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第7話 灰色の海に、沈むもの

──ゲイル視点・旧式戦術の崩壊──


最初にそれを嗅ぎ取ったのは、風だった。


潮とタールと木の匂いに混じって、妙な臭いが鼻の奥を刺す。

油と鉄。それから、焼けた石の粉をそのまま煙にしたような、乾いた焦げ臭さ。


ゲイル・ドナンは、片目を細めて夜明け前の空を見上げた。


塩で荒れた手の節が太く、短い髭の間に古い傷跡が走っている。眠気より先に体が起きるのは、そういう生き方のせいだ。


護衛艦アルメリアの甲板は、まだ半分眠っている。板の上には薄い霜が残り、歩くたびに靴底が小さくきしんだ。


マストの綱だけが風に鳴り、船体はゆっくりとうねりに合わせてきしんでいた。


(港の臭いじゃないな)


ステンブの埠頭でも油と鉄の臭いはする。だがあれはもっと重たく、足元から立ち上る。

今、風が運んでくるものは、遠くで焼かれた何かが、薄く伸びて漂ってきている感じだった。


「隊長、まだ夜までだと思ってましたが」


背中に声が飛んできて、ゲイルは振り向く。


毛布を肩に引っかけたまま、長身の傭兵バルツが欠伸を噛み殺していた。


「起きるのが早いほうが、死ぬのは遅くて済む」


ゲイルは肩を回しながら立ち上がる。


「悪いが、起きてる奴から起こしてこい。荷物まとめさせろ。すぐ動けるようにだ」


「まだ鐘も鳴ってませんぜ」


「鐘が鳴ってから動くのは、平和な港の話だ」


バルツが舌打ちしながら仲間の方に向かうのを見届けてから、ゲイルは艦中央へと歩いた。




符術塔の根元では、すでに何人かが起きていた。


艦長リュゼン、艦付きの符術士、それから港湾警備隊の連絡士官トール。

塔の側面に刻まれた符が淡く明滅し、その光がトールの顔の隈を青白く照らしていた。


「何か引っかかったか」


ゲイルが近づいて問うと、トールが顔を上げる。


「……索敵符には大きな反応はありません。ただ、海面の魔素の揺らぎ方が少しおかしい」


「おかしい?」


「この辺りの潮なら、本来はもっとなだらかに流れるはずなんですが、筋が何本か、妙に痙攣しているような」


トールは海図の一点を指でなぞった。


「自然な波じゃない。何か『置かれている』ところを、魔素の流れが避けている感じです」


「置いてある、ね……」


ゲイルは、鼻先をかすったあの臭いを思い出す。


「油と鉄と、焼け石の臭いがする」


「焼け石?」


「砲身の臭いだよ、中尉。大口径砲を無理やり長時間回した場所の空気は、だいたいそんなふうになる」


トールの喉が、ごくりと鳴る。


「そんな距離から砲撃を?」


「帝国の砲術屋は、砲身の寿命より戦果を優先する連中だ。砲身が割れようが、標的が沈めば勝ちだと思ってる」


ゲイルは海図の端を指で叩いた。


「こっちの教本に書いてある『安全距離』なんざ、あっちには何の意味もない。届くまで伸ばして、届くうちは撃つ。それだけだ」


リュゼン艦長が、短く息を吐いた。


「帝国沿岸砲台、あるいは浮き砲台か。視界に捉える前から殴られるのは、気に入らんな」


「殴り返そうにも、相手の顔が霧の向こうじゃな」


ゲイルは肩をすくめた。


「それと、中尉の言う『何か置いてある』って話だが……心当たりがないわけでもない」


トールが目を細める。


「……機雷、ですか」


「海に浮かべる地雷だな。あいつら、あれに符術をくっつける遊びを覚えて久しい」


ゲイルは昔読んだ報告書を引きずり出す。


「鉄球に火薬と刻印を詰めて、錨鎖で一定の深さに吊るす。昔は晴れた湾口にしか置けなかったが、魔素で浮き沈みを調整できるなら、霧の中でも関係ない」


「……自然な魔素の流れをわざと乱して、『いてほしくない場所』を作る」


トールの声が低く沈んだ。


「教本に載っている護送教範には、そこまでの前提はない」


「教本が追いつくのは、たいてい前の戦争までだ」


ゲイルは鼻から息を抜いた。


