第17話 勝利のあとに残る紙
夜明け前、港湾事務所の机に封書が積まれた。
ステンブの被害報告に混じって、西境各地の別紙がある。
クライネルト要塞。内郭結界。崩落寸前。
勝った、と書かれた報告書は綺麗だった。
文字が整っていて、数字が揃っていて、結論が短い。
ステンブの港には、そんな綺麗なものは残っていなかった。
潮の匂いの奥に、焼けた木と油の焦げがまだ刺さる。煤は湿って冷たく、霧雨がそれを石畳に貼り付ける。歩けば灰が舞い、吸えば喉がひりつく。吐く息は白いのに、肺の奥だけが黒い気がした。
海壁の石は削れたまま乾かず、砲座の縁には砕けた金具が刺さっている。桟橋は途中で折れた骨みたいに海へ突き出し、潮に揺れる瓦礫がぶつかっては鈍い音を立てた。
人は歩いている。歩ける。
だが、歩くために必要だったものが、いちいち足りない。
靴がない。包帯がない。水が濁っている。火がない。火を起こす薪がない。薪を割る斧がない。斧を持つ手が、もうない。
「……勝ったんだってさ」
誰かが言う。笑いじゃない。ため息でもない。
空気に混ぜる言葉として、それ以上の重みを与えない言い方だった。重くすると耐えきれない、と身体が知っている口調。
トールは仮設の帳場に座り、二冊の台帳を前に置いた。
一冊目は、死者名簿。
二冊目は、生存者名簿。
生存者の名簿があるのは喜ぶべきことだ。普通は。
だが今日のステンブでは、二冊目はただの残り物の一覧だった。紙の上で息をしているだけの名が、現場ではすでに壊れている。
列の端に「確認済」と書けない名が、まだ残っている。
崩れた家の下。沈んだ小舟の底。焼けた倉庫の奥。見つからない者の死は、紙の上でも宙に浮く。
「書記官、手が止まってる」
マーカスが入ってくる。軍服はまだ汚れたまま。洗う時間がないというより、洗う意味が薄い。勝利は人を回復させない。勝利は仕事を増やす。
「止まると嘘になるので」
トールが答えると、マーカスは鼻で笑った。
「嘘じゃねえ。足りねえだけだ。名が多すぎる」
多すぎる。
それが現場の言い方だ。数字じゃなく、重さ。
トールはペンを持ち直し、死者名簿に一行足した。紙がその一行を受け取った瞬間、現場から何かが一つ消える気がした。人間が処理に変わる音がした。
「生存者名簿は、どうして二冊目が必要なんです」
「配給。労務。避難先。治療。全部だ」
マーカスは机の端を指で叩いた。
「生き残ったやつを生かし続けるための名簿だ。勝ったって言うなら、そこまで面倒見ろって話だ」
勝った、という言葉は便利だ。
便利だから、現場は殺される。
昼前、焼けた港を見下ろす高台で、復旧計画の打ち合わせが始まった。
地図の上に木炭で線を引き、残った桟橋と沈んだ桟橋を区別し、海壁のひびに印をつける。
ライサが言い切る。
「まず海壁。ここが崩れたら全部終わる」
声はかすれている。怒鳴り続けた喉だ。それでも声を出す。港を動かすために。
「次に水。井戸を先に直す。汚水の流れを先に通す。病気で死ぬのが一番くだらない」
くだらないという言葉が、救いみたいに響いた。くだらないなら止められる。止められるなら、やる価値がある。
商人ギルド支部長ヴェルナーが頷いた。巨体はいつも通りだが、目だけが沈んでいる。見送った数だけ沈む。
「倉庫の復旧は後だ。今は配給所と救護所の屋根を優先する。雨が落ちてくると、死なない奴も死ぬ」
トールは復旧計画の紙に、順番を書き込んだ。
海壁、給水、救護、配給、路地、倉庫、桟橋。
順番が現場の倫理になる。何を先に救うか。何を後回しにするか。
「路地もだ」
マーカスが横から割り込む。
「市街戦で使った路地は、死体と瓦礫で詰まってる。あれ放っとくと、次の襲撃で逃げ道がなくなる」
港の若い女が震える声で言った。
