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第16話 戦後処理

夜が明けても、ステンブの空は灰色のままだった。吐く息だけが白い。濡れた布は乾かず、傷口が冷えで固くなる。

砲声が止んだあとに残るのは、勝利の歓声じゃない。煤の匂いと、燃え残りの熱と、数えきれない「呼ばれても返事をしない名前」だけだ。


海壁の上に立つと、石が削れた断面がむき出しになっていた。潮が当たるたび、脆い部分が小さく崩れる。

港は立っている。だが、立っているだけで、もう港の形をしていない。


マーカスは海壁の縁に腰を下ろし、指の皮が剥けた手で顔を拭った。血と煤が混ざって、どっちがどっちか分からない。短い黒髪が血と煤で固まり、眉間の皺だけが深い。


「……艦隊は引いた。上陸も押し返した。軍としては勝ちだ」


言い方が乱暴なのに、声が妙に乾いていた。

勝ったのに、勝った感じがしない声だ。


「勝ったのに、港が死にかけてる」


ライサが吐き捨てるように言った。彼女の目は赤い。泣いたからじゃない。煙で焼けた色だ。

短髪の先に灰が絡み、喉を焼いた声がいつもより低い。泣く余裕がないかわりに、怒りだけが残っているように見えた。


海面には破片が浮いている。沈んだ小舟。折れた帆柱。燃え尽きた木箱。

民間の小舟も、敵の上陸艇も、同じように瓦礫になって漂っていた。海は、区別しない。


トールは海壁の内側、仮設の伝令所で紙束を抱えたまま立っていた。

書いた。書き続けた。どの砲座が残り、どの角で誰が倒れ、どの路地が通れなくなったか。

それでも足りない。足りないのは情報じゃない。人手だ。


「名簿係は」


トールが言うと、ライサが目を伏せた。


「一人、戻ってない。配給所の、あの子」


あの子で済む話じゃない。

配給は人が動く場所で、名簿は人を守る最後の骨だ。そこを抜かれた。


ルカが壁にもたれ、低い声で言った。


「さらいは裏。だが、裏だけの動きじゃない。指示が整いすぎてる」


トールは、紫に似た封蝋の小さな封筒を見下ろした。昨日拾った指示書。短い文。冷たい字。


混乱に紛れて名を拾え。生かして運べ。


「生かして運べ、って……」


マーカスが唾を吐くみたいに言う。


「殺すより面倒だ。面倒をやるってことは、欲しいのは死体じゃねえ」


欲しいのは人。名。口。

そして、その背後にある何か。


港の中央広場は、臨時の救護所になっていた。

布を張っただけの屋根の下で、負傷者がうめき、治療が追いつかず、呻き声が途切れていく。


治療の順番を決める声が、冷たく響く。

冷たいから悪いのではない。冷たくないと崩れるから冷たくしている。


「止血布が足りない!」


「水! 水が濁ってる、煮沸しろ!」


「消毒酒がもうない!」


インフラの傷が、ここで牙をむく。

井戸は砲撃の振動で壁が崩れ、濁りが出た。導水管はどこかで裂けた。港の小さな貯水槽もひびだらけ。

水が死ぬと、街が死ぬ。戦闘が終わってから死ぬ。いちばん嫌な死に方だ。


ライサは救護所の端で、配給の担当者に怒鳴っていた。


「配る物がないなら、配る順番を決める! 順番がないと殴り合いになる! 殴り合いになったら怪我が増える!」


「パンが足りません!」


「足りないのは分かってる! だから数字を出せ!」


現場主義の叫びは、綺麗じゃない。けれど、現場を動かす。

港の人間は、言葉の美しさじゃなく、今日生きられるかで動く。


トールは紙に走り書きした。

食料。水。怪我。居場所。

そして、その下に重く一行。


死者・行方不明者。


数え始めると手が止まる。止めると嘘になる。

だから数えた。数えて、胃が冷えた。


死者は、洒落にならない数だった。

上陸戦で倒れた兵。砲撃で潰れた家の下の家族。火に巻かれた倉庫番。避難の途中で倒れた老人。

名簿係の行方不明が、その上に乗る。


軍事的には辛勝。

人的には、敗北に近い。


午後、壊れかけた会館で臨時の会議が開かれた。

机は焦げ、窓は割れ、椅子は足が折れていた。それでも座る。座って決める。決めないと死ぬ。


ヴェルナーが短く言う。


「帝国艦隊は沖合に下がった。追撃はできん。こちらに海軍戦力がない」


「追撃なんかできるかよ」


マーカスが荒い声で割り込む。


「今追ったら、港が空になる。空になった港は、次で終わる」


ライサが頷いた。


「追うより、立て直す。海壁のひび、補給路、配給所、救護所。優先はそれ」


そこへ、灰色の外套が入ってきた。

ヴァロワ伯の嫡子。特使。

靴は相変わらず綺麗だった。白手袋が報告書の端をつまみ、紙に灰が移るのを嫌うように動く。それが戦場では不自然だった。灰の中で綺麗な靴を見ると、なぜか腹が立つ。理屈じゃない。


