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第3話 通達

翌朝のステンブ港は、妙に耳障りだった。冷えた空気が耳の奥を痛くして、音がやけに尖って聞こえる。


怒鳴り声も殴り合いも起きていないのに、どこかでいつでもそれが始まりそうな音がしている。荷揚げの掛け声、滑車の軋み、鎖の鳴る音。普段ならただの港の喧騒に紛れるはずのそれが、トールには全部「何かの前触れ」のように聞こえた。


昨夜の小競り合いのせいだ、と彼は自分に言い聞かせる。


帝国商船の水夫が符を使ったものの怪我人は出なかった。報告書には「軽微な騒動」とまとめた。それだけのことだ、と紙の上では処理できる。


それでも、港の空気は目に見えない傷を負っていた。


「顔色悪いぞ、新任。船酔いなら昨日のうちに吐いとけ」


背後から肩を小突かれ、トールは振り向いた。


赤い紐章を肩にかけたライサ・グレイン副隊長が、片手にパンをかじりながら港を見下ろしている。朝から鎧の肩当てを外し、代わりに古い革ジャケットを羽織っているあたり、これから机仕事ではなく外回りなのは分かった。


「船酔いじゃありません。ただ……」


言葉を探して口ごもると、ライサは「ただ?」と目だけで促した。


「昨日の件の報告書をまとめていたら、どうにも気持ちの区切りがつかなくて」


「報告書なんて、気持ちで書くもんじゃないだろ」


ライサはパンを飲み込むと、鼻で笑った。


「『帝国商船乗員による符術使用一件。負傷者なし。荷役側二名と帝国側一名を詰所にて事情聴取』。それで終わりだ」


「……はい」


実際、その通りの文言をトールは昨夜、震える手で書き上げた。


ただ、その一文の裏側で、群衆の中に広がった怒りと恐怖のざわめきは、どこにも記されていない。帝国水夫の薄い笑いも王都に届くことはない。


「帝国とのやり取りなんてあんなもんだ」


ライサは海壁の向こうを顎でしゃくった。


「問題は、こっちが飲み込んだって情報も、向こうにちゃんと伝わってるってことだ。『王国港湾警備は、符を切られても殴り返さなかった』ってな」


舐められたら、本当に攻めてくるぞ――昨日の彼女の言葉が、トールの耳の奥で再生される。


そのとき、坂道の上から駆け足の音が近づいてきた。


「副隊長!王都からの早馬です!」


若い兵士が息を切らして封筒を差し出す。厚手の紙に、軍務局の紋章と赤い封蝋。

封筒の裏には中継宿の刻印が重なり、王都を出たのが二日前だと分かった。紙は速い。現場はもっと速い。


トールの胃が、嫌な予感にきゅっと縮んだ。


「来たか、『まだ大したことは起きてません』のお達しが」


ライサが封蝋を指先で弾きながらつぶやく。


「詰所に戻るぞ、新任。お前の専門分野だろ、こういう紙の読み解きは」


トールは黙って頷き、彼女の後を追った。




港湾警備隊詰所の二階会議室には、いつもより多くの肩章が並んでいた。


ライサとトールに加え、海壁砲台の砲兵隊長、西部艦隊から派遣されている連絡士官、商人ギルド支部からヴェルナー・ハーゲン。


ヴェルナーはふくよかな体格に金鎖をいくつも下げていた。血色もよく、豊かな食生活をしているのか脂肪の塊のような男だった。王都では一定数いたがステンブのような街では異質に映る。


そして、片側の壁にもたれて腕を組んでいるのは、冒険者上がりの傭兵分隊長ゲイル・ドナンだ。


紙の匂いと汗の匂いが、薄いインクの香りに上書きされている。


「では、軍務局からの通達を読み上げる」


ライサが封筒から公文書を引き出し、視線でトールに合図を送る。


トールは席を立ち、紙束を受け取った。王都勤めの癖で、行間に潜む「本音」を読む準備が自然と整う。


「『西方情勢につき、王国としては引き続き外交的解決を第一方針とする』」


読み上げた一行目に、部屋の空気が目に見えない形でざらつく。


「『ステンブ港湾においては、帝国および中立国商船の安全な入港と通商の確保を最重要任務とし、現場部隊は挑発行為を厳に慎むこと』」


砲兵隊長のアークが鼻を鳴らした。


「続けろ、中尉」


ライサの短い声に促され、トールは文面を追う。


「『帝国所属船舶乗員による軽微な衝突事案については、原則として現場指揮官の裁量において穏当に収束させること。武力による対応は、軍務局の事前承認がある場合を除き、固く禁ずる』」