「次の襲撃なんて、言わないで……」
マーカスは容赦なく返す。
「言わねえと来る。来てから泣くのは遅い。泣くのは今泣け。終わったら働け」
最悪の励まし方だ。
でも、現場の言葉だ。優しさに時間を割けない場所の言葉。
午後、配給所の前が荒れた。
パンの匂いは、戦場より人を狂わせる。
列の中で殴り合いが起き、倒れた男の頭から血が出た。止血布が足りない現場で、くだらない流血が増える。
ライサが飛び込んで、殴り合いの間に割って入った。
「殴るなら私を殴れ!死にたいのか!今は並べ!並べないなら、ここで全員餓死だ!」
誰も殴らなかった。
殴る腕が、もう疲れていた。疲れた人間は、怒るより先に空腹になる。
夕方、海壁の陰で一つの火が上がった。
埋められない遺体を焼く火だ。冬の土は固い。掘るには人手がいる。人手は死んだ。
燃える匂いが風に乗って港へ戻ってくる。吐き気と空腹が同じ場所に居座り、胃がひりついた。
「報告書、届いてますよね」
トールが言うと、ヴェルナーが短く答えた。
「届いてる。王都は勝利を受け取った。受け取ったら次は締めだ。締めるための紙が要る」
紙。
トールの仕事だ。
港が焼けても、紙は燃やすなと言われる。港が死んでも、紙だけは生き残れと言われる。
その夜、鐘楼が鳴らなかった。
鳴らす理由がなくなったわけじゃない。
鳴らす人間が、いなかった。
鐘楼の番は砲撃で死んだ。代わりの老人は、煙で咳き込み続けて倒れた。港は、時間すら自前で刻めなくなった。
代わりに、馬の蹄の音が来た。
凍った石畳を叩く硬い音。息を白く吐きながら走る伝令兵。
手には革の文書筒。
封蝋は、黒い。
黒封。
トールの背中が冷えた。港が冷えているのに、その冷えは別種だった。
「どこからだ」
ライサが先に問う。
伝令兵は、喉を鳴らして答えた。
「クライネルト要塞。西境総督府印。……それと、夫人付の印も」
夫人付。
トールは、以前読んだ口述の一節を思い出した。
「港が生きていれば、ここもまだ立ち続けられます」
口述だけが届く言葉。
今、その口述の主が、紙の上では「維持中」になっていた。
封蝋が割れる音は小さかった。
それがやけに大きく聞こえた。
文面は、乱れていない。乱れていないのが、いちばん怖い。
戦場の中で字を整えられる者は、字の外側が地獄になっていることを知っている。
トールは読み上げる。
「『クライネルト要塞、内郭結界、崩落寸前。帝国側、魔導砲により結界位相を狙撃。維持に当たり、夫人リリアーナ、力を尽くし戦死』」
戦死。
部屋の空気が一段沈む。
泣き声は上がらない。泣くには乾きすぎている。喉も、目も。
ヴェルナーの巨体が、ほんの少しだけ揺れた。倒れそうで倒れない。倒れたら港が回らないからだ。
ライサが短く息を吐く。
「……あの人が、か」
マーカスは、言葉を挟まない。目だけが、一瞬だけ遠くを見る。戦場の色の目が、戦場の外側へ飛ぶ。
トールは、続きを読んだ。
「『夫人の殉死により敵砲撃の照準は一時逸れ、内郭の避難民退避が可能となる。退避路確保に当たり、クライネルト騎士団『翠谷の鷲』所属の騎士カエラン、南門にて突出、敵先鋒を撃破。門前突破を阻止。以後、混乱下の指揮を一手に引き受け、兵と民の収容を完遂』」
騎士カエラン。
その名が、部屋の中に落ちる。
落ちて、跳ねない。
ここはステンブだ。英雄の名より水の名が重い。
それでも、マーカスが口を開いた。
「……カエランか」
知っている口調だった。
「知ってるんですか」
トールが問うと、マーカスは顎で頷いた。
「前線じゃクライネルトの『翠谷の鷲』は有名だ。その中でも名前だけは知られていた。そういう類の強さだ」
ライサが眉を寄せる。
「港の人間は知らない。王都の人間も、たぶん知らない」
