第21話:喪失という名の世界
響は、しばらく黙っていた。
父王でも、シラユキでもなく、ただ車椅子の上の「肉人形」となった王妃を見つめながら、静かに口を開く。
「……俺も、父を亡くしました」
その声は小さく、けれど一度も途切れることはなかった。
「母は、毎日泣いてました。朝も、夜も。理由もなく、ただ涙が溢れるみたいに」
父王の方を見ない。それでも、響の言葉は確実に王の鼓動を刺す。
「それでも……母は父を『戻したい』なんて、一度も言わなかった。父のいない世界を、ただ受け入れるしかなかったからです。それは、母が優しかったからじゃない。強かったからでもない」
響は一拍、深く息を吸った。
「ただ……生きるしかなかった」
響の視線が、シラユキへと移る。
「俺も、シラユキと同じ場所に立っていたと思います。失うことが怖くて、壊れそうで。でも俺は、『取り戻さない世界』を選びました。だから分かるんです。失う痛みも、戻ってこない現実も。……それでも、それは歪んでなんかない」
◆
「取り戻さなかったからこそ、母は――生きました。泣いて、崩れて、それでも朝になったら洗濯して、飯を作って。父がいない現実を、一日ずつ、必死に抱えて歩いてきました」
響は胸元で拳を強く握りしめた。
「それは、王様が言うような綺麗な生き方じゃない。世界を書き換えるような力もない。でも、誰も犠牲にしないで、誰かを愛し続ける道も、確かにあった。俺は、それを『弱さ』だとは思いません」
ゆっくりと、響は父王を射抜くように見た。
「……失ったまま生きる世界も、ちゃんと、世界です」
父王は、響から視線を逸らした。
響の言葉は、王が積み上げてきた「秩序」という名の言い訳を、根底から否定するものだったからだ。
王は代わりに、この場でもっとも心が脆い場所を、正確に射抜いた。
「……マトイ」
◆
名を呼ばれ、マトイの肩がびくりと跳ねる。
「お前も、失った者だ。ツヅル……あの少女を」
王妃でも、シラユキでもない。あえて「死者の名」を口にすることで、王はマトイの心の傷を抉った。
「取り戻したいと思わないはずがない。違うか? 反魂術は奇跡だ。シラユキがそれを証明した。お前なら、分かるだろう。愛する者を、あの冷たい虚無から引きずり戻したいという私の気持ちが」
マトイの喉が鳴る。
脳裏に浮かぶのは、もう二度と聞けない声、笑い方、その背中。
――もし、もしも……ツヅルが、生き返るかもしれないとしたら……
一瞬、あまりにも残酷で甘美な希望が、マトイの瞳に宿る。
指先が震え、その欲望に身を任せそうになった、その時。
「――マトイ」
静かすぎる声が、その迷いを断ち切った。
シンピだ。
彼は一歩も近づかない。けれど、その言葉だけは容赦なくマトイの心へ踏み込んでくる。
「それを、本当に……ツヅルが望むとでも、思っているのか?
死んだ者を引き戻して。
誰かを犠牲にして。
……歪んだ形で『生かされる』ことを。
ツヅルは、そんな未来をお前に背負わせたい人間だったか?」
シンピは一切の情けを捨て、言葉を叩きつけた。
「マトイ。お前の見ているそれは救いじゃない。……ただの、逃げだ」
息苦しいほど正しい、刃のような言葉。
マトイは唇を噛み締め、激しく揺れる瞳で俯いた。
「……やめろよ。分かってる……分かってるんだよ……」
シンピは視線を逸らさない。
「分かっているなら、目を背けるな」
静寂が最上階を包む。
父王は、初めて言葉を失っていた。希望という名の餌を投げたはずの場所で、「死者の意思」という予想外の壁に突き当たったからだ。
やがて、マトイは小さく、けれど明確に首を振った。
「……ツヅルは、俺に。
俺が、前へ進むことを望むはずだ」
それは震えていて、消え入りそうなほど弱かった。
けれど、それは呪いに打ち勝った、彼自身の「意志」だった。




