第9話 見えない爆心
朝一番のトール・レンブラントの机には、また紙が増えていた。
冷えで指が思うように動かず、ペン先だけが妙に重い。そう思いながらペンを動かす。
戦闘報告書でも、損耗率でも、補給計画でもない。
紙の上いっぱいに、細かい線と記号と数字がびっしりと描き込まれている。
──アルメリア符術塔・魔素波形記録。
艦から送られてきた符術塔の記録紙を、そのまま拡大して写したものだ。
等間隔の線は、普段なら穏やかな揺らぎを示すだけのはずだった。
だが、ところどころに走る棘のような乱れが、紙に傷を付けたように刻まれている。
「……ここだ」
トールは、ペン先で一点を軽く突いた。
波形のリズムが一拍だけ飛び、線がぐしゃりと潰れている箇所。
そのすぐ脇に、細い書き込みがある。
《第一砲撃着弾時刻との誤差:一・二秒》
別の紙では、その乱れがさらに濃い形で現れていた。
波形全体がねじ切られたように歪み、その部分だけインクが滲んでいる。
《機雷爆発時・レーヴェ喪失直前》
紙の上の乱れを見ているだけで、胃のあたりが重くなる。
(「偶然」って言うには、回数が多すぎる)
扉が軽く二度、ノックされた。
「入ってください」
トールが顔を上げると、白衣に似た袖無しの上着を着た人物が三人、部屋に入ってきた。
艦付きの符術士と、その上官格にあたる「符術長」、そしてライサ・グレイン副隊長だ。
「中尉、符術検証班のお出ましだ」
ライサは、わざとらしく肩をすくめて見せる。
「お前の机の上でうなってる線を、もう少しちゃんとした言葉に替えてくれるそうだ」
「……助かります」
トールは立ち上がり、簡単な敬礼をした。
符術長は、五十代にさしかかった痩せた男だった。
線の細い顔だが、目だけは妙に若い。
「護送戦闘の記録、拝見しました」
彼は机の上の紙束に目を滑らせると、一直線に魔素波形の紙に手を伸ばした。
「アルメリアの符術塔は優秀ですね。霧と砲煙の中で、ここまできれいに波形を残している」
「優秀なのは符術塔であって、記録を見ている私の頭ではないと思いますが」
「頭の良し悪しなど、後からいくらでも補える」
符術長は軽く笑った。
「問題は、ここに映っているものを、『見たふり』で終わらせるかどうかです」
彼は一本の線の途中を指でなぞった。
「ここ。砲撃の直前直後で、波形の位相が跳ねている」
「位相……ですか」
「簡単に言えば、『世界の鼓動のタイミング』だと思ってください」
符術長の説明は、妙に比喩的だった。
「環境の魔素にも、ざっくりとした拍がある。符術塔はそれに合わせて自分の鼓動を合わせている。それで、索敵や通信が安定する」
「その合わせ方が、おかしくなっていると」
「そう。ここ。」
符術長はインクの滲んだ箇所を軽く叩いた。
「砲弾が着弾する直前に、一瞬だけ周囲の魔素の拍が乱れる。そして、符術塔がそれに引きずられて、同期を外されている」
トールは、波形の空白を見つめた。
「砲撃そのものによる揺れ……ではないんですか?」
「物理的な衝撃だけなら、もっと鈍い乱れ方をします」
横で記録紙を覗き込んでいた艦付きの符術士が口を挟む。
「これは、細かい針で連打されたようなノイズです。自然の渦じゃ出ない」
「つまり」
トールは、自分の考えを口にした。
「帝国の砲弾は、ただ遠くまで飛ぶだけじゃなく、『符術の同期を乱す何か』を一緒に撒いている?」
「そういう仮説になります」
符術長は頷いた。
「砲弾に刻まれた符か、砲身側に仕掛けられた新しい符か。詳しい仕組みはまだ分かりませんが」
「でも、結果だけははっきりしている」
ライサが腕を組んだまま言った。
「こっちの索敵も通信も、一番欲しい瞬間にノイズだらけになる。見たいものが見えないまま、砲弾だけが飛んでくる」
「機雷のときも、似た波形が出ていました」
艦の符術士が別の紙を指さす。
「接触起爆の直前に、一瞬だけ強く、狭い範囲で魔素が乱れている。あれは多分、起動した符の残響です」
「起爆の『音』が、符術塔に届いているわけか」
ライサの皮肉に、符術長が苦笑する。
「そう表現しても大きくは間違っていません。問題は、その『音』が、うちの符術にも悪さをしている可能性があることです」
悪さ。
妙に子供っぽい言葉だが、中身は笑えない。
「実際、レーヴェからの報告の中に、奇妙な証言がいくつかあります」
