第2話 不穏な影
朝の鐘が、灰色の港に鈍く響いた。
ステンブの空は低く垂れこめ、海と雲の境目が分からない。細かい霧雨が斜めに降り、石畳の隙間にたまった水が、兵士たちの靴音に合わせて跳ねた。跳ねた水が脛を刺し、吐く息が白く滲んだ。
港湾詰所の二階、狭い事務室の窓辺にトール・レンブラントは立っていた。薄いガラス越しに見える湾内には、昨日よりも多くの帆柱が立っている。
そのうちの何本かには、見慣れない旗がはためいていた。
白地に黒い双頭の鷹。ガルニア帝国の商船旗だ。
「……また増えてる」
思わず漏れた独り言は、すぐ背後で椅子を軋ませる音にかき消された。
「数字はどうだ、新任」
帳簿に顔を突っ込んでいたライサ副隊長が、目だけを上げる。短く刈った赤茶の髪は、今日も乱雑に結われたままだ。
「帝国商船、今朝の入港分を合わせて七隻です。昨日が五隻、一昨日は三隻。その前は……」
「一日一、二隻が普通って、最初の日に言ったろ」
ライサが欠伸混じりに言う。
「この一週間で、倍以上。おまけに全部『穀物』と『織物』持ってるって申告だ。そんなに急に、ここのパンと服の消費が増えるかね?」
トールは言葉に詰まり、代わりに手元の帳簿をめくった。
王都から持ってきた癖で、彼は入港記録を日付ごとに簡単な一覧にまとめている。この港の今日が王都の机に届くのは、早馬でも数日後だ。その遅れの分だけ、現場は先に血を払う。
船名、所属国、積み荷、出港港、寄港歴。港湾警備隊に義務付けられた以上の情報を、自分用に整理したものだ。
ページの右端を指でなぞると、帝国商船の欄だけが目立つように黒く塗り固められている。
「積み荷は穀物と織物で合ってます。ただ……出港港が」
「そこだ」
ライサが手を伸ばし、トールの帳簿をひったくる。
「ここ数ヶ月で帝国側の西岸港からの直行便が増えるなら、まだ分かる。戦前の駆け込み商売だって理屈はつく。けど見ろよ、この出港港」
指先が、いくつもの地名を無造作に叩いていく。
「エルネスタ、トラグ、デルミナ……どれも中継港だ。わざわざ一回遠回りしてからステンブに来てる」
「普通なら、手前のクライネルトか、もっと内陸側の交易都市に荷を下ろすはず、ですよね」
「そう。関税も安いし、陸路の整備もマシ。あえて一番物騒な港に回してくる理由がいる」
ライサは帳簿から目を離し、窓の外の湾へ顎をしゃくった。
「軍船の数、覚えてるか?」
「王国側が六隻。巡視艇が三隻。帝国の軍船旗は……今のところ確認されてません」
「今のところな」
副隊長の口元が歪む。
「商船を盾にして、軍船を後ろに隠すなんて芸当、やろうと思えばいくらでもできる。で、そういう真似をしてきそうな国は?」
「……それがガルニア帝国」
答えながら、トールは自分の声が少しだけ固くなったのを自覚した。
数字だけ見れば、まだ「異常」と断じるには足りないのかもしれない。一週間程度の偏りなど、貿易の世界では珍しくないと教本にはあった。
けれど、ここは王都の帳簿の中ではない。
湾に並んだ帝国旗の下で、油と潮と火薬の匂いが混ざり合い、兵士と傭兵と商人が、同じ狭い石畳の上で互いの肩をぶつけ合っている。
たまたまと言うには、あまりにも「嫌な具合」に揃いすぎていた。
「それと」
ライサが、帳簿を閉じて元の机に放り出す。
「貿易ルートの変更。あんた、自分の遊びで一覧つくってただろ。あれを出せ」
「遊びって……」
トールは小さく息を吐き、机の引き出しから別のノートを取り出した。
正式な入港記録とは別に、自分で勝手にまとめている「ルート変動メモ」。船会社ごとに、どの港を経由しているか、その変化を線で結んだだけの粗雑なものだ。
ライサはそれを机に広げ、まるで戦場地図でも眺めるかのように身を乗り出した。
「ほらな」
副隊長の指が、幾本もの線の上を滑って止まる。
「ここ最近、エルネスタからクライネルトに直行してた線が、途中で折れてる。で、新しく伸びてるのが……」
「エルネスタから帝国の沿岸港を経由して、ステンブ」
「そういうことだ。海図の上で見ると一発で分かるが、こうして線にしても同じだな」
ライサがニヤリと笑う。
「あんたの遊びも、たまには役に立つじゃないか」
