第6話 護送船団、足りない机の上で
朝の鐘が鳴る前から、トール・レンブラントの机の上には、同じ言葉がいくつも並んでいた。
──砲、足りない。
──護衛艦、足りない。
──符術士、足りない。
──熟練水夫、足りない。
──時間、足りない。
紙の端から端まで、「足りない」の文字がじわじわと侵食していく。
王都から送られてくる通達文のような飾り気は、一つもない。
ただ、目の前の事実だけが、インクの黒で増殖していた。
(前提が変わったんだ。昨日までと同じやり方で回るはずがない)
窓の外はまだ青黒い。ウーニヒ海の岸辺をなぞるように、霧が低く漂っている。窓ガラスに触れると冷たさが骨まで染みて、指をすぐ引っ込めた。
港の方角からは、鎖の擦れる音と、早出の荷役たちの怒鳴り声がかすかに届いていた。
紙の中央に、トールは太い線で四角を描いた。そこに大きく書き込む。
──第一護送船団・案。
その下に、項目を並べていく。
・目的:クライネルト方面砦への補給および負傷兵一部の引き取り。
・優先積み荷:食糧・医薬品・符薬・砲弾。
・護衛:西部艦隊より借りられる艦数「仮に」二隻。
・編成:商船三〜四、補助艦一。
(本当は、最低でも護衛三隻に哨戒用の小型艇二隻は欲しい。でも……)
別の紙には、西部艦隊からの報告書が広げられたままだ。
そこにも、似たような言葉が並んでいる。
──港防衛任務に従事中。
──沿岸砦への補給護送、継続中。
──帝国艦隊監視のため、哨戒線維持を要す。
──兵力・艦数ともに不足。
トールは額に手を当て、短く息を吐いた。
(足りないのは、西部艦隊も同じ、だな)
扉が軽く二度叩かれた。
「入れ」
自分でも驚くほど簡潔な声が出た。
扉の隙間から顔を出したのは、髪を後ろでひとまとめにした女だった。
「いると思ったよ、中尉」
ライサ・グレイン副隊長が、湯気の立つカップを片手に入ってくる。
鎧ではなく、動きやすい革ジャケット姿だが、腰の短剣だけはいつも通りだった。
「顔色が昨日よりさらに悪いな。紙に血でも吸われたか?」
「……吸われるほどの血が残っているかどうか、怪しいところです」
トールは自嘲気味に返しながら、机の上の紙束を指さした。
「第一護送船団の編成案です。とりあえず、机の上で組めるところまでは」
「見せろ」
ライサはぐいと椅子を引き寄せ、トールの隣に腰を下ろした。
カップを片手に、もう片方の手で紙をめくる。
しばらく、部屋には紙の擦れる音と、外からの波音だけが満ちた。
「……ふん」
一枚、二枚と目を通し終えたところで、ライサが鼻を鳴らす。
「悪くないな」
「本当ですか?」
「褒められ慣れてない顔だ。安心しろ、全部褒める気はない」
そう前置きしてから、ライサは指先で紙の一か所を叩いた。
「ここ。護衛艦二隻は確定じゃない。『仮に』って書いてあるが、実際には一隻になってもおかしくない」
「……やっぱり、そうですか」
「西部艦隊も、こっちと同じく足りない地獄だ。港防衛の砲を外して護衛に回せば、次に砲弾が飛んできたときに困る」
ライサは窓の方を顎でしゃくる。
「ウーニヒ海の向こう側で、帝国艦隊がどこまで前に出てるかも、まだはっきりしない。艦が余るなんてことはまずないさ」
トールは、あらかじめ用意しておいた別案を引っ張り出した。
「護衛艦一隻の場合の案も、作っています。……その代わり、商船の数を減らす必要がありますが」
紙には、別の四角が描かれていた。
──護衛艦一隻・商船三隻・補助艇一隻。
「クライネルト砦の報告では、砦内避難民三千。備蓄食糧一ヶ月分。負傷者五百超……」
「知ってる」
ライサは短く遮った。
「こっちも昨夜、何度も読み返した」
カップの中の黒い液体が、小さく揺れる。
「全部届けたい。全部乗せたい。だが船は沈むし、海には敵がいる」
言葉は素っ気ないが、声の芯は硬かった。
「だから、優先順位を決める。それが中尉の仕事だ」
「……『どの船を出して、どの船を沈めるか』でしょうか」
「そうとも言う」