トールは、別の紙束を取り出した。
生存者への聞き取り記録だ。震えている字や、ところどころ書き損じた訂正の跡が痛々しい。
「『護符が起動しなかった』『いつもの治療符が効きにくかった』『符の光が濁って見えた』……」
読み上げながら、トールは喉の奥がつかえるのを感じた。
「負傷した船員に貼った護符が、普段より反応が鈍かったという証言が複数あります。爆発の直後から、その場を離れるまで」
「符術が『死んだ』わけではないが、質が落ちている」
符術長が、顎に手を当てて考え込む。
「環境の魔素そのものの位相が乱されているなら、起動した護符も『どこに合わせればいいか分からない』状態になるかもしれない」
「それってつまり」
ライサが眉をひそめた。
「帝国の新兵器は、うちの護符や符術そのものの『効き目』を削る可能性もあるってことか」
「可能性、というだけなら何とでも言えますが」
トールは、生存者の証言の中で指を止めた。
「『符術士の術式が途中で途切れた』という記録もあります。レーヴェの符術士・ハンネス氏のものです」
そこには、震える字でこう書いてあった。
《詠唱の途中で、言葉を発しても魔素がのっていなかった。世界の「拍」から自分だけ置き去りにされたような感覚。符を通して魔素を掴もうとしても、掴めなかった》
「……嫌な表現だな」
ライサが顔をしかめる。
「自分だけ置き去りってのは」
「符術士には、よくある比喩です」
符術長が静かに補足した。
「世界の拍と自分の拍が合わなくなると、術式は途中で崩れる。普段は、軽い発熱や頭痛程度で済むのですが」
「それが、砲撃や機雷の爆発と連動して起きている、と」
「はい」
トールは小さく頷いた。
「現場で体感した者が、『あの瞬間だけ世界が歪んだ』と口を揃えている」
紙の上の記録と、海の上の体験が、少しずつ重なっていく。
だが、その重なりは「分かった」という安心を連れてきてはくれない。
「まとめるとだな」
符術長は、机の上の紙を一度全部重ね、改めて並べ直した。
「帝国の新型魔導砲、すなわち長射程魔導砲と機雷には、三つの特徴がある」
一本、ペンの尻で机を軽く叩く。
「一つ。物理的な射程と威力が、これまでの教範に載っている『安全距離』を越えている」
トールは、その一行を紙に書き写した。
「二つ。砲撃と爆発の直前直後に、周囲の魔素の位相を乱す『符術的な雑音』が発生する。結果として、こちらの索敵・通信・護符・術式の一部が不安定になる。だから隊長は艦隊側に張り付いてる。港に戻ったら、艦隊との連絡が死ぬ。こっちは海の状況が何も分からなくなる」
これは、魔素波形の乱れと、生存者の証言が支える事実だ。
「三つ」
符術長は、少しだけ間を置いた。
「その雑音が、『どこから、どのように』発せられているかが分からない」
「砲弾そのものから、ではないんですか?」
トールの問いに、艦付きの符術士が首を振る。
「砲弾の破片をいくつか回収して調べましたが、符の刻印らしきものは摩滅していて判別不能でした。残留魔素の揺らぎも、爆発直後の乱れと混ざっていて、はっきりしたパターンは取れません」
「砲身側に刻んである可能性もある」
符術長が続ける。
「あるいは、砲列の後ろに妨害用の符術塔か何かを立てているのかもしれない。長距離で妨害するようなものを」
「そんなもの、うちにだって実用化されちゃいないのに」
ライサが舌打ちする。
「帝国は、符術と砲をくっつけることに関しては、こっちより一歩早い。昔からそうです」
符術士が、悔しげに言う。
「魔導砲やら符刻弾やら、名前だけ立派な代物は向こうが先に使った。こっちは『危なすぎる』って理由で棚上げしてたものが多い」
「危なすぎるから棚上げしてたものを、向こうは実戦で平気で使う」
ライサの口調には、乾いた皮肉と、わずかな羨望が混じっていた。
「それでいて、砲身が何年も保つとは思えないがな」
符術長は、紙の端を整えながら静かに言った。
「砲身が割れる前に戦局が決まれば、それでいいと考える指揮官もいる」
「船も人も符術も、使い捨てってわけか」
ライサが吐き捨てる。
「……で、こっちは?」
彼女はトールを見た。
「新兵器の分析をして、『負けた理由』が少しだけ言葉になった。で、その先は?」
トールは、ペン先を見つめた。
紙の上には、さっき符術長が口にした三つの特徴が書かれている。
