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第4話 戦争前夜

その日も、最初はただの「忙しい一日」になるはずだった。


午前中、ステンブ港は荷の出入りでごった返していた。吐く息が白く、濡れた縄に触れた指がすぐ痺れた。


帝国商船が二隻、中立国商船が一隻。王都からの通達どおり、港湾警備隊は彼らに一歩距離を置きつつ、「安全な通商の確保」という建前を守るのに追われていた。


「……これで挑発行為は控えよ。も守ってるってことになるんですよね」


トール・レンブラント中尉は、詰所の窓から岸壁を見下ろしながら、手元の帳簿に数字を書き込んでいた。


帝国旗を掲げた船と、その手前で荷を受け取る王国商会の名前。積み荷の内容。荷揚げ中に起きた小競り合いの有無。


全ては、後で王都に送る「穏当な記録」として整えられる。


「数字だけ見れば、実に穏やかだ。紙の上ではな」


机の向こうで、ライサ・グレイン副隊長が椅子を後ろに倒して足を投げ出した。


窓の外から、帝国水夫の笑い声と、ステンブの荷役たちの押し殺した怒鳴り声が、薄い壁越しに混ざって聞こえてくる。


「西境砦(クライネルト方面の主砦)のほうは、まだ演習中って扱いでしたっけ」


トールは帳簿を閉じ、昨夜届いた王都からの資料に視線を落とした。


軍務局が出した情勢報告には、きれいな字でこう書かれている。


──西境砦周辺における「大規模機動演習」の実施について。

──一部、帝国側部隊との「計画的な模擬交戦」を含む。


「模擬、ねぇ」


ライサは鼻で笑った。


「砦の周りで模擬をやる連中がいるとしたら、それは砦の中じゃなくて、外のほうだろうよ」


「でも、王都からの報告では――」


「でも、王都からの報告ではって前置き、そろそろやめとけ」


ライサは椅子を戻し、机に両肘をついた。


「情報は、どこから届いたかと、どこで止まってるかの両方を見ろ。西境砦から直接こっちに何か来たか?」


「……いえ。ここ数日は、王都経由の紙だけです」


トールは素直に答えた。


西境砦からステンブへは、本来なら陸路の伝令が一日、二日あれば届く。砦が物資の増送を望む時は、直接ステンブに要請が来るほうが早い。


それがここ最近、ぱったり途絶えている。


「砦からの伝令が止まってるのに、王都からの紙だけが増えてる。さて、どこで何が詰まってると思う?」


「……王都の机の上、ですか」


「少なくとも、現場じゃないな」


ライサが肩をすくめたちょうどその時、詰所の一階から、普段と違う足音が響いてきた。


慌てた靴音。複数人分。階段を駆け上がる重い音。


「副隊長!伝令です、門の前で倒れました!」


戸が乱暴に開き、若い兵士が顔を突っ込んできた。額には汗、息は荒い。


「どこからだ」


「西境砦の旗印です!胸当ても、砦の衛兵と同じ装備で……」


ライサの表情が、短く固まった。


「医務室は?」


「運びました。ただ、これを握りしめてて……」


兵士が差し出した手には、泥と血で汚れた革ケースがあった。封蝋は砕けかけていたが、そこに押された紋章は辛うじて読める。


西境砦司令部の印。


それと、もう一つ。


黒い蝋に、簡素な刻印。


「……黒封かよ」


ライサが低くつぶやいた。


黒封。

戦地や災害地から送られる緊急報。

開封した者には、内容に応じた即時の責任が生じるという意味を持つ封の色。


「場所を変える。会議室に集めろ。砲台、艦隊連絡、ギルド、それとヴェルナーもだ」


ライサは革ケースを受け取り、トールのほうを見た。


「お前も来い、中尉。紙の匂いを嗅いで生きてきた奴の鼻がいる」




会議室に集まった顔ぶれは、前日と同じだった。


海壁砲台の砲兵隊長。西部艦隊からの連絡士官。商人ギルド支部長ヴェルナー。傭兵分隊長ゲイル・ドナン。そして、港湾警備隊副隊長ライサと、新任中尉トール。


違うのは、机の上に広げられている紙の色だけだ。


白ではない。灰色に近い、粗い紙。ところどころに血の指跡がついている。


「読み上げる」


トールは喉を鳴らし、最初の一枚を持ち上げた。


文字は乱れているが、書いた者の癖は職務に慣れた士官のものだと分かる。ところどころ、墨が飛び、行が歪むたびに、「その時」の状況が透けて見えるようだった。


「『西境砦司令部より、王国西境方面における武装衝突の状況を報告する』」


部屋の空気が、一段静かになる。


「演習」でも「模擬交戦」でもない。初めの一行からして、王都の紙とは違っていた。


「『光月の二十三日早朝、帝国側国境線付近において、大規模な部隊移動を確認。中隊規模の騎兵と思われる集団が、事前通告なしに国境標識を越境。警告射撃に対し、実弾による反撃あり』」