「……は?」


思わず漏れた声は、トール自身のものではなかった。


ゲイルが壁から背を離し、紙を睨みつけるように見ている。


「つまり」


ライサが代弁するように言う。


「帝国水夫が符を切ろうが、荷役を海に突き落としかけようが、こっちは殴り返すなってことさ。『外交で解決する』から、現場の砲も拳も黙ってろ、と」


言葉だけ聞けば、穏やかな方針だ。紙の上では。


「さらに――『帝国商船の拿捕、積荷検査、拘束措置などは、全て軍務局および外務局の承認を要する』」


トールは喉の奥に引っかかった息を、咳払いに偽装して吐き出した。


要するに、ステンブが現場判断で帝国船を止める手段を、ほぼ全て封じたということだ。手足を縛っておいて、「任務は果たせ」と言っているのに等しい。


「それがいい」


ぽつりと声を出したのは、商人ギルド支部長ヴェルナーだった。


細い指で髭を撫でながら、どこか楽しげですらある。


「戦にならないのが一番だ。外交で解決、結構な話じゃないか。帝国商船様が安心して荷を降ろせば、ここの港も潤う。王都もそれを望んでいるんだろう?」


「その潤いが、いつ砲弾に変わるかの話をしてるんだがな」


ゲイルが低い声で返す。


「符で威嚇されるならまだいい。あいつらが本気で殺すつもりなら、こんな回りくどい牽制なんざしない」


「だからこそ外交だろう」


ヴェルナーは肩をすくめた。


「まだ本気で殺しに来てないうちに、交渉で落としどころを探す。王都の偉い方々の仕事ってやつだ。砲台の陰に隠れているだけじゃ見えない景色もあるのさ」


言外に「現場の連中には分からないだろうが」と続けたのが、トールにもよく分かった。


彼は紙を見下ろしながら、奥歯を噛み締める。


王都補給課にいた頃、自分も似たような文面を何度も見てきた。穏当な表現で現場を縛り、責任の所在をぼかし、最後に「賢明な判断を期待する」と一行添える、あの手の書き方だ。


(……俺は、あっち側の人間だった)


ふと、そんな自覚が胸の中に刺さる。


この通達を書いた誰かと、自分との距離は、実はそう遠くないのではないか。帳簿の上でしか戦争を知らなかった頃の自分なら、この文面に何の疑問も抱かなかっただろう。


「トール」


名を呼ばれて顔を上げると、ライサがじっとこちらを見ていた。


「通達の残りは?」


「……『ステンブ港湾警備隊は、本通達の趣旨に沿って行動計画を再確認し、遅滞なく報告すること』。以上です」


「報告書の雛形は後で渡す。お前の王都語、まだ錆びてないだろ」


皮肉めいた言い方だったが、声色には冷笑よりも期待のほうが混じっていた。


「現場の言葉を、王都に伝わる言葉に翻訳するのが、お前の仕事だ。覚えておけ、中尉」


トールは短く頷きかけて、わずかに首を振った。


「……翻訳だけじゃ足りない気がします」


「ほう?」


「この通達を額面通りに受け取れば、港湾警備隊は帝国商船の見張り役ではなく接待係になります。紙の上ではそれで丸く収まるでしょう。でも――」


言いかけて、トールは窓の外に目をやった。


造船所のクレーンの向こう、帝国旗を掲げた商船が静かに岸壁に寄せられていく。昨日と同じ光景だ。違うのは、そこにいる人間たちの感情だけ。


「港で昨日の符の話がどれだけ広まっているか、王都は知らない。荷役や水夫たちは、『帝国の連中は符を切ってもお咎めなし』だと学びました。そこに外交で解決の通達が降りてくる」


トールは自分でも驚くほど冷静な声で続けた。


「……この組み合わせで、現場の不信感が高まらないほうが不自然です」


短い沈黙。


先に笑ったのはゲイルだった。


「気づいただけマシだ。机上官僚だった奴が、現場の腐り方に気づくまでには普通、もう少しかかる」


トールは苦笑いしかけて、うまく形にならない顔をした。


「上が外交で解決と言い張るなら、こっちはせめて、港がどれだけ解決からこぼれてるかを叩きつけてやるさ」


ライサが椅子から立ち上がる。


「通達は通達だ。破ればこっちが悪者になる。だから表向きは従う。ただし、記録は全部残す。帝国水夫が符を切った回数も、荷役が殴り返さなかった回数も、こっちの怒鳴り声も、全部な」


彼女の灰色の瞳が、トールをまっすぐ射抜く。


「書類しか見ない連中に、数字から焦げる匂いを嗅がせてやれ、中尉。お前の得意分野だろ」


トールは、ようやく小さく笑った。


「了解しました、副隊長」




会議が解散したころには、昼の鐘が鳴り終わっていた。


詰所を出ると、潮風が紙とインクの匂いを洗い流していく。トールは深く息を吸い、わずかにむせた。火薬と油と、焦げた何かの匂いが混じっている。


「また増えてるな」


ライサが海壁の上から指さした先では、帝国商船の帆柱が三本、並んで空に突き出ていた。そのうちの一隻の甲板では、水夫同士が大声で何かを言い合い、笑っている。


岸壁のほうでは、ステンブの荷役が黙ったまま荷物を運び、時折、帝国船のほうを睨みつけていた。


「副隊長」


「なんだ」


「部隊向けの通達の説明、僕にやらせてもらえませんか」


トールは、自分でも驚くほどはっきりと言った。


「王都の文面を、そのまま読み上げたら、現場の反発だけが残ります。どこまでが本当に縛りで、どこからが解釈の余地なのか、ちゃんと伝えた方がいい」


ライサは少しだけ目を細め、口の端を上げた。


「……いいだろう。現場の不信感を一度浴びておくのも、新任の通過儀礼だ」


「覚悟はしておきます」


「覚悟なんていらないさ。どうせ、そのうち本物の砲声の中で書類をまとめる羽目になる」


その言葉は、冗談とも脅しともつかない響きだった。


トールは海の向こうを見た。


灰色の空と、同じ色の海。その境目に、小さく光るものがある。遠ざかっていく帆影か、近づいてくる雲か、まだ判別はつかない。


(王都は、外交で解決すると言っている)


紙の上では、すべて「外交の範囲内」で片づけられている。


けれど港の石畳の上では、もうあちこちで火花が散り始めている。符術の火花も、視線と噂話の火花も。


トールは掌の中にある通達文の紙を、指先で軽く折り曲げた。


「外交で解決」という言葉は、こんなに薄い紙に印刷されているくせに、港に落ちた途端、鉛みたいな重さに変わる。


大きな出来事は、突然空から降ってくるわけじゃない。

いつも先に、こうして紙と現場のあいだで、静かにひび割れが走る。


トールはそのひびの一本一本を、数字と記録で追いかける役目を、自分が引き受けてしまったのだとようやく理解しつつあった。

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