「今ここでやってるのは、『次の戦争』のやり方の実験だろうさ。帝国にとっても、こっちにとってもな」




最初の閃光は、静かすぎるほど静かに見えた。


霧の向こう、水平線よりやや高いところで、細い白い線が一瞬だけ走る。

雷にしては低すぎて、海に落ちるには高すぎる。


「砲閃!」


見張りの叫びと同時に、リュゼン艦長が吠えた。


「全員、衝撃に備えろ!頭を下げろ!」


ゲイルは傍にいた傭兵の首根っこを掴んで甲板に引き倒す。

次の瞬間、空気が裂けた。


唸りというにはあまりにも太く、風というには重すぎる圧が、頭上を駆け抜ける。

音が追いついたときには、もう遅い。


視界の端で、世界が白く跳ねた。


遠く、護送船団の列のあたり。

灰色の海面から、巨大な水柱が一本、天に向かって突き上がる。


鼓膜を殴る衝撃音が遅れて届き、《アルメリア》の船体がどんと揺れた。


「被弾か!」


「違う、外れだ!」


ゲイルは、身体に伝わる振動でそう断じた。


「今のは水柱だけだ。だが、あの高さなら、二、三度で距離を合わせてくる」


霧を割って見えるのは、商船ブランシュの手前あたりに立ち上る白い煙と水。

一本目で「届いた」ことを確かめた砲兵は、次に「当てる」。


「全砲、応射準備!」


艦長の声に、アルメリアの側面の砲門が一斉に唸り始める。


装填符が起動し、砲身に刻まれた刻印が淡く光る。

見えもしない敵座標に向けて、弾が押し込まれていく。


「目標、海図上北北西―四!距離は推定で五!」


砲術士が叫び、符術塔から照準補正の符が流れ出した。


「一斉射!」


轟音が艦全体を揺らし、火薬の匂いが一気に濃くなる。

アルメリアの砲弾は霧の壁に吸い込まれていき、その先で何を砕いたのかは分からない。


(目に見える敵なら、砲門三門もあれば片を付けてやれるのによ)


ゲイルは内心で毒づいた。


(今やってるのは、霧の中に拳を振り回す喧嘩だ)


「再装填急げ!間隔を詰めろ!」


艦長の怒号が飛び交い、甲板が忙しなく動き出す。


そのときだった。


符術塔の光が、不自然なリズムで明滅し始めた。




「……やっぱり、おかしい」


トールの声が震える。


「何がだ」


「海面の魔素の脈動です。さっきよりもはっきり、『筋』が増えている」


塔の表面に浮かぶ魔素流の図は、いくつもの細い線を描き、その一部が規則正しく波打っていた。


「潮の流れにしては、あまりに均一すぎる。自然にできた渦じゃない」


「帝国が『置いた』筋ってわけか」


ゲイルの背中を、冷たいものが伝う。


「中尉。機雷の教本には何て書いてあった?」


「湾口防御用の旧式兵器。視界の良い水域でのみ有効。……『濃霧地帯での運用は想定されていない』」


「そいつを書いた連中は、帝国の符術屋を甘く見てたらしいな」


ゲイルは荒く鼻を鳴らす。


「魔素の揺れだけわざと乱しておけば、こっちの索敵符は『何かがある』とまでは教えてくれる。鋳鉄の球自体はただの塊だ。見えもしない、感じても掴めない」


「でも、そこに触れれば沈む」


トールがきつく唇を結ぶ。


「護送教範は、『機雷が存在しない前提で書かれた護送戦術』……」


「どおりで窮屈なわけだ」


ゲイルが吐き捨てた瞬間だった。


護送船団の最後尾から、腹の底を殴られるような衝撃が届く。


雷鳴とも違う、乾いた炸裂音。

続いて、木と鉄が一緒に引き裂かれる悲鳴が霧を割った。


「後方!」


見張りの叫び。


ゲイルは欄干に駆け寄り、振り返る。


商船レーヴェの船腹から、巨大な水の柱が吹き上がっていた。

霧の天井を突き破る勢いで、白と黒が入り混じった柱が立ち昇る。


船体の側面には、大穴が空いていた。

そこから、黒い海水が怒涛のように流れ込み、《レーヴェ》はゆっくりと、しかし確実に片側へ傾いていく。


「機雷だ!」


誰かが叫ぶ。


アルメリアの甲板にも、遅れて衝撃波が叩きつけられた。

ゲイルは手すりにしがみつき、近くの部下を掴んで地面に押し倒す。


(綺麗に、腹をなぞったな)