「遊びじゃなくて、業務の効率化です」
「はいはい、公文書じゃねえ分だけ気楽に書ける業務の効率化な」
軽口の応酬の裏で、トールの頭の中では嫌な予感が具体的になっていく。
航路の変更。経由港の偏り。積み荷の名目と、実際の荷の重量。港湾使用料と関税。
どこかひとつが偶然なら笑って済ませられる。けれど、どれもが少しずつ帝国に有利なようにずれていくのなら、それはもはや「流れ」だ。
その流れを作っているのは、誰か。
「副隊長」
トールはノートから顔を上げた。
「これ、ギルド側の商会と相談した方がいいと思います。もし帝国が、ステンブ経由の貿易を意図的に増やしているなら――」
「関税収入と港湾使用料で、短期的にはこっちも潤う。軍は『商売が活発になるのは良いことだ』って顔をする」
ライサが言葉を継ぐ。
「その陰で、帝国に都合のいい物流網が組まれていく。物が流れるところには情報も流れる。船乗り、商人、傭兵、冒険者。誰を雇って、何を運ばせるかを決めるのは、船主と仲介人だ」
「仲介人……」
トールが復唱すると、副隊長はふと表情を曇らせた。
「そういえば昨夜、『黄昏の仲介人(闇ルートを束ねる呼称)』なんて物騒な名前を聞いたな」
「黄昏の……?」
「港の飲み屋で、傭兵どもが酔っ払って喚いてた。黄昏の仲介人ルートを使えば、世の中がどう転んでも儲け話が転がってくるってな」
トールは眉をひそめる。
「裏の密輸ルートですか?」
「さあな。噂にもならない本物か、噂だけの幽霊か。どっちにせよ、港で妙な固有名詞が流行り始めたら、大抵ろくでもない」
ライサが椅子の背にもたれかかり、指を鳴らした。
「昼の巡視、ついてこい。ついでに商人ギルドにも顔を出す。表の帳簿とあんたの遊びが、どのくらい噛み合うか確かめようじゃないか」
トールは慌てて帳簿とノートを抱え上げた。
窓の外では、帝国商船の一隻がゆっくりと岸壁に寄せられていくところだった。船腹に貼りついた白い塗料が、霧雨に濡れて鈍く光っている。
かすかな火薬の匂いに、灯油と焦げたパンの匂いが混ざっていた。
昼前の港は、いつも以上に騒がしかった。
荷揚げ用のクレーンが空をかき、荷役の男たちが怒鳴り合い、傭兵らしき連中が岸壁近くで暇を持て余している。帝国商船の甲板では、艙を開けた隙間から白い布包みの山が顔を覗かせていた。
「織物、ね」
ライサが眉をひそめる。
トールは距離と角度を見計らい、小声で呟くように符を起動した。薄い紙片の上で刻線が淡く光り、視界の端が少しだけ歪む。
遠見の符。王都の訓練場で練習した通りのやり方だ。
甲板の布包みが、わずかに拡大された像で視界に入ってくる。粗布でくるまれているが、縁から覗く色は沈んだ灰色や暗い青が多い。贅沢品ではない。兵士用の制服や軍服の色合いだ。
「商人登録票と積み荷申告、照合します」
トールが言うと、ライサは手をひらひらと振った。
「やれやれ。書類の鬼は仕事熱心だな」
「ここまで露骨だと、さすがに気になります」
岸壁近くの簡易詰所で、入港手続きの列ができていた。王国商船、帝国商船、その他の中立国の船が、順番に書類と身分証を差し出していく。
トールは帝国商船の順番を待ち、受付台の横から身を乗り出した。
「出港港はエルネスタ。経由港が……」
「帝国西岸のカーラベルだとよ」
受付係の兵がぼそりと言う。
「前まではクライネルト直行だったのに、最近はみんなあそこをかすめてくる。『安い燃料が手に入る』とか言ってたが、燃料だけの話かね」
トールは簡易地図を頭の中に描き、航路をなぞった。
エルネスタからカーラベルまでは、少し迂回すれば済む距離だ。そこからステンブまでは一直線。時間と燃料は余分にかかるが、帝国が港湾使用料を優遇しているなら、商人にとって損ではない。
問題は、その「優遇」の裏に何がくっついてくるかだ。
「カーラベル経由の便、今週から急に増えました?」
「急に、だな。先週までは月に一本あるかないかだった」
受付係の顔に、露骨な不快感が浮かぶ。
「帝国の好意ってやつは、あとで必ず請求書が来る。俺らの給金ならともかく、砲弾と人間の頭数で請求されるのはごめんだ」
そこへ、列の後ろから怒鳴り声が飛んだ。
「おい、順番はまだか!腐った魚が余計に腐る!」
