、褒められてるのか!?
幸せの絶頂にいた響だったが、ベルがぐいぐいとリードを引っ張り、アヤに「散歩の続き」を促した。
「あー、ベルちゃん待って。……高山くん、また学校でね」
アヤが去った後、響はしばし虚空を見つめて固まっていた。
「……何、今のご褒美タイム。死ぬの?
俺、明日死ぬの?」
◆
「ヒビキ、顔が溶けてるよ?」
ドッグランから戻ってきたシラユキの冷ややかな一言で、響は現実へと引き戻された。
「はっ! いや、なんでもない! おかえり」
「うん、たくさんお友達がいて楽しかった」
満足げに笑うシラユキの髪に、枯れ葉が一枚引っかかっている。
「あ、これ……葉っぱついてるよ」
響が手を伸ばし、シラユキの髪を払う。その拍子に、彼女の瞳を間近で見つめる形になった。
――アヤちゃんに似てる。でも、それだけじゃない。この懐かしさは一体……
「おい! ヒビキとやら、近すぎる。離れろ」
瞬時にシンピに引き剥がされ、響はまたしてもムンク顔で悶絶した。
「あれ、さっき響ボーイ、女子と話しとらんかった? 見かけによらずモテんのかいな」
マトイがからかうように言うが、響の視線は足元の芝生に落ちていた。
そこには、骨の形をした犬用のおもちゃが落ちていた。プレートには『Bell』の文字。
「あ、アヤちゃんの忘れ物……!
ちょっと、返してくる」
「あ、行っちゃった。……転ばないでねー」
響の背中を見送りながら、シラユキは小さく手を振った。
その様子を眺めていたマトイの目が、一瞬だけ鋭くなる。
――にしても、さっきの女。遠目やったけど、妙な気配がした。あれは、ただのニンゲンか?
◆
シラユキの双子の弟、シロガネが、家庭教師のカガリから講義を受けていた。カガミの国。
「……今日はここまでにいたしましょう。お疲れではありませんか? お薬は……」
「カガリ、君も大変だね。僕の心配をたくさんしてくれて嬉しいよ」
シロガネは、天使のような微笑みを浮かべて答えた。
――この子に、そんな慈愛の感情など存在しないことを、私は知っている。
カガリが冷や汗を拭うと、シロガネは声を潜めて囁いた。
「ねえ、カガリ。君には特別に教えてあげる」
「……はぁ」
「もうすぐ、とびきり楽しいことが起きるよ」
「楽しいこと……? それは一体……」
「起きてからのお楽しみ、だね」
シロガネは、出された薬を迷いなく口に放り込む。
「安心してよ。それまでは言われた通り勉強も頑張るし、この『何のために飲まされているのかよく分からないお薬』も、ちゃんと飲み続けるから」
カガリは恐怖を押し殺し、「失礼します」と絞り出して部屋を後にした。
扉の外に出ても、指先の震えが止まらない。
――あの子供は、やはりこの国の『凶兆』そのものだ。
一人残された静謐な部屋で、窓から差す光が、シロガネの髪を淡く照らしていた。その名に違わぬ色が、鏡のように静かに輝いている。
「フフフ……待っててね、姉さん」
その瞳の奥には、愛する者をじわじわと追い詰める、甘美な狂気が宿っていた。