砲兵隊長が、机の下で拳を握る音がした。


「『以後、三日にわたり断続的な攻撃を受ける。帝国側部隊は、徽章を隠し、あくまで正体不明の武装集団として行動。王都への報告にあたって事案の性質を巡り、判断に時間を要す』」


「……判断に時間、ね」


ライサが小さく吐き捨てた。


「『軍務局よりの返信は、「現時点では国境紛争とは認定せず、現地裁量で鎮静化に努めよ」の一文のみ』」


トールはそこまで読んで、無意識に息を止めていたことに気づき、慌てて空気を吸い込んだ。


続く行には、より荒い筆致で書かれている。


「『その間にも攻撃は激化。光の二十六日夜、砦西側堡塁堡塁に対し、帝国式と推定される魔導砲による一斉射撃あり。城壁の一部崩落、多数の死傷者発生』」


ゲイルが、椅子の背から身を起こした。


「魔導砲まで持ち出しておいて、正体不明の武装集団とはずいぶん律儀だな」


「『光の二十七日未明、砦西門半壊。予備戦力をもって反撃を試みるも、敵部隊の規模は当初想定を超える。帝国第五軍所属と見られる旗印を複数確認』」


トールは、次の一文を読む前に、一瞬だけ目を閉じた。


「『当方、もはやこれを局地的な衝突として扱うことは不可能と判断。これは、帝国による計画的な侵攻行為にして、実質的な戦争行為なり』」


その言葉が、部屋の中に落ちた。


戦争。


王都の紙が慎重に避け続けてきたその単語を、西境砦の司令官は、ここで初めて、迷いなく使っている。


「『繰り返し、狼煙および伝令により王都への再報告を試みたが、国境沿いの中継所は既に制圧されたか、もしくは機能停止。伝令の多くも帰還せず』」


トールは行を追いながら、指先の震えを押さえ込んだ。


つまり、こういうことだ。


西境砦は、何度も王都に「これは小競り合いではない」と送っていた。

だが、伝令は途中で途絶え、狼煙は誰にも読まれなかった。


届いたわずかな報告だけが、「現地裁量で鎮静化に努めよ」の一文に変換されて、王都から下りてきた。


ステンブにもたらされた「大規模機動演習」の紙は、その遅れた回線の向こう側で、誰かが選んだ言葉の結果にすぎない。


「『本状は、砦東門から脱出した騎兵一個斥候班に託す。西境砦はこれより籠城戦による持久戦に移行。最悪の場合、砦そのものを放棄し、クライネルト防衛線への合流を試みる』」