ライサの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「で、中尉。今のところ、お前の答えは?」
トールは一瞬だけ目を閉じ、紙束の一枚に手を置いた。
「第一便は、死なせたくない人間を運ぶ船じゃなくて、『まだ持ちこたえている人間を、もう少しだけ戦わせるための船』にします」
「ほう」
「食糧と医薬品を最優先。砦の中で飢えと感染症が始まれば、それだけで終わりです。砲弾は、最低限の分だけ。負傷兵の引き上げは……」
そこまで言って、トールは言葉を飲み込んだ。
「後回し、か」
ライサが代わりに言う。
「それでいい。最初の一便で欲張れば、その次の便そのものが出せなくなる」
トールは大きく息を吐いた。
胸の奥に溜まっていた重さが、少しだけ形を変える。
(今、ここで線を引かなければいけない。誰を先に助けて、誰を後回しにするかの線を)
「護衛艦が一隻の場合、隊形は縦列ではなく、菱形に近い形にします」
トールは、海図の上に指で印を打ち始めた。
「旗艦兼護衛艦を前列中央。両脇に積み荷の重い商船二隻。後ろに軽めの船と、補助艇。夜間航行前提で、灯火は最小限。符術での連絡と、短距離の信号灯を併用」
「機雷だの長射程魔導砲だの、帝国が何を投げてくるか分からない中で、よくもまぁ落ち着いて並べるな、中尉」
ライサの皮肉に、トールは肩をすくめた。
「落ち着いているわけではありません。ただ……」
「ただ?」
「数字と線で囲っておかないと、全部が怖くなるので」
ライサは、ふっと笑った。
「その怖がり方は、現場向きだ。……いいだろう、案はこれでいく」
彼女は椅子から立ち上がり、紙束を抱え込む。
「西部艦隊の連絡将校と砲兵隊長、それからゲイルと詰める。お前も来い。机の上だけで決めて済む話じゃない」
「了解しました、副隊長」
トールはインク瓶の蓋を閉め、机の上をざっと整えた。
紙の端には、朝一番に書いた「足りない」の列が残っている。
砲、足りない。護衛艦、足りない。符術士、足りない。時間、足りない。
その下に、トールは新しく一行付け足した。
──それでも出すしかない。
インクがじわりと紙に染み込むのを見届けてから、彼は部屋を後にした。
港湾詰所一階の会議室は、いつもより人数が多かった。
西部艦隊から派遣された連絡将校、砲兵隊長、ゲイル・ドナン率いる傭兵分隊の代表、そして港の係留と荷役を取り仕切る古参の港長。
全員が一つの机を囲み、その中央に広げられた海図を睨んでいる。
「つまりだな」
ゲイルが、海図の端を指で叩いた。
「護衛艦は『アルメリア』一隻。砲は中口径が八門、小口径が十六。符術塔一基。これで帝国の狼煙をかき分けてクライネルトまで往復しろって話か」
「文句があるなら、西部艦隊本部にどうぞ」
連絡将校が乾いた声で返す。
痩せた顔に、徹夜の隈がくっきりと刻まれていた。
「こっちはこっちで、ステンブの海壁を剥き出しにするわけにはいかない。アルメリアを出すだけでも、砦の砲台を一段減らしてるようなもんだ」
「守る場所が多すぎるのは、どこも同じか」
ゲイルは肩をすくめる。
「で、中尉。机の上で組んだ護送船団ってやつを、現場語に翻訳してくれ」
皆の視線がトールに集まった。
紙の上で組んだ線が、ここで初めて、生身の人間の顔を持つ。
喉の奥が乾き、トールは一度だけ唾を飲み込んだ。
「……第一護送船団は、商船三隻で編成します」
トールは、海図の上に小さな木駒を置いていった。
「一隻目、『ブランシュ』。積み荷は主に穀物と保存食、それから医薬品。二隻目、『サフィラ』。符薬と簡易治療具、それに砲弾を一部。三隻目、『レーヴェ』は予備の食糧と布類、それから……」
「『それから』のところで、少し間が空いたな」
港長が細い目を細めた。
「何を積むつもりだね、中尉殿」
「……帰りの便で乗せる負傷者のための、簡易寝台です」
視線が、もう一度集まる。
「第一便では、負傷者の本格的な移送は行いません。ただ、一部だけでも乗せられるように、床を空けておきたい」
「欲張りだな」