射程。妨害。不明。
その下に、空白の行が一本残されていた。
「『だから、こうすればいい』が、まだ書けません」
トールは、正直に言った。
「護送隊形をどう変えればいいのか。どの距離まで近づいていいのか。妨害符にどう抵抗すればいいのか。何一つ、具体的な答えが出ていない」
「それでも何か書け、と言われるのが、これからのお前の仕事だがな」
ライサの言い方は、慰めでも叱責でもなかった。
「今のままだと、次の便を出すにしても『祈りと運任せ』になる。そんな護送に兵も船も出したくはない」
「だからこそ、符術妨害の仕組みをもっと掘り下げる必要があります」
符術長が静かに割り込む。
「アルメリアの符術塔だけでなく、港湾の塔でも試験を行う。可能なら、帝国砲弾の破片や、機雷が爆発した海水のサンプルも集めたい」
「海水まで?」
トールが目を瞬かせる。
「爆発で乱れた魔素の一部が、しばらく水に滞留しているかもしれません。符術妨害が一過性のものか、しばらく残るものかを確かめたい」
「一過性じゃなかったら、どうなる」
ライサの問いに、符術長は簡潔に答えた。
「『その海域そのものが符術の効きにくい場所になる』可能性があります」
「……冗談じゃないですね」
トールは、思わず本音を漏らした。
符術の効きにくい海域。
護符も治療符も索敵も、全部が鈍る場所。
そこに機雷と新型魔導砲を重ねられたら、護送船団はただの的でしかない。
「冗談で済む話なら良かったのですが」
符術長は、静かに首を振る。
「今のところは、仮説です。検証する時間が必要だ」
時間。
その単語に、トールの胸がひきつった。
クライネルトの砦の備蓄には、もう「時間」がほとんど残っていない。
陸の村々は焼かれ、補給の土台が削られ続けている。
ここステンブでは、「時間が欲しい」と言っている。
その時間を稼ぐための護送が、砲と機雷に叩き戻されてきたばかりだというのに。
会議が一段落し、符術符術長と艦付きの符術士が部屋を出て行った後も、トールとライサは残っていた。
窓の外には、灰色の海が広がっている。
港に係留された船のマストと帆が、冷たい風に揺れていた。
「中尉、お前、正直に言ってみろ」
沈黙を破ったのは、ライサだった。
「今のステンブの仕事で、一番『見えてない』のは何だと思う」
「……負け方、です」
トールは、自分でも驚くほどすんなりと、その言葉を口にしていた。
「さっき会議で言っていたことの繰り返しですが」
「繰り返しでいい。もう一度言え」
ライサの声は、普段より少しだけ低かった。
「今の私たちは、『何に負けているのか』を、まだちゃんと掴めていません」
トールは、窓の外の海を見た。
「帝国の新型魔導砲と機雷と、符術妨害。その組み合わせに押されていることは分かる。船が沈んだ。村が焼かれた。砦の備蓄が減っている」
数字としては、全部「分かっている」。
「でも、その一つ一つがどう繋がって、どんな形の敗北に向かっているのかが見えていない。いつ、どこで、何が決定的になるのかも分からない」
「負け方の形が分からないと、止め方も分からない」
「はい」
トールは拳を握り締めた。
「旧式の教範には、『こうすれば負ける』が、それなりに書いてありました。密集隊形のまま突っ込めば砲の餌食になる、とか。陸の補給線を軽視すれば兵が飢える、とか」
「それを避けるのが、『まともな指揮官』ってやつだな」
「でも、今は教範に書いてある負け方から一歩外れた場所で、帝国が新しい負け方をこっちに押し付けようとしている」
トールは、自分の机の上を見下ろした。
魔素波形の紙。損耗率。村落焼失報告。砦の備蓄。
全部揃っているのに、そこから導き出せるのは「まずい」という曖昧な感覚だけだ。
「このままだと、気がついたら『負けていた』になる」
言いながら、その言葉の軽さに自分で腹が立った。
気がついたら負けていた。
その一言の中に、沈んだ船の重さも、焼かれた村の煙も、砦の寒さも包まれてしまう。
「……だから、せめて」
トールは、インクの乾きかけたペンを握り直した。
「せめて、『どう負けているのか』だけは、紙の上にちゃんと描きたい」
負けた理由が分からないまま、次の便を出すわけにはいかない。
戦術が追いついていないのか。
情報が足りないのか。
符術妨害への耐性を作れていないのか。
