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第5話 ウーニヒ海の不穏な影

翌朝のステンブは、やっぱり曇っていた。吐く息が白く、書類室の窓枠は氷みたいに冷えていた。


港の上に垂れ込めた低い雲が、海と街の境界をぼかしている。

造船所の煙突から上がる白煙と、海霧の筋が混じり合って、世界全体が灰色に薄められたようだった。


港湾警備隊詰所の二階、書類室。


トール・レンブラントは、机の上に置かれた二つの黒封を見比べていた。


指先の薄いインク染みが黒い封蝋に触れそうで、彼は無意識に手を引っ込めた。紙の重さだけで胸が重くなるのは、王都では味わわなかった感覚だ。


ひとつは、軍務局経由の陸軍報。

もうひとつは、西部艦隊から直接送られてきた海軍報。


封蝋に押された紋章は違うのに、どちらもずっしり重い。


「……順番としては、陸から、か」


小さく息を吐き、トールは先に陸軍報の封を割った。


黒い蝋が割れる乾いた音が、やけに大きく響いた気がした。




『王国西方方面軍より、軍務局および関係各所へ』


冒頭の定型文のあとに、整った字が並ぶ。


『帝国軍は王国暦四九〇年・光の二十三日早朝、事前通告なく、国境監視線を越境。

クライネルト方面において、複数の小村および第一・第二国境砦が急襲され、陥落』


その一行で、「戦争前夜」は過去形になった。


『敵主力は帝国第五軍を中核とするものと推定。魔導砲および装甲符騎兵の投入を確認。

国境砦守備隊は抵抗の上、戦死・潰走多数』


『現時点において、西境クライネルト方面砦は辛うじて持ちこたえ中。

砦内避難民約三〇〇〇名。

備蓄食糧一ヶ月分(節約配分を前提)。

負傷者重軽合わせて五〇〇名超。

礼拝堂および訓練場を臨時治療所として使用』


トールは、淡々と数字を追いながら、ペン先でいくつかの箇所に印をつけていく。


(避難民三千。砦守備隊の定数と照らして──)


砦という箱に詰め込める命の数は限られている。

その箱の壁は石と土でも、中身はパンと水と薬と血で出来ている。


報告書の末尾に、署名が記されていた。


──西境総督バルドゥイン・フォン・クライネルト。


その下に、短い追伸が添えられている。


『陸路補給線は、帝国第五軍の進出により分断の危機に瀕している。現状のままでは、当砦および周辺領民への補給・避難路ともに、王都方面への接続が途絶する恐れあり』


『かかる状況において、西境の門を守る我らは、ウーニヒ海を経由した補給・退避路の確保を要請する。ステンブ港は「西の鍵」にして、王国西部の血脈たる港湾なり。我らがここで扉を押さえ続ける間、そなたらには、その鍵を死守してもらわねばならぬ』


形式ばった言い回しの中に、どうしようもない切迫が滲んでいた。


トールは、手元の白紙に「陸路補給線:東方街道=分断危険」と走り書きする。


(陸が詰まりつつある。なら、残るのは海だ)


