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第8話 紙の上で、負けていく

──「数字でしか見えない敗北」の積み上がり──


トール・レンブラントの机の上から、「足りない」の列は消えていた。

机の脚元から冷えが這い上がり、指先の感覚を鈍らせる。


代わりに並んでいるのは、もっと無機質で、もっと冷たい言葉たちだ。


──戦死。

──行方不明。

──損耗率。

──積み荷到達率。

──艦体損傷度。


それぞれの語の右には、きっちりした数字が書き込まれている。


第一護送船団・戦闘報告書。

西部艦隊第七護衛艦アルメリア艦長署名済み。

港湾警備隊連絡士官・トール・レンブラント確認印押印済み。


(書類としては、完璧なんだろうな)


自分の押した赤い印章を眺めながら、トールは心の中で吐き捨てる。


そこには、「レーヴェ喪失」という文字も、「生存者〇名」という数字も、きちんと記録されている。

何一つ取りこぼしはない。報告書としては。


「中尉、艦隊本部からの控えも届いたぞ」


扉をノックもせずに、ライサ・グレイン副隊長が入ってきた。

手には新しい封筒が何通も挟まれている。


トールは席を立ち、受け取った。


一通目。

封蝋を割ると、整った字の通達文が現れる。


『第一護送船団は、帝国長射程魔導砲および機雷帯に対する初動接触として有用な戦闘データを取得したものと評価する』


トールの目が、その行で止まった。


「……有用」


「紙の上じゃ、そう書くしかないさ」


ライサが肩をすくめる。


「『レーヴェ沈没おめでとう、貴重な実験でした』なんて書くわけにもいかないだろ」


続きがある。


『損耗率については許容範囲内と認む。今後は取得データを基に護送戦術の改訂を行い、第二便以降の損害軽減に資すること』


許容範囲内。

トールは唇の内側を噛んだ。


(どこまでが「許容」なんだ)


報告書の別紙には、細かな数字が並んでいる。


護衛艦アルメリア:小破。乗員戦死二名、負傷五名。

商船ブランシュ:軽微損傷。死傷者なし。

商船サフィラ:小破。死者一名、負傷者数名。

商船レーヴェ:喪失。乗員・搭乗者のうち戦死・行方不明二十二名、生存者十五名。


右端に小さな字で、「全体損耗率:二三%」とある。


「二三パーセント、だそうだ」


トールは半分投げやりに読み上げた。


「戦死と行方不明合わせて二三%。紙の上だと、綺麗な数字ですね」


「数字として綺麗かどうかは、死んだ奴には関係ないさ」


ライサは机の端に腰を乗せ、報告書を覗き込む。


「許容範囲内ってのは、『このくらい死んでも次の便を出せる』って意味だ。そういう言葉だからな、あれは」


「……分かってはいるんですが」


トールは、視線を数字から外せなかった。


二、一、二十二。


並んでいるのは、ただの記号だ。

顔も、声も、名前もない。ただの「数」。


だが、海の上で見た光景が、どうしてもその背後にちらつく。

霧の中で沈んでいく船。最後まで見えなかった腕。浮かんでいた頭。


「俺が机の上で組んだ護送計画の結果が、これなんですよね」


自嘲が混じる。


「出港前は、補給計画表と積み荷リストに数字を埋めていた。戻ってきたら、今度は損耗率で埋め直す」


「それが『補給を預かる』って仕事だ」


ライサの声は冷たくも厳しくもなかった。ただ、事実だけを告げていた。


「お前が数字の向こうを見ようとするのは勝手だが、仕事を放り投げて悩むのは趣味にしてくれ」


トールは思わず苦笑する。


「趣味にしたくない趣味ですね、それは」


「じゃあなおさら早く終わらせろ」


ライサは新しい封筒を一通持ち上げた。


「こっちは陸軍方面本部から。クライネルト戦線の補給状況の照会と、『ステンブ港の責任範囲』についての確認だ」


責任範囲。


その四文字に、嫌な予感が背中を走った。




港湾詰所の会議室には、またしても人が集まっていた。


西部艦隊の連絡将校、港湾警備隊長代理オーウェン・セルツ少佐、ライサ、副官たち。

そこに今日は、陸軍方面本部の将校が一人加わっている。


肩章の星の数だけ、机の上に置かれた紙が増えたように見えた。


「では、クライネルト戦線の現状を確認する」


陸軍将校が淡々と読み上げる。


「クライネルト要塞守備隊、兵力減少にもかかわらず陣地を維持。帝国軍の進出を抑え、周辺村落からの避難民を収容中。現時点で、砦内人口約三千三百。うち、戦闘可能兵力は半数以下」