そのどこにどれだけ問題があるのかを、紙の上に叩き出す。
それが、「負け方を選ぶ」ための最低条件だ。
「欲張りだな、お前は」
ライサが呆れたように言った。
「勝ち方じゃなくて負け方から整理するなんて」
「勝ち方は、今のところ影も形も見えないので」
「正直でよろしい」
ライサは、窓の外の灰色をしばらく眺めた。
「……いいか、中尉。今の時点で、お前が紙の上に書けるのは『ここが分からない』って線だけだ。それを恥じるな」
「分からない、を、ですか」
「『分からない』をちゃんと並べておかないと、偉そうな連中はそこに勝手な答えを埋め始める」
ライサの口元に、冷たい笑みが浮かんだ。
「『砦が頑張ればいい』『現場の度胸で何とかしろ』『士気で妨害を乗り越えろ』。そういう言葉でな」
トールは、喉の奥がひやりと冷えるのを感じた。
確かに、そういう「答え」は、既にいくつかの文書の端で見かけている。
損耗率の数字の横に、小さく添えられた「士気は維持されているものと認む」という一文。
「『分からない』を紙に並べるのも、ちゃんとした仕事だ」
ライサは言った。
「その上で、新兵器の分析も、符術妨害の検証も、全部『ここを埋める』ための作業になる」
トールは、ペン先を紙に落とした。
魔素波形の紙の端に、一本縦の線を引き、その左にこう書いた。
──分からないこと一覧。
書いても書いても、「分からない」がなくならない。
むしろ、挙げれば挙げるほど、目の前の霧が濃くなっていくような感覚すらあった。
「……ひどいリストですね」
「上等だ」
ライサは、にやりとも苦笑ともつかない表情をした。
「負け方が分からないなら、『分からないまま負けた』って記録を残すしかない。それが次の誰かの役に立つかどうかは、そのときの世界次第だ」
「今は、私たちの世界ですね」
「その世界がどっちに傾くかも、まだ分からん」
ライサは椅子から立ち上がる。
「符術妨害の検証は、符術符術長に任せる。お前はお前で、港と艦隊、陸軍から引っ張れる情報をかき集めろ。『分からない』を誤魔化すためじゃなく、ちゃんと囲い込むためにな」
「はい」
返事をしたものの、トールの胸の中の重さは、少しも軽くならなかった。
夜、港の灯が一つ一つともり始めたころ。
トールは、一日の終わりに帳簿を閉じる代わりに、さっき書いた「分からないこと」リストを見直していた。
窓の外には、相変わらず灰色の海がある。
昼と違うのは、黒い水面の上に、灯りの筋だけが伸びていることだった。
帝国の新型魔導砲が届く距離の向こうでも、きっと同じような灯りが揺れているのだろう。
砲身を冷やすための火。妨害符の塔を照らす松明。機雷を仕掛け直す手元の灯。
(向こうの符術士も、砲兵も、きっと何かを「分かって」やっている)
その「何か」が、こっちにはまだ影も形も見えない。
どうしてそんな距離から正確に砲を撃てるのか。
妨害の符はどんな刻み方をしているのか。
機雷帯はどうやって敷設しているのか。
その全部が、「分からない」。
分かっているのは、結果だけだ。
船が沈んだ。
村が焼かれた。
砦の備蓄が減った。
護符が鈍った。
術式が途切れた。
それらの点をどれだけ繋ごうとしても、「ここから先は空白です」という線に突き当たる。
「負け方すら、か」
トールは、誰にともなく呟いた。
どういう順番で、どんな形で、何を失っていけば「負け」になるのか。
帝国は、それをもうどこかで計算済みなのだろうか。
ステンブの机の上には、まだその地図がない。
負け方の形も、勝ち筋の形も、まだ紙の上には描かれていない。
あるのは、数字と、乱れた波形と、「分からないこと」の列だけだ。
窓の外で、港の鐘が鳴った。
いつもの時刻を告げるだけの音が、妙に遠く聞こえる。
トールは、ペンを置いた。
机の上の紙の山の一番上には、あのリストが乗っている。
──分からないこと一覧。
その一番下の余白に、彼はもう一行だけ付け足した。
──「負け方」そのもの。
インクが、じわりとにじむ。
その言葉が乾ききる前に、トールは明かりを落とした。
暗闇の中で、窓の外の海だけが、うっすらと灰色に浮かんでいる。
帝国の砲口の向きも、妨害符の塔の位置も、その海のどこにあるのか、まだ誰も知らない。
「負け方すら分からない」まま、ステンブの一日は終わった。