爆風は上よりも横に広がり、レーヴェの舷側をえぐり取っている。

古い木造船なら、あの一撃でそのまま真っ二つだ。鉄補強のおかげで形だけは保っているが、中身は既に死にかけていた。


「レーヴェより信号!『舵効かず、浸水急激』!」


「補助艇を出せ!救助班を編成!」


艦長の怒号が飛ぶ。


「駄目です艦長!」


トールがほとんど叫ぶように声を割り込ませた。


「今、この距離でアルメリアから救助艇を出したら、同じ帯に引っかかります!魔素の乱れからして、レーヴェの周囲にはまだ複数の機雷が……!」


「見殺しにしろと言うのか!」


「『今は』、です!」


トールの声が震えた。


「機雷帯の範囲と、起動条件を読み違えれば、救助艇ごと沈みます!レーヴェの周囲がどこまで『死んでいる』かを見極める時間が要ります!」


「時間をかければ沈む!」


リュゼンとトールの視線がぶつかる。


そのやり取りを見ながら、ゲイルは歯ぎしりした。


(教本なら、「損失は止むなし。残存艦は前進」だ)


被弾した商船は盾と見なす。

戦列を乱さず、砲火の中を突っ切る。


それが、紙の上で習った「勇敢な護送」の形だ。


(だが、今目の前で沈みかけているのは、ただの商船じゃない)