「だから今、紙に載った」
マーカスの声は乾いていた。
「紙に載ったら、王都は知る。知ったら使う。英雄は必要だからな。……必要なのは水と屋根なんだが」
必要なのは水と屋根。
その通りだ。
でも王都は、英雄を飲む。英雄で喉を潤す。
トールは文面の最後まで目を走らせた。
「『当該騎士は従前より力量突出していたが、今回の戦闘にて顕著。軍務局において適切な顕彰・運用を検討されたし。なお、内郭結界崩落の詳細、敵魔導砲の特性については別紙にて報告』」
別紙。
敵の特性。位相。魔導砲。結界狙撃。
王都が欲しがっているものが、全部揃っている。
そして、添え物のように、死がある。
リリアーナの死は、原因であり、手段であり、空白だ。
彼女がいなければ門は落ちた。門が落ちればステンブも落ちた。ステンブが落ちれば、王都が交渉できるカードが増えたかもしれない。
そんな計算が、どこかの机の上で勝手に成立するのが、戦争だ。
「……名簿係」
ライサが、ぽつりと言った。
「まだ見つかってない」
沈黙が落ちる。
名簿係が消えた。夫人が死んだ。英雄の名が紙に載った。
全部、同じ種類の奪い方だ。
人を奪い、名を奪い、名の使い道を奪う。
トールは黒封の紙を握りしめた。指が冷えて感覚が薄いのに、紙の角だけは痛い。
「この報告、王都へ」
ヴェルナーが言う。命令じゃなく、確認でもなく、必然の口調。
「誰が運ぶ」
マーカスがトールを見る。
「……トール」
トールは頷いた。紙の仕事をしている人間が、紙を運ぶ。運んで、紙の上でまた人が減る。
ライサが、トールの机の上の二冊の台帳を見た。
死者名簿。
生存者名簿。
そして、黒封。
「書記官。持ってけ」
ライサの声は低い。
「港の勝利の紙と、港の死の紙、両方持ってけ。王都に一枚だけ渡すと、都合のいい方だけが残る」
トールは、返事がすぐに出なかった。
都合のいい方だけが残る。
それが、今までずっと起きてきたことだ。
だから、せめて持っていく。都合の悪い紙も、重い紙も、灰の匂いのする紙も。
黒封の中で、リリアーナの名はもう死んでいる。
でも、紙に残ったから死んだ、とも言える。
紙に残らなければ、死はなかったことにできる。
トールは二冊の台帳を閉じた。背表紙が鳴る。生き残った名が、中で息を止めるような音。
帳場の隅に積んであった封筒を引き寄せ、封蝋の準備をする。
赤い封蝋。
王都が好きな色。
トールは、最後に黒封の写しを一枚だけ取り、余白に小さく書き足した。
――クライネルト騎士団『翠谷の鷲』所属、騎士カエランの名は、前線の噂としてではなく、公式記録として扱うべき。
書きながら、自分で自分が嫌になった。
扱うべき。
人の名を、物みたいに扱う言い方。
だが、そう書かないと、王都は拾わない。拾わなければ、英雄は生まれない。英雄が生まれなければ、死はただの損耗で終わる。
ステンブの死者が、ただの損耗で終わってほしくない。
その願いが、結局は王都向けの言葉に変換される。
人間は、嫌なほど器用だ。
外に出ると、霧雨が灰を叩いていた。
配給所の前にはまだ列がある。泣き声も怒鳴り声も、さっきより少ない。疲れた街は、静かに餓える。
海壁の向こう、暗い海は何も言わない。
言わないのに、そこにいるだけで「また来る」と分かる。
トールは荷を抱え、坂を下りる。
背中に紙の重さ。
鼻に灰の匂い。
そして、遠い山の要塞で死んだ夫人の名と、ようやく王都に届き始めた騎士の名。
英雄の名が広まるほど、港の痛みは薄まるだろう。
薄まるから、また繰り返せる。
その理屈が、骨の奥に冷たく刺さった。
鐘楼の代わりに、どこかで瓦礫が崩れる音がした。
ステンブは今日も、勝利のあとを生き残る。
生き残ってしまう。
そして、紙の上で次の戦争の準備が始まる。