昔、王都の講義室で聞かされた戦史の一節が、頭の隅をかすめた。


「陸路が焼かれたとき、海を握っていた側が生き残る」。


その海のほとりに、今、自分は座っている。


封筒の中には、もう一枚紙が残っていた。


──なお、本状の写しは、砦魔導隊長の勧めにより送付するものなり。

夫人は現在、内郭結界の維持に当たり書面を割けず、口述のみ伝達。

「港が生きていれば、ここもまだ立ち続けられます」とのこと。


名は書かれていない。だが、おそらくはクライネルト辺境伯夫人だろうと見当はついた。

元王族で民衆からの人気もある高潔な人物。と、王都ではそのような評価を受けていた。


トールは、追伸の部分に印だけ付けて、そっと文書を伏せた。


いま必要なのは名前の物語ではない。

数字と、ルートだ。


机の上には、もうひとつ黒封が残っている。


こちらの封蝋に刻まれた紋章は、西部艦隊。


トールは、短く息を整え、その封も割った。




『西部艦隊より、港湾警備隊ステンブ本部へ』


本文は、陸軍報よりもさらに簡潔だった。


『本日未明、哨戒艦「ステークス」「ロータス」より報告。ウーニヒ海南西部において、帝国旗を掲げた大型艦影多数を確認』


『偽装商船と思しき船影を含む。通常の商船団運行パターンと合致せず。艦隊編成は帝国西方艦隊の一部と推定』


『帝国艦隊は、ウーニヒ海中央航路から外れ、王国側沿岸寄りに進出中。数隻は海霧を纏った状態で行動しており、視界妨害を伴う魔導装置の使用が疑われる』


紙の上の地図に、小さな印がいくつも打たれていた。


ウーニヒ海の西端、帝国側の軍港。

そこから扇形に広がる点線。

そして、ステンブや沿岸砦から伸びる王国船団の通常航路上に、重なるように描かれた「?」の印。


『当面、ステンブ発着の護送船団は、護衛艦の増派がない限り、「帝国艦隊との遭遇確率・高」と判断すべし』


『西部艦隊は以下の任務を同時に遂行中:

一、ステンブおよび沿岸砦の港防衛。

二、西境クライネルト方面への補給護送。

三、ウーニヒ海南西部における帝国艦隊監視および哨戒』


『人員および艦数は明らかに不足。護衛力量の配分については、港湾警備隊とも協議の上、優先順位の決定を要請する』


署名は、短く固い字で。


──西部艦隊司令バルネス・フロイデン提督。


トールは、海図を引き寄せ、報告書に描かれた印と照らし合わせた。


(帝国西方艦隊……ラウル・ヴァルニエ提督のところか)


名前は、王都で回っていた資料で何度も見かけた。「冷徹な実務家タイプ」と注釈が付いていたのを覚えている。


その「実務家」が、今、ウーニヒ海の水面の下に手を伸ばしてきている。


海図の上で、帝国艦隊の推定進路と、ステンブからクライネルト方面への補給航路が、見事に交差していた。


(陸路が詰まりかけているタイミングで、海路に刃を突きつけてくる……)