ゲイルが苦笑する。
「だが、嫌いじゃない」
「護衛艦『アルメリア』は、ブランシュの前。サフィラとレーヴェは、その左右少し後ろ。補助艇は最後尾で、万一の時の救助と連絡に回します」
トールは、以前王都で習った「模範的護送隊形」と、自分の案を頭の中で重ね合わせる。
(教本どおりなら、護衛艦は前後に一隻ずつ。だが、そんな贅沢はできない)
「航路は?」
砲兵隊長が問う。
「通常のクライネルト直行ルートを、途中から南寄りにわずかにずらします」
海図の上に、細い線が二本引かれている。
一つは、これまで商船が使ってきた最短ルート。もう一つは、トールが夜のうちに引いた迂回ルートだ。
「帝国艦隊が沿岸寄りに出てきている以上、正面からぶつかるコースは避けるべきです」
「だが、南に振りすぎると、今度は帝国側の私掠船ルートに近づく」
港長が別の地点を指先で叩く。
「黄昏の仲介人とやらが使っている裏ルートも、その辺りで絡んでくる」
「完全に安全な道はありません」
トールは正直に言った。
「だからこそ、危険の種類を選ぶしかない。帝国本隊の長射程砲か、私掠船の刃か。……今回は、私掠船側に賭けます」
「理由は?」
「帝国本隊は、こちらの砲台ごとまとめて叩くつもりで動いているはずです。護送船団を狙うにしても、『ついで』ではなく『予定』で撃ってくる」
トールは、指を折りながら続けた。
「対して私掠船は、まだ状況を見ている段階。護送船団を襲うにしても、まずは様子見と牽制から入るでしょう。最初の便で全滅を狙ってくる可能性は、帝国本隊より低いと見ます」
「つまり、帝国よりは悪党を信じるってわけか」
ゲイルがにやりと笑う。
「聞いたか?ライサ。王都育ちの書類屋が、ずいぶん戦場っぽいことを言い始めたぞ」
「いい傾向だ」
ライサは腕を組み、トールを見下ろした。
「書類しか見ない連中なら、『どこも危険だから最短ルートで行け』って言う。危険の種類を分けて、まだマシなほうに身を突っ込むのが、前線のやり方だ」
西部艦隊の連絡将校が、黙っていた口を開いた。
「……提案に異議はありません。アルメリアの艦長も、護衛一次任務として受けると答えるでしょう。ただし」
「ただし?」
「一つ、条件がある」
将校はトールを真っ直ぐに見た。
「護送船団には、港湾警備隊から連絡士官を乗せる必要がある。現場判断と、ステンブへの即時報告のためだ」
「連絡士官……」
トールは、その言葉の意味を、頭の中で噛み砕いた。
港と艦隊の間を繋ぐ、人間の符。
紙と数字を抱えたまま、火薬と波しぶきの中に立たされる役目。
「ライサ副隊長。適任は?」
将校の視線が、自然とライサに向かう。
「うちには、王都語の書類と艦隊用の報告様式を両方まともに扱える人間が一人いる」
ライサは、わざとらしく肩をすくめて見せた。
「トール・レンブラント中尉。こいつだ」
部屋の空気が、少しだけ動いた。
「待て待て、副隊長」
ゲイルが片手を上げる。
「そいつはまだ港の石畳から先に出たこともねえだろ。波の上ってのはな、勝手に揺れるんだ。初めて海に行くやつに務まるわけがない」
「だから連れていくんだよ」
ライサはあっさりと言った。
「机の上で護送船団を組んでる頭が、海の匂いと砲声を知らないままでいるほうが、よっぽど危ない」
トールは、無意識のうちに拳を握っていた。
恐怖と、別の何かが入り混じる。
それが何かを言葉にする前に、トールは一歩前に出て、敬礼した。
「……港湾警備隊トール・レンブラント中尉。第一護送船団連絡士官としての任務、拝命します」
「よし」
ライサが満足そうに頷く。
「決まりだ。出港は?」
「準備と潮の具合を考えて、芽月一日夕刻」
西部艦隊の将校が答える。
「日没後に外海へ出て、夜陰に紛れて沿岸を離脱する。帝国艦隊の目が届きにくい時間帯を選ぶ」
「……戦争だな」
誰ともなく漏れた言葉が、部屋の天井に引っかかって消えた。
芽月(2月)の一日、夕刻。
ステンブの空は、またしても曇っていた。
海と雲の境界が曖昧な灰色の世界で、護送船団の船影だけが、かろうじて輪郭を保っている。