ゲイルは海を睨みながら声を上げた。


「艦長!」


「何だ、隊長!」


「救助艇はアルメリアじゃなく、ブランシュから出させろ!あっちはまだ魔素の流れが自然だ!」


トールがはっとこちらを見る。


「さっきの砲撃と爆発の位置、それから潮の向き。帝国はこういう機雷帯を真っすぐじゃなく、斜めにずらして埋める癖がある」


ゲイルは海図の上に指で斜線を引いた。


「ここと、ここを結ぶ線だ。レーヴェはその真ん中で食った。アルメリアは帯の中腹、ブランシュはまだ外縁にいる」


リュゼンが目を細める。


「根拠は?」


「昔、北方の湾を同じように地雷だらけにされた。あいつら、やり方を気に入ると場所を変えても繰り返す」


艦長は短く息を吐き、決断した。


「ブランシュに信号!『救助艇一隻発進せよ。機雷帯情報を送る』!」


信号旗が翻り、光信号が霧の中で瞬く。

遠くの甲板で、ブランシュの船員たちが慌ただしく走り出す影が見えた。


「アルメリアはその場で速度を落とせ!これ以上、機雷帯に踏み込むな!」


リュゼンの怒号が飛び、艦内の鐘が鳴った。




救助艇が出る間にも、砲撃は止まなかった。


二発目、三発目の水柱が、護送船団の先の海面で立ち昇る。

帝国の砲兵は、なおも「隊列の中心」を狙っている。


「敵砲列の正確な位置は分からんが、あの高さなら丘の上か浮き砲台だな」


ゲイルが唾を吐き捨てる。


「視界の端だけをかすめて撃ってきやがる。こっちの砲が届くかどうかぎりぎりの距離だ」


「砲撃を続けられるのは、向こうも余裕があるからでは?」


トールが低く問う。


「教本どおりなら、護衛艦が前に出て火力で黙らせるべきですが……」


「教本どおりの距離じゃないんだよ」


ゲイルは苦笑に似た顔をした。


「近接戦でひっくり返せる範囲から、相手が一歩外に出た。そしたら、教本は紙くずになる」


そのあいだにも、レーヴェはゆっくりと沈んでいく。


船腹から噴き出していた水柱は勢いを増し、傾きは度を越した。

甲板から人影が次々と海へ飛び込み、救助艇が波を蹴って近づいていく。


海面には、黒い点がいくつも浮いていた。

人の頭だ。両腕を振り、何かを叫んでいるが、その声は風と砲声にちぎられて届かない。


トールが拳を握り締める音が聞こえた。


「……ここまで計算して護送計画を組んだつもりでした」


彼は自嘲とも嘆きともつかない声で言う。


「密集を緩めて、進路をずらして、灯火も最小限にして。教本に手を加えた『つもり』だったのに」


「『つもり』にしては、よくやったほうだ」


ゲイルはあえてぶっきらぼうに返す。


「ただ、相手が一段先を行ってただけだ。長射程魔導砲と機雷で海を『塗りつぶして』くる戦争を、こっちが初めて踏んだ。それだけの話だ」


「それで沈んだ者たちは、『それだけ』で済まない」


「済まさねえために、海から戻るんだろうが」


ゲイルは、沈みかけたレーヴェから目を離さずに言った。


「ここで全部抱えて沈むか、ここの光景を丸ごと持ち帰るか。選べと言われたら、俺は後者を選ぶ」




砲撃の間隔が、少しずつ空き始めた。


帝国側が照準を微調整しているのか、それとも弾を節約し始めたのか。

どちらにせよ、商船二隻と護衛艦一隻には、わずかな呼吸の隙間が与えられた。


「レーヴェ、傾斜角さらに増大!」


見張りの声が乾いて耳に落ちる。


黒い船体が、海に吸い込まれる寸前の角度で固まり、最後にマストが軋んで折れた。

太い木が悲鳴を上げるような音が海霧の中で弾け、次の瞬間には、船影は水飛沫と白泡の中に姿を消す。


救助艇は限界まで人を拾い上げていた。

それでも、すべての頭を浮かび上がらせるには足りない。


誰かの腕が、波間に伸びては消え、もう一度は見えなかった。


ゲイルは帽子を脱ぐこともしなかった。ただ、まぶたの裏に沈んでいく船の線を焼き付ける。


(ここでいくら甲板を叩いても、砲弾は空から降り続ける)


旧い護送教範に書いてあったのは、「被弾艦を盾にしつつ前進せよ」だ。

傷ついた船を切り捨て、隊形を維持することが、「犠牲を最小限に抑える」と。


(今の海じゃ、それは『全部沈む』って意味だ)


リュゼン艦長が静かに口を開いた。


「……アルメリア艦長として、命令を下す」


彼の声は、砲声と波音の中でもはっきり通った。


「第一護送船団は、本時点をもって目標海域への進出を中止。残存船舶は救助活動を可能な範囲で継続したのち、ステンブ港への帰投を最優先とする」


トールがはっと顔を上げる。


「帰投、ですか」


「撤退ではない」


リュゼンは首を横に振った。


「帝国がこの海にどう罠を張ったかを、丸ごと持ち帰る。長射程魔導砲と機雷帯の実戦データと、船を一隻沈められたという事実と一緒にな」


ゲイルは、乾いた笑いを一つ漏らした。


「いい判断だ、艦長。旧い教範に首を絞められるより、ずっとマシだ」


「お前がさっき言ったろう、『曲がる』と」


艦長はわずかに口元を歪める。


「旧式戦術にしがみつけば、護送船団ごと海の底だ。今は、戦い方そのものを曲げる時だ」


トールは、海図に伸ばした指先を震える手で動かした。


クライネルトへ向かって伸ばしていた線が、そこで大きく折れ曲がる。

ステンブへ戻る方向へと。


それは、紙の上では「帰投」の線にすぎない。

だが、甲板の上では、ひとつの戦い方が壊れていく音でもあった。


「中尉」


ゲイルは、隣に立つトールに声をかけた。


「港に戻ったら、机の上の『足りない』って列に、新しいのを足しておけ」


「……何をですか」


「『教本が足りない』だ」


トールは一瞬言葉を失い、それから苦く笑った。


「それを埋めるために、自分たちで血を流していると?」


「戦争ってのはだいたいそういうもんだ」


ゲイルは、灰色の海を睨む。


「昔の戦い方で勝てるなら、誰もこんな場所まで来ない。お前が港で引いた線も、俺たちがここで見てる光景も、全部まとめて、新しい『正しさ』に書き換えるしかない」


アルメリアは、舳先をわずかに回頭させた。

ブランシュとサフィラもそれに倣い、進路を変える。


クライネルトから遠ざかる方向へ。

ステンブへ戻る、灰色の道筋へ。


まだ帝国の砲声は、遠くでくぐもった響きを残している。

けれど、その音はさっきよりも確かに遠い。


ゲイルは一度だけ目を閉じ、深く息を吸った。


火薬と潮と、沈んだ船の残り香。

旧い戦術教範には載っていない、今この瞬間の答え。


(近接戦で「なんとかする」時代は終わった)


敵の舷側に取りつき、火矢を浴びせ、白兵戦でひっくり返す。

あれで生きてこられた頃の海は、もうここにはない。


(これから先は、砲と罠の届く場所でやり合うことになる)


ウーニヒ海は灰色のままだった。

その上を、護送船団から一隻減った列が、静かに帰路へと進み始める。


まだ誰も、港で待つ者たちが、その損失をどう数えるのかを知らない。


海だけが、沈んでいったものの重さを、黙って飲み込んでいた。

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