特使は机の上の被害報告を一枚めくり、淡々と口を開いた。


「軍事的には、よく持ちこたえました。海壁上の砲戦、上陸阻止、市街での誘引。戦術は成功です」


成功。

その言葉が、救護所の呻き声と噛み合わない。


「ただし」


特使は続けた。


「経済・インフラは重症です。港湾機能は当面停止。交易の停滞は避けられない。復旧には資材と人員が要る。王都としても支援は検討しますが、条件があります」


条件。

会議室の空気が一段冷えた。


ライサが先に問う。


「また名簿?」


特使は微笑まない。ただ、視線を落とす。


「混乱時に最も重要なのは秩序です。配給の統制、治療の優先、復旧労務の割り当て。正確な名簿が要る」


「名簿は現場管理って文書で書いた」


マーカスが机を叩いた。


「約束は守れ。裏が動いてる。名簿係が一人消えた。……これ以上整えるとか言うなら、俺が先にお前の靴を泥に沈める」


乱暴な脅しだ。だが、会議室が黙った。

特使は怒らない。怒ると腹が見えるからだ。


「名簿係の失踪は遺憾です」


遺憾。

便利で、何も言っていない言葉。


トールは耐えきれず、一歩前へ出た。紙束を握ったまま。


「この指示書の封蝋の色、あなたの文書と似ています。偶然ですか」


特使の視線がトールに刺さった。

一瞬だけ、温度が変わる。目が笑っていない。


「封蝋の色は市販です」


市販。そう言い切る。

否定ではない。責任の拡散だ。


「裏社会が真似した可能性もある。あなた方が裏を使った以上、そういう危険は織り込み済みでしょう」


正論の形をしている。

けれど、その正論はいつも、人を守らない側に便利だ。


ライサが低い声で言った。


「裏を使ったのは、私が港を守るため。だから責任は私。けれど、裏を使う設計をしてる匂いがするのは、あなた」


特使は一拍置き、静かに言った。


「戦争を終わらせるには、表だけでは足りません。昨日の砲撃戦で、帝国は港を落とせなかった。それは事実です。では次に何をするか。あなた方が考えるべきはそこです」


議論を、未来にずらす。

責任の視点を、今から先へずらす。

腹が見える。だが掴めない。


マーカスが唸った。


「……言ってることは正しい。だから腹が立つ」


特使は微笑んだ。薄い、評価の笑み。


「復旧計画を出してください。王都は、支援の形を整えます」


整える。

その言葉が、トールの胃に重く落ちた。


夕方、港の外れで、弔いの火が上がった。

五日祭の火とは違う。祝わない火。

ただ、見送るための火だ。


名を呼ぶ声が、波にさらわれていく。

返事がない。

それでも呼ぶ。呼ばないと、消えるからだ。


トールは紙に、死者の名を書きつけた。

手が震える。震えるからこそ書く。震えを止めるために書くのではない。残すために書く。


マーカスが隣に立った。


「……書記官」


「はい」


「勝ったって言ったの、取り消していいか」


乱暴な男の声が、妙に小さい。


「軍としては勝ちだ。でもな。これで次が来る。次はもっと汚い」


ライサが火を見つめたまま言う。


「港は、かろうじて生き残った。だから今度は、港を使う人間が増える」


ルカが暗がりから短く言った。


「黄昏は、終わってない。むしろ、ここから濃くなる」


誰も否定しなかった。

否定できない。


遠くの会館の窓に、一瞬だけ灯りがともった。

灰色の外套の影が、机に向かってかがむ。


紫の封蝋が押される音は、ここまでは聞こえない。

けれどトールは、聞こえた気がした。

整えるための小さな音。


港は、今日を生き残った。

軍事的には辛勝。

経済とインフラは重症。

人的損失は洒落にならない。


それでも、人は瓦礫をどける。

担架を運ぶ。

配給の順番を決める。

名を書き残す。


ステンブは、かろうじて生き残った。

生き残ったこと自体が、次の戦の入口だと知りながら。

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