軍港側の岸壁では、兵士と荷役と水夫たちが最後の積み込みに走り回っていた。
樽が転がり、木箱が滑車で吊り上げられ、人の怒鳴り声が波の音と混ざり合う。
「中尉、こっちだ!」
ゲイルが手を振った。
その背後には、護衛艦アルメリアの灰色の船体が控えている。
砲門が並ぶ側面。甲板には符術塔が一本、海霧を突き刺すように立っていた。
その姿は、王都で本で見た「標準型護衛艦」の図とよく似ている。だが、実物はもっと、生々しく鉄と油の匂いがした。
タラップを上りながら、トールは一度だけ振り返った。
ステンブの海壁。
その上に、小さく立つ人影。ライサが、こちらを見下ろしていた。
彼女は手を上げるでもなく、ただ顎を少しだけ引いた。
それだけで、「行け」と言われた気がした。
甲板に足を踏み入れると、硬い木の感触が靴底を叩いた。
陸とは違う、わずかな揺れが膝に伝わる。
(これが、俺の初めての戦場か)
トールは、胸の内で呟いた。
紙の上に描いた線が、今、海図の上だけでなく、実際の海の上を走り始める。
「レンブラント中尉だな」
低い声に振り向くと、短く刈り込んだ髭の男が立っていた。
肩には西部艦隊の徽章。アルメリア艦長だ。
「艦長のリュゼンだ。護送船団編成の案、見せてもらった」
「……問題は?」
「問題だらけだが、問題の出どころをちゃんと紙に書いてある奴は嫌いじゃない」
リュゼンは、わずかに目尻を緩めた。
「連絡士官。お前の仕事は二つだ。一つ、護送船団の状況を見て、ステンブに伝えること。もう一つ、港で机の上に並べた『足りない』の列を、海の上で更新することだ」
「海の上で、ですか」
「戦争が始まった時点で、昨日までの不足表は全部古紙だ」
艦長は、遠くに並ぶ商船のマストを顎で示した。
「今日の海を見て、『足りないもの』を書き換えろ。砲か、艦か、人か、度胸か、祈りか」
「……了解しました」
トールは、思わず背筋を伸ばした。
甲板の上を、冷たい風が走り抜ける。
潮の匂いの奥に、微かに火薬の気配が混じっていた。
「総員、配置につけ!」
号令が飛び、アルメリアの甲板が一気に忙しくなる。
帆が張られ、鎖が巻き上げられ、船体がゆっくりと岸壁から離れていった。
少し遅れて、ブランシュ、サフィラ、レーヴェの三隻が順に動き出す。
積み荷を満載した船体が、波を押し分けてウーニヒ海へと滑り出していく。
ステンブの街並みが、少しずつ遠ざかる。
海壁の上の人影は、もう見分けがつかないほど小さくなっていた。
空は相変わらず低く、雲は重い。
その下で、護送船団の船影だけが、灰色の中を静かに進んでいく。
「中尉」
背後から呼ばれ、トールは振り向いた。
ゲイルが、手すりにもたれながら、海図をひと折り差し出してくる。
「これが『現場版』だ。お前の引いた線に、俺らが見た風と流れを足してある」
海図の上には、トールの線とは少し違う、細かな補正がいくつも書き込まれていた。
潮の向き、風の癖、過去に座礁しかけた地点の印。
「机の上で引いた線と、海の上で引いた線。どっちも本物だ。どっちかだけ信じると、死ぬ」
「覚えておきます」
トールは、海図を胸に抱えた。
遠く、霧の向こうで、何かが一瞬きらりと光った気がした。
波頭が砕けた光なのか、それとも別の何かなのか、まだ判別はつかない。
(帝国艦隊か。私掠船か。それとも、ただの錯覚か)
答えを知るのは、きっとそう遠くない。
トールは、冷えた風の中で、指先だけをそっと動かした。
紙の上に書き連ねた「足りない」たちが、頭の中で一列に並ぶ。
砲、足りない。護衛艦、足りない。符術士、足りない。時間、足りない。
そして、もう一つ。
(情報が、足りない)
未知の海霧と、見えない砲口と、まだ名も知らない魔導兵器。
それらすべてが、第一護送船団の進む先で、静かに待っている。
アルメリアの艦首が、ウーニヒ海の灰色を裂いた。
ステンブの港灯が、背後で小さく瞬き、やがて霧の中に飲み込まれていく。
護送船団の初出撃は、静かに始まった。