トールは、手元の紙に走るペンを止めた。


数字だけが、また増えていく。


「砦の備蓄について」


「備蓄食糧は元々、一ヶ月相当。ただし避難民増加と、帝国側の小規模包囲による補給困難により、実質二週間に短縮」


将校は、別の紙をめくる。


「砲弾・符薬については、前月末時点で『通常戦闘を一週間継続可能』の残量。その後も断続的な小競り合いが発生しているため、本日時点の残量は、それよりも少ないと推測される」


会議室の空気が、じわりと重くなる。


(そこに、第一護送船団の到達率を掛けるわけか)


トールは、喉の奥が乾くのを感じながら思った。


彼の机の上にあった別の紙には、積み荷の到達率が記されている。


穀物・保存食:当初予定の七割弱。

医薬品:五割強。

符薬・治療具:半分以下。

砲弾:三割。


レーヴェの喪失が、そのまま空白として残っている。


「陸路の補給はどうなっている」


港湾警備隊長代理が問うと、陸軍将校は顔をしかめた。


「……陸路側にも問題が発生している」


新しい紙が机の上に広げられる。


そこにはいくつかの村の名前が並び、その右に短い報告が付いていた。


──ベルン村:帝国斥候部隊による襲撃。穀倉・倉庫焼失。戸数の半数以上が被害。

──レント村:退避遅れにより家屋多数焼失。死者数不明。

──エッゲン村:住民の大半が避難済み。村落としての機能喪失。


「これらは、すべてクライネルト方面への陸上補給路を支えていた村落だ」


将校の声は、淡々としていた。


「帝国側は、砦そのものを力攻めするより先に、『砦を支える土台』を削りにかかっている。我々が期待していた『陸からの補給』は、この数日で大きく目減りした」


トールは、紙の上の村名をぼんやりと眺めた。


ベルン、レント、エッゲン。


どれも、地図上では小さな点でしかなかった場所だ。

ステンブに赴任してから一度も足を運んだことがない。顔も、空の色も知らない。


報告書の中の言葉は、さらに冷たい。


「焼失」。

「機能喪失」。

「避難民一部未確認」。


そこには、燃える家の匂いも、逃げ惑う声も描かれていない。

ただ、「補給能力:喪失」とだけ結論が記されていた。


「つまり」


西部艦隊の連絡将校が低く言う。


「陸の補給も、海の補給も、同時に削られていると」


「その通りだ」


陸軍将校が頷く。


「クライネルト守備隊は善戦している。こちらの予想を超えて粘っているとも言える。だが、それを支えるはずの背後が、日に日に軽くなっている」


「そこで、ステンブの名前が出てくるわけだな」


ライサが、わざとあからさまな溜息をついた。


「『海からの補給が間に合わない責任』を、どこに投げるかって話だ」


「責任の所在を明確にするのは、指揮系統の維持に必要なことだ」


陸軍将校の口調は、教本から抜き出したかのように整っている。


「ステンブ港は、西部沿岸補給線の要だ。港湾警備隊と西部艦隊が協調し、海路の安定確保に努めなければならない」


トールは、視線を落としたまま話を聞いていた。


(『努めなければならない』)