ずんぐりした体格の男が、王国商船の胸当てを押さえながら顔を出した。胸には、ステンブでも古参の商会の紋章が縫い付けられている。
「いつから帝国船が優先になったんだ、港湾警備隊さんよ!」
「優先してねえ。書類不備の少ない方から先に回してんだ」
受付係が吐き捨てるように言い返す。
「だったら帝国船の方が仕事覚えるのが早いんだろ」
周囲に乾いた笑いが走る。その空気を、商人は苛立ったように手で払いのけた。
「こっちは長年この港を使ってきたんだぞ!急に航路を回されて、倉庫の手配から何から全部やり直しだ。帝国が安い積み荷と燃料で釣ってるのは分かるがな、こっちの足元まで崩されたら商売にならん!」
トールは一歩前に出た。
「航路の変更について、商会として正式な抗議書は提出されていますか?」
「誰だ坊主」
「港湾警備隊補給担当、トール・レンブラントです」
淡々と名乗ると、商人はトールを頭のてっぺんから足の先まで眺め、鼻を鳴らした。
「王都から来た紙の人間か。だったら分かるだろう。帝国に依存しすぎると、どうなるか」
トールは息を呑みかけて、寸前でこらえた。
分かる。だからこそ、ここにいる。
「……だからこそ、今の流れを記録しておきます。抗議書も、出すなら様式を整える手伝いをします」
「手伝い、ね」
商人の視線が、少しだけ和らいだように見えた。
「だったら教えてやるよ、小役人。表の航路だけ見てても、本当の流れは掴めない」
「と言うと?」
「黄昏の仲介人を知らねえのか」
その名を聞いた途端、周囲の空気がわずかに固くなった。傭兵たちが黙り、荷役たちがちらりとこちらを窺う。
ライサが、トールの背中越しに商人を睨んだ。
「おい、その名前を港の真ん中で口に出すんじゃねえ。変な耳に入ったら、うちの書類仕事が増える」
「もう噂になってる時点で遅いさ、副隊長さん」
商人は肩をすくめる。
「黄昏の仲介人ルートに乗れって売り込みが来たんだよ。帝国が西境を締め上げようとしたって、あのルートなら荷は通す、ってな」
「誰からだ」
「知らねえ顔だ。船乗りでも地元の仲買でもない。身なりだけは妙にきれいな男だった」
商人の目が細くなる。
「条件は悪くなかった。手数料は相場より少し高いが、世間がどう荒れても契約を守るときた。俺は断ったがな」
「なぜです?」
問いかけながら、トールは自分の声がやけに冷静に聞こえることに気づいた。
「そのルートが本物なら、必ず裏がある。幽霊なら、そのうち消える。どっちに賭けるかと聞かれたら、俺は自分の倉庫と人間を選ぶ」
商人はそれだけ言うと、列に押し戻されていった。
周囲に、重い沈黙が落ちる。
「……聞いたか?」
ライサがぽつりと問う。
「黄昏の仲介人。闇の航路と情報を束ねる呼び名だ。帝国が表で組んでる港と、裏で繋がってる連中。その両方を、一本の線で結ぼうとしてるやつらがいる」
トールは無意識に、さっきまで見ていた自分のノートの線を思い出していた。
エルネスタからカーラベル、カーラベルからステンブ。そこに、黄昏の仲介人とやらが絡めば、表の航路と裏の密輸路が重なり合う。
どんな事態になっても止まらない流れ。
止まらないからこそ、そこに銃と薬と人間が流れ込む。
「副隊長」
トールは小さく息を吸い込んだ。
「今夜、港の飲み屋に行きましょう。黄昏の仲介人ルートの噂がどこから流れているか、確かめたい」
「仕事終わりに飲みに行きたいって素直に言え」
「調査です」
「はいはい」
ライサは苦笑しながら、トールの肩を軽く叩いた。
「いいか、新任。こういう匂いは、帳簿だけ嗅いでても分からない。港の酒の匂いと一緒に嗅ぐもんだ」
灰色の空の下、帝国商船の帆が風に膨らむ。
火薬と酒と潮の匂いが、黄昏に向かってじわりと濃くなっていく気がした。
その中に、「どんな事態になっても止まらない流れ」の匂いが混じり始めていることを、トールはまだ言葉にできなかった。
けれど、何かが静かに形をとりつつあるのは分かる。
じわじわと、そして港の噂話の中で音もなく。
「黄昏の仲介人」という名を誰かが口にした時点で、もうどこかでは火をつける導火線が用意されているのだと、トールは薄々理解し始めていた。