最後の行には、簡潔な署名と、滲んだ日付があった。


──西境砦司令官エルンスト・ハーゼ少将。

──王暦四九〇年・光の二十八日。


今日は、光の三十日。


トールは、紙をそっと机に置いた。


読み上げるべき文字は、もう残っていない。




「……つまりだ」


沈黙を破ったのは、砲兵隊長だった。


「少なくとも三日前には、西境砦周辺は完全に戦場になっていた。なのに、こっちには演習中の紙だけが届いていた。そういうことだな」


トールは頷くしかなかった。


「伝令が途中で絶たれていたのは、報告にも書いてあります。おそらく、中継所が落ちたのでしょう」


「伝令が届かなかったのは分かる」


砲兵隊長は、机に肘をつき、低い声で続けた。


「問題は、届いた分まで演習に変えた連中が、どこの誰かって話だ」


視線が、自然とヴェルナーに向かう。


商人ギルド支部長は、しかし肩をすくめるだけだった。


「私のところに入ってきている情報だと、王都の市井でも、ここ数日は西境で大がかりな演習があるらしいって噂ばかりだったよ。砦が攻撃されてる話は、一切流れてない」


「情報統制か?」


ゲイルが呟く。


「『まだ戦争ではない』って言い張るためには、最初の一発を事故とか演習ってことにしておきたい。そういう理屈だろう」


「紙の上では、いくらでも言い換えられる」


ライサが、黒封の紙束を指先で叩いた。


「けどな。砦でこれを書いた少将は、紙の上の言葉を捨ててまで、『戦争行為』って単語を選んだ。あっち側の現場で、その言葉が出た時点で、もう何かの境目は越えてる」


トールは、自分の胸の内に落ちる言葉の重さを測っていた。


戦争。


王都の補給課でその単語を見たときは、いつも「予算」と「動員数」と一緒に並んでいた。遠いものだった。


今、机の上の紙に記されたその文字は、血と泥と欠けた城壁の音を伴っている。


「……どうして、こんな状況になってからしか、ここには届かなかったんでしょうか」


自分でも子どもじみた質問だと思いながら、トールは口に出していた。


「本当の状況が分かっていれば、物資も人も、もっと早く動かせたはずです」


「理由はいくつかある」


答えたのはライサだった。


「物理的に、伝令が殺された。さっきの報告にもあったとおりだ」


彼女は指を二本、立てる。


「届いた報告を、まだ大事ではないと判断した机の上の誰かがいた。『これは戦争じゃなくて、国境の揉め事だ』ってラベルを貼ったやつだな」


三本目の指が、音を立てて立つ。


「……まだ戦争だと認めたくなかった連中が、王都にはいるってことだ」


部屋の空気が、少しだけ重くなった。


「戦争って言葉を口にした瞬間、必要になるものが変わる。兵も、金も、責任も。だからその一言を、死ぬほど嫌う連中がいる。紙の上では、いつまでも『事案』『紛争』『演習』で引っ張れるって信じてる」


ライサはそこで言葉を切り、黒封の報告書を軽く持ち上げた。


「ただな、中尉」


「……はい」


「どれだけ王都の連中が言葉を飾ろうと、現場の紙にここまで書かれちまったら、もうごまかしは効かない」


トールの視線が、再びあの一文に吸い寄せられる。


──実質的な戦争行為なり。


「ここから先は、王都が『まだ戦争ではない』と言おうが、帝国が『あくまで自衛の措置だ』と喚こうが、こっちの仕事は変わらない」


ライサの灰色の瞳が、会議室にいる全員を順に捉える。


「砦が危ないってことは、次はステンブに来る可能性もある。港は動脈だ。血が逆流してくるか、流れ込んでくるか、その見張りをするのが私たちの仕事」


「つまり、ここからが本番ってわけだ」


ゲイルが腕を組みなおした。


「正式に戦争だって言ってくれりゃ、こっちもやることは分かりやすいんだがな」


「言葉が遅れれば遅れるほど、現場の判断の重さが増すってだけさ」


ライサは椅子から立ち上がった。


「ステンブ港湾警備隊としては、西境砦からの情報を王国西部における実質的な戦争状態の開始と解釈する、って形で報告書をまとめる。文言はお前に任せる、中尉」


「……そんなに好き勝手に書いていいんですか」


「好き勝手じゃない。事実を、そのまま並べるだけだ」


ライサは、わずかに口元を歪めた。


「あとで王都の机の上でどんな言葉に言い換えるかは、あいつらの勝手だ。ただ、最初にここを出る紙には、誰かが本当のことを書いておかないといけない」


トールは、小さく息を吐いた。


自分のペン先が、これから書くものの重さをようやく理解し始めている。




日が沈むころ、ステンブの空は薄い紫に染まっていた。


港の喧騒はまだ続いているが、その音色は朝とは少し違って聞こえる。笑い声は減り、怒鳴り声は低く押さえられ、鎖の鳴る音だけがやけに耳につく。


詰所の二階の一室で、トールは机に向かっていた。


西境砦からの戦況を写し取り、それにステンブとしての付記を加える。


──本日、黒封伝令一件到着。

──内容に鑑み、当方は西境方面における実質的な戦争状態の発生を確認。

──西境砦、持久戦移行もしくは放棄の可能性あり。

──ステンブ港湾は、王国西部への補給線および退路となる公算大。


文字にすると、どれも乾いた事実だ。


けれど、その一行一行の背後に、燃える城壁や逃げ惑う人影の幻がちらつく。


(戦争状態……)


ペンを持つ指に、わずかに力がこもる。


報告書の本文には、「戦争」という単語をどう入れるか、トールは最後まで迷った。


王都の誰かは、きっとこの言葉を嫌うだろう。

修正されるかもしれない。

別の言葉に塗り替えられるかもしれない。


それでも、最初の紙にだけは、真っ直ぐな言葉を書いておきたい。


「……よし」


一行、付け足す。


──本件は、後世「西境戦争」の端緒と評価される可能性あり。


それは、事実ではなく、予測にすぎない。

だが、現場にいる人間の目から見て、そうとしか呼びようのない始まり方だった。


ペンを置き、トールは窓を開けた。


夜の港の風が、インクの匂いと、一日分の汗と、どこか遠くの焦げた匂いを運んでくる。


帝国商船の帆柱が、暗闇の中に黒い影を伸ばしていた。

その向こうに広がる海は静かだが、その静けさは、何かを隠しているように感じられる。


この夜のことが、後に「戦争前夜」と呼ばれるようになるのは、ずっと先の話だ。


今のステンブはまだ、通達の上では「外交で解決を図るべき情勢」に過ぎない。


それでもトールは、胸の奥で、何かが静かに切り替わる音を聞いた気がした。


帳簿の数字の並び方が変わり始める音。

紙の上の言葉が、別の意味を帯び始める音。


それは、戦争という言葉がようやく現実に追いついてくる、少し手前の音だった。

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