言葉自体は正しい。

だが、その前後に挟まれた数字たちが、言葉の重さを変えてしまう。


第一護送船団・損耗率二三%。

陸上補給路・支援村落三ヶ所焼失。

砦の備蓄・残り日数二週間未満。


机の上で、それらが一列に並ぶ。


「中尉」


突然、名を呼ばれて顔を上げた。


陸軍将校の視線が、トールを捉えていた。


「護送計画を立案したのは君だな」


「……はい。港湾警備隊として、西部艦隊と協議の上で」


「今回の損耗率について、補給担当としての見解を聞きたい」


見解。


それは、数字を扱う側に求められる「言葉」だ。


トールは一瞬だけ目を閉じ、頭の中の数字を並べ替えた。


「護送計画は、『旧来の護送教範』を土台に修正を加えたものでした」


トールは、正直に口を開く。


「密集隊形を崩し、進路をずらし、夜間航行を前提に組みましたが、それでも帝国側の新戦術には対応しきれなかった」


「つまり、護送戦術の前提が崩れたと」


「はい」


トールは、机の上の紙を見つめる。


「今のまま同じやり方で第二便、第三便を出せば、損耗率はさらに悪化します。砦に届く物資は減り、こちらの商船と人員も削られていきます」


「では?」


陸軍将校の視線が重くのしかかる。


「港としては、どうすべきだと考える」


「……正直に申し上げれば、『分かりません』」


会議室に、短い沈黙が落ちた。


ライサが横目でトールを睨むのが見えた。

西部艦隊の将校の眉もわずかに動いた。


それでもトールは、そのまま口を閉じなかった。


「現時点では、『何を変えれば勝てるのか』すら見えていません」


彼は続ける。


「長射程魔導砲の射程と精度。機雷帯の配置と起動条件。帝国側の意図。どれも断片的な情報しかない。今回の護送は、敵の新戦術に『ぶつかってみた』だけの状態です」


「ぶつかってみた結果が、船一隻喪失か」


「はい。そしてそれは、おそらく『まだ軽いほう』です」


トールは、自嘲めいた笑いを浮かべた。


「このまま何も変えずに続ければ、クライネルト戦線は『補給不足による敗北』を迎えるでしょう。その責任の一部は、間違いなくステンブにくる」


陸軍将校が、じっとトールの顔を見た。


「では、君はどうしたい」


「……負け方を、せめて自分たちで選べるようにしたい」


思わず漏れたその言葉に、自分自身が驚いた。


会議室の空気が、ゆっくりと揺れる。


「今のままでは、何も選べません。砦の備蓄も、陸の村も、海の護送も、『気がついたら削られていた』という形で失われていく」


トールは、数字の並んだ紙を指で叩いた。


「ここにあるのは、すべて『結果』だけです。レーヴェが沈んだ数字と、村が焼かれた数字と、砦の残量の数字と。それを見せられて、『次はどうする』と問われる」


それが、「数字でしか見えない敗北」だった。


誰も、ベルン村がどんな畑を持っていたかを語らない。

レント村でどんな祭りがあったかも、エッゲン村でどんな酒が造られていたかも知らない。


知っているのは、「補給能力:喪失」と、「避難民:推定〇名」という数字だけだ。


「だからこそ」


トールは、自分の声が震えていないことを確かめながら言った。


「海で起きたことを、ただの損耗率や座標だけではなく、『どう負けたか』として洗い出す必要があります。砲撃のタイミング、機雷帯の反応、護送隊形の崩れ方。全部です」


それは、次の話だった。


新兵器の分析。符術の妨害。負け方すら分からない状態を、少しでも「分かる」に近づける作業。


「その上で、護送計画を組み直すしかない」


トールは、陸軍将校を見据えた。


「ただし、『次の便をいつ出せ』という要求に、今すぐ答えることはできません。数字だけ積まれても、海の上では船が沈むだけです」


会議室に、冷たい静寂が広がる。


やがて、陸軍将校が細く息を吐いた。


「……少なくとも、状況認識の甘い楽観論は聞かずに済んだ」


皮肉とも評価ともつかない言葉だった。


「クライネルト戦線は、まだ粘っている。その粘りを無駄にしないよう、こちらも『負け方』を選ぶ努力くらいはするとしよう」


会議は、それでひとまず終わった。




夕刻、トールはひとり詰所の部屋に戻った。


窓の外には、ステンブの港が見える。

護送船団から戻ったブランシュとサフィラとアルメリアが、静かに係留されていた。


あの甲板のどこかに、空になった寝台や、空いた椅子があるのだろう。

彼らの名前は、明日には名簿の一行として死亡欄に移される。


机の上には、今日一日で増えた紙束が山になっている。


戦闘報告。損耗率。補給不足。村落焼失。砦の備蓄。

どれも数字で表現されていて、どれも「現実」の欠片だ。


トールは、黒いインクの瓶を手に取った。


最初の護送計画を立てたときに使った紙を、一枚引っ張り出す。

端に小さく、「第一護送船団案」と書いてある、あの紙だ。


その余白に、横一列の線を引いた。


そこに、今日増えた言葉を一つずつ並べていく。


──レーヴェ喪失。

──村落ベルン・レント・エッゲン機能喪失。

──砦備蓄残量:実質十四日未満。

──護送損耗率:二三%。

──補給要求未達。


そして、その下に、丸で囲んだ一行を付け加えた。


──「数字でしか見えない」敗北、継続中。


書いてしまってから、自分で苦笑する。


「報告書には書けないな、これは」


インクが紙に染み込み、乾いていくのを眺める。


外では、港の鐘が鳴った。

いつもと同じ鐘の音だ。昼夜を告げるはずの、日常の音。


だが、その響きの向こうには、焼かれた村の沈黙と、砦の薄い壁と、沈んだ船の底が重なっていた。


(次に書く数字は、せめて『どう負けたか』を示せるものにしないと)


そう思いながらも、トールはよく知っていた。


今のステンブにはまだ、「負け方すら分からない」部分がいくつも残っている。

帝国の砲の射程も、機雷の配置も、符術がどこまで妨害されているのかも。


それでも、机の上の数字は、明日も増えていく。


港の外では、ウーニヒ海の風が灰色の水面をなでていた。

海も陸も、まだ燃えている最中だと告げるように。

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