八月の終わりと白いページ①
例えば、十数年前に読んだ特別興味の無かった本の内容を、どのくらい覚えているだろうか。
登場人物の名前も、ストーリーも結末も、内容に関しては多分思い出せないと思う。
覚えていたとしても「なんか読んだ事あったような気がするなあ」といった曖昧なものだけだろう。
それと同じで、高校時代の授業で習った事を社会人になっても
鮮明に覚えている人の方がきっと少数派だと思う。
もちろん知らないうちに役に立っているものもあるのかもしれない。
でも平方根だとか、サイン・コサイン・タンジェントなんかだとかは
少なくとも俺の人生では、それ以降出番はなかった。
別に開き直っているわけではない。が、現実的な話として
夏休みの宿題がまるっと手つかずなのは
ある意味しょうがないことじゃないかと思うんだ。
「俺も全然終わってなくてさー」
電話越しに陽斗が軽い調子で言った。
「バイトばっかしてたからなー、気付いたら全然遊び行かずで八月終わりそうだし」
「俺も……。終わってないっつーか、内容がもうわからん……」
自分で言って少しだけ気分が沈む。
「え、直人ってそんな勉強できなかったっけ?」
「時間の流れってのは残酷なんだよ」
そういうと陽斗は「なんて?」と聞き返したが、答えを待つほど興味はなかったらしい。
「……んー、とにかくなんとかしないとなー」
うちの学校では、夏休みの宿題を提出しないと補修になるのだ。
それは文化祭準備時間に充てられるので、文化祭を楽しみにしている陽斗としては
できれば回避したいのだろう。
俺としても休み明けから演劇部の手伝いも再開するので、できれば回避したい問題だ。
「あ」
そんなことを考えていると、陽斗が急に声を上げた。
「いいこと思いついた。直人明日空いてるよな?」
「空いてるけど?」
「じゃあ決まりな、明日十時に駅裏の図書館集合でよろしく!」
「え、明日?」と、返事を待たずに電話は切れた。
図書館?なるほど、勉強する気になったのか。
陽斗が進んで勉強しようと提案してくるのはめずらしいな。
……まぁいいか。
どっちにしろ宿題は片付けないとならないしな。
次の日、約束より少し前に図書館に着くと、一口近くの広場に見覚えのある姿があった。
「あれ?月島?」
「あ、更階おはよ」
「……おはよ?」
まるで待ち合わせをしていたみたいな返事に疑問符が浮かぶ。
二人して「え?」となっていると
「おっはよー、二人ともずいぶん早いなー」
間の抜けた声と一緒に、陽斗があらわれた。
「月島呼んだの陽斗か」
そう聞くと陽斗は頷く。
「おう、一緒に宿題しようと思ってな!」
「昨日あれからちょろっと聞いたらさ、もう終わってるっていうから、それなら教えてくれよってな」
「え、ああ、うん。もちろん私はもう全部終わってるから」
月島が少しだけ胸を張る。
「ほんと、こんな時期まで宿題終わってないとかダメね。計画性なさすぎじゃない」
ピシッと言い切る月島に、陽斗が「はは、さすがだなー」と適当に笑う。
……? なんだか、陽斗の言動に少し違和感を感じたような気がした。
「まま、とりあえず外は暑いから入ろ入ろ」
と、陽斗に促され、そのまま三人で図書館の奥にある自習スペースに向かった。
席についた直後、陽斗が俺の方に身を寄せてくる。
「――同志直人よ、今回のミッションだ」
声を限界まで落として、耳元で囁く。
「月島にバレずに、あいつの宿題を写す」
「……は?」
思わず声が出そうになって、慌てて口をおさえる。
昨日電話で言っていた「いいこと」って、まさかこれのことか。
「いや……それは……」
言い返そうとしたその時、会社員だったの頃の先輩の言葉が頭をよぎる。
『うまく手を抜くのも仕事のうちなんだぜ?』
その言葉が、妙に都合よく、胸の中に収まってしまう。
「……今回だけ、だからな」
小声でそういうと陽斗は今日イチの笑顔で満足そうに頷いた。
図書館の自習スペースは、窓際のカウンター席と四人掛けの机に分かれていた。
夏休み中ということもあって、どちらもそこそこ埋まっている。
少し歩き回って、ようやく開いていた四人席の机を見つけた。
俺と陽斗が横並びで座り、月島はその向かい側。
「で?とりあえず聞くけど、二人ともどこまで終わってるの?」
筆記用具を準備しながら月島がこちらに顔を上げる。
「…………」
「…………」
視線を逸らしたまま、俺と陽斗は何も言わなかった、いや言えなかった。
プライドがあるわけじゃないが、全部やってないとはなかなか言えないのだ。
「――ホントにバカじゃないの!?」
図書館だというのを思い出したのか、慌てて声量を落としながら、鋭いツッコミが飛んできた。
「はぁ……。もういいわ」と、月島は軽くため息をつき
「じゃあ簡単に終わらせられるものから片付けましょ。二人でやればなんとかなるでしょ」
呆れたように言いながらも、ノートと教科書を準備する。
月島はなんだかんだ言っても面倒見がいいのだ。
勉強が始まって――三分後。
「……なぁ、直人」
陽斗が険しい顔をこちらに向ける。
「写すタイミング、無くね……?」
だろうな。
四人掛けの机で向かい合って座っている相手の宿題を写すなんて
至難の業どころか、どう考えても無理だった。
「まぁ、しょうがない。真面目にやるしかないな」
小声で返すと陽斗は妙に真剣になり
「……いや、ここからだ」と、決意に満ちた顔をする。
まずはチャンスを作る。陽斗はそう囁き
「なぁ月島、ここなんだけどさ」
と、わからない問題を聞き始めた。
その隙に俺に月島のカバンから宿題を抜き取れ――そういうことらしい。
なるほどな、と思っていたが
「だから、ここは公式をあてはめるんじゃなくて」
「え、あ、あぁ……」
「ほら、だから、ここはさっき言ったでしょ」
「お、おん……」
「もう、ちゃんと教科書の参考例見て応用させなさいよ」
「はい……すいません、はい……」
陽斗は、がっつりマンツーマンで教え込まれていた。
結果、数分後に肩は落ち、目は死に、ペンを持つ手も心なしか震えていた。
「……おい、生きてるか?」
「……頭、使い過ぎて……酸欠……」
現実は甘くなかったようだ。




