第18話 沈黙の王と、終わらない終戦
王国暦四九〇年、講和式典の日――
王都の石畳は、戦争があったことを忘れるのが上手い。
踏まれて磨かれた道は、血を吸わない。煤も残さない。残るのは式典の飾りと、言葉だけだ。
広場には、白い布が張られ、花輪が並び、音楽隊が息を整えていた。吐く息が白いのに、式典の音だけが妙に温かいふりをしていた。
戦争の音ではない。和平の音だ。人は音で現実を塗り替える。
トールはその場に立っていた。
ステンブの灰がまだ袖口に残る外套で、この白さの中に立っているだけで場違いだった。場違いなままにされる。王都の礼儀だ。
「ご苦労だった、レンブラント書記官」
宰相派の高官が微笑む。笑みは歯の角度まで整っている。
背後の壇上では、宰相派の特使が主役として一段高い位置に立っていた。灰色の外套。紫の封蝋。
海の匂いのない場所でも、彼の封蝋だけは艶を保っている。
「和平の道筋が整いました」
高官が言う。整う。王都はその言葉が好きだ。
整ったものは綺麗で、綺麗なものは責任の匂いが薄い。
「戦争は終結へ向かう。ステンブの奮戦は、王国を救った美談として記録されるでしょう」
美談。
トールの胃が冷えた。
ステンブで聞いた呻き声と、ここで使われる言葉が噛み合わない。
壇上で、特使が口を開いた。声はよく通り、よく整っていた。
「ステンブの守りは、王国の誇りです。民と軍が一つになり、外敵を退け、和平へ道を拓いた。この勝利は、王国の団結と英知の証明です」
拍手が起きる。
拍手は、痛みを短くする。短くして、記憶の隙間へ落とす。
トールは拍手をしなかった。
手を叩けるほど、手が軽くない。
死者名簿の重さは、王都の石畳では軽くならない。
隣で、記録官が囁く。
「素晴らしいですね。これで王国は一つになります」
一つ。
その言葉が、どうしようもなく綺麗で、どうしようもなく嘘くさい。
式典が終わる前、別の報せが王都に走った。
音楽が途切れ、広場のざわめきが一段落ちる。
走ってきた伝令が壇上へ上がり、宰相派の耳元で何かを囁いた。
宰相派の顔色がわずかに変わる。
変わるだけで、崩れない。崩れないように訓練された顔だ。
特使が壇上から一度だけ目線を落とした。
視線が、ほんの一瞬だけトールに触れた気がした。
触れたのは偶然かもしれない。偶然で済ませられるくらい軽い接触。だが、胸の奥が冷える。
宰相派の高官が咳払いをして、声を作り直した。
ここ数日、王妃の容体は公表されていない不安として王都に漂っていた。
「……急報です。王妃陛下が崩御されました」
広場の空気が凍った。
一瞬だけ、王都の白が色を失う。
「そして」
高官が続ける。言葉が慎重になる。慎重さが、事態の重さを証明する。
「国王アルフォンス陛下は深い哀悼のため、しばらく公の場での発言を控えられるとのこと。以後、国政は宰相府が補佐し、滞りなく進めます」
補佐。
滞りなく。
その二語の裏に、王都の本音が透けた。
王は沈黙する。
宰相が喋る。
喋る者が、国を動かす。
誰かが小さく呟いた。
「沈黙の王……」
言葉はすぐに広がった。人間は肩書きを作るのが好きだ。
沈黙の王。悲劇の象徴。美談の一部。
戦争の「後」に必要な看板。
トールは、ステンブの火を思い出した。
弔いの火。
あの火は喋らない。
でも、燃え方は嘘をつかない。
式典の後、宰相府の控室で、トールは処理の現場を見た。
机の上には書類。和平案。賠償条項。復旧支援。名簿の要求。
字面は整っている。整いすぎている。
特使がトールに向けて、穏やかな声で言った。
「ステンブの復旧支援は急務です。あなたの正確な記録が役に立つ」
「名簿も、ですか」
トールが問うと、特使は薄く頷いた。
「秩序のために。配給のために。労務のために」
その言葉は、正しい形をしている。
形が正しいほど、腹が黒くても隠せる。
「王妃の死で、和平はどうなりますか」
トールが言うと、特使は一拍置いた。
その一拍が、答えより雄弁だった。
「動きます」
「……動く?」
「悲しみは、政治を進める良い燃料になります。国が沈黙すれば、誰かが喋らねばならない」
沈黙の王。喋る宰相。
整う和平。美談化。
全部が一本の線で繋がった。
トールの背中に汗が浮く。
「ステンブは勝利の象徴になりました」
特使が言う。
「象徴は便利です。矛盾を押し込められる。あなた方は誇るべきだ」
誇るべき。
その言葉が、ステンブの死者名簿を紙屑みたいに扱った。
トールは静かに返す。
「誇りは、現場に置いてきました。灰の中に」
特使の口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑みではない。評価だ。
「あなたは、王都向きではない」
「光栄です」
トールは自分でも驚くほど冷たく言えた。
王都の空気は、人間を冷たくする。守るために。
宰相府を出ると、王都はすでに次の準備をしていた。
弔いの黒布と、和平の白布が同じ場所に並べられている。
悲しみも和平も、同じ装飾になる。
トールは広場の端で立ち止まり、空を見上げた。
空は青い。ステンブの空と同じ色なのに、匂いが違う。
匂いが違うだけで、世界は別物になる。
「終わったんだよな」
自分に言い聞かせるように呟く。
だが、口が勝手に否定する。
終わっていない。
終わりの形を整えているだけだ。
王妃の死は、悲劇として消費される。
国王の沈黙は、象徴として利用される。
ステンブの奮戦は、美談として磨かれる。
そしてその裏で、名簿が集められる。
人の並びが整えられる。
拾うべき名が探される。
トールは理解した。
戦争の「後」が、次の時代の「前」になる。
火は消えていない。灰の下で赤いままだ。
彼は小さく息を吐き、胸の内で結論を言い直した。
これは終わりじゃない。
これは、次の時代への火種だ。
王都は綺麗に終わらせる。
だから、汚い始まりが用意される。
トールは歩き出した。
ステンブへ戻るために。
名簿の続きを書くために。
火種の形を、せめて見えるようにするために。
王都の鐘が鳴った。
その音は、ステンブの鐘と同じはずなのに、なぜか遠く感じた。