トールは、無意識に喉を鳴らした。


クライネルトからの陸軍報と、西部艦隊からの海軍報。

二つの黒封が、同じ日にステンブの机の上に並んでいる。


その意味は一つだ。


「西の城門」と「西の鍵」を、同時に叩きに来ている。




「中尉、顔が紙より白いぞ」


戸口から聞こえた声に、トールは顔を上げた。


ライサ・グレイン副隊長が、湯気の立つカップを片手に立っていた。


「……報告書を読んでいました」


トールは机の上の二つの黒封を指さした。


「クライネルト方面からの正式な侵攻報告と、西部艦隊の哨戒報告です。陸路は分断の危機、海では帝国艦隊が沿岸寄りに進出中」


ライサは無言で部屋に入ってきて、まず陸軍報をひったくるように手に取った。


ざっと目を走らせ、「ふん」と短く鼻を鳴らす。


「戦争だな」


「……はい」


言葉にしてしまうと、空気の密度が変わった気がした。


ライサは次に、海軍報のほうを手に取る。


「ウーニヒ海で帝国艦隊行動開始、っと。しかも、こっちの航路をかすめる動きか」


彼女の指先が、海図の上をなぞる。


「陸路が焼けて、海路は狙い撃ち。王都の奴らが一番見たくなかった形だろうさ」


トールは、苦い笑いを浮かべる余裕もなく、机の端に自分用のメモを広げた。


「西部艦隊は、港防衛と護送と偵察を同時にやると言っています。人員も艦も足りない、と」


「足りない話なら、こっちも山ほど持ってるさ。隊長は旗艦に詰めてる。護衛艦の取り合いで、今いちばん殴り合ってるのは書面だ」


ライサは空いている椅子に腰を下ろし、トールの書類の山を見やった。


「で、中尉としての意見は?」


トールは、しばし言葉を探した。


机の上には、昨夜までに整理したばかりの「平時に毛が生えた程度の緊張状態」を前提にした航路計画が積んである。


そこに、今朝届いた二つの黒封が、上から全部書き換えろと言ってきている。


「……陸路が詰まりかけている以上、西境砦を生かす道は、ウーニヒ海経由の補給だけです。けれど、その海を、帝国艦隊が押さえに来ている」


トールは、自分の言葉を噛み締めるように続けた。


「西部艦隊の任務を全部「最大」に設定することは不可能です。港防衛を厚くすれば護送が薄くなり、護送を厚くすれば偵察が疎かになる。どれかを削らない限り、どれも守れない」


ライサは、カップから一口だけ飲み、静かに頷いた。


「つまり、どの死に方を少しでもマシにするかを選べ、ってことだ」


「……そうなります」


トールは、海図の端に小さく数字を書き付けた。


『護衛艦一隻あたり、護れる輸送船数の目安』

『帝国艦隊との遭遇確率と損耗率の概算』

『クライネルト方面砦が、補給なしで持ちこたえられる残り日数』


講義室のきれいな計算式が、現実の泥で汚されていく。


ライサが、報告書の一節を指で叩いた。


「クライネルトの辺境伯は、『扉を押さえている間、鍵を守れ』と言ってきている。

海の向こうの帝国提督は、『鍵を叩けば扉も勝手に外れる』と思ってるだろう」


「ステンブが割れたら、西境も持たない。西境が落ちたら、ステンブだけ守っても意味がない」


「そういう話だ」


ライサは肩をすくめる。


「昼には艦隊の参謀と商人ギルドも集める。ウーニヒ海の状況を踏まえた上で、護送計画の第一案を決める。中尉、お前の数字は、その場で殴り合われる材料になる」


「……材料、ですか」


「紙の上で殴り合うほうが、砲の撃ち合いよりはまだマシだろ」


ライサは立ち上がりかけて、ふと思い出したように言葉を足した。


「それと。ウーニヒ海の匂いも変わるぞ」


トールは、首をかしげる。


「匂い、ですか」


「帝国艦隊が本気で動き出せば、港の空気が変わる。符の焦げた匂いが増えて、油と汗の臭いも質が変わる。海壁の上から見える艦影も、商売のそれじゃなくなる」


ライサは窓の外、灰色の海の方角を見た。


「今までは『火薬の匂いがするかもしれない』だった。今日からは、『火薬の匂いがいつ鼻を刺すか』の話になる」


扉の前で振り返り、ライサはトールを指差す。


「だから、中尉。その匂いが濃くなったとき、『どの船を出して、どの船を引っ込めるか』を決める紙を、午前中にまとめろ。港湾警備隊の仕事は、出す船と沈む船の数え方を決めることだ」


トールは、静かに頷いた。


「……了解しました」


扉が閉まる。


部屋に再び、紙とインクと潮の匂いだけが残った。


机の上には、陸の敗報と海の動きが、黒い封蝋の残骸とともに散らばっている。


トールはペンを取った。


紙の端に、まず大きく一行書く。


『前提変更:王国西境において戦争状態突入。ウーニヒ海にて帝国艦隊行動開始』


その下に、細かく欄を作っていく。


──ステンブ港防衛に割ける砲・符術戦力。


──クライネルト方面への護送に回せる艦数と航路案。


──ウーニヒ海哨戒に必要な最低限の艦数。


──そのどれかを削った場合に死ぬのは、どこの誰か。


数字の裏側で、クライネルト方面砦の石壁と、ウーニヒ海の灰色の水面が、頭の中で重なり合う。


紙の上でしか戦えない人間にも、戦場は割り当てられている。


トールは、それが自分の戦場なのだとようやく理解し始めていた。


ペン先が、白い紙の上を走り出す。


港の外で、鈍い波音が聞こえた。

ウーニヒ海が、静かにうねりを変え始めている。

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