第15話 海が吠える日
鐘楼が鳴る前から、海がうるさかった。
波じゃない。空気そのものが、遠くの重い金属に押しつぶされている。
ステンブの海壁に上がったトールは、水平線のもやを見て喉が乾いた。吐く息が白く、海風が頬を薄く切った。
霧の向こうに並ぶ黒い影。一本、二本、十本。
艦隊だ。
「来やがったな……」
マーカスが吐き捨てる。乱暴な声のくせに、目だけは冷たい。
日に焼けた頬骨の上に薄い傷が一本残り、笑うべき場面でも口角が動かない。鎧の留め具を指で確かめる癖が、緊張より先に体を落ち着かせていた。
海壁の上には沿岸砲。矢倉。投石機。火矢の束。
そして、符紙を貼り付けた衝撃避けの木盾が、等間隔に並べられている。新しい道具は作れない。だから、あるものを徹底的に使う。
「書記官。お前は後ろだ。弾が飛ぶ場所に立つな」
「記録を取れと言ったのはあなたです」
「だから死ぬなって言ってんだよ」
マーカスは海側へ顔を向ける。
「合図が来たら、砲手に伝えろ。海壁の砲は焦って撃つな。撃つのは近いのを落とせる距離だけだ」
トールが頷いた瞬間、鐘楼が鳴った。
八時。
音のあと、ほんの少し遅れて、海が光った。
艦隊の一斉射。
空が裂けるような音が遅れて来る。
次の瞬間、海壁の手前が爆ぜた。水柱が立ち、塩と砂が雪みたいに降る。
「伏せろ!」
マーカスが叫ぶ。
衝撃が胸の骨まで押し込んでくる。
符紙を貼った盾が震え、木材が悲鳴をあげる。
二発目。三発目。
今度は海壁の上が削れた。砲座の横の石が砕け、破片が飛ぶ。
「砲手! まだ撃つな! まだだ!」
マーカスの怒鳴りは、恐怖を押し潰すための音だった。
「撃ち返すな、って……!」
砲手の一人が叫ぶ。血が額を伝っている。
「撃ち返したら位置が割れる! 相手は数が違う! 近づかせて、当てろ! 当てられる距離で殺せ!」
トールは海壁の内側へ走り、伝令札を握って矢倉へ駆け込む。
砲撃の周期。着弾のズレ。
昨日までの「分からないこと」が、今日は命綱になっている。
市街は、すでに戦場だった。
砲撃は海壁だけを狙っていない。
倉庫街。配給所。避難民の集積所。
人の流れが生まれる場所だけを、狙い澄ましたように叩いてくる。
「こっち! 子どもを先に!」
ライサの声が、煙の向こうから聞こえた。
彼女は港の女だ。戦場の指揮官の声じゃない。
でも今、港は戦場だから、彼女が指揮官になる。
「配給は止めない! 配る! 止めたら暴れる! 暴れたら死ぬ!」
瓦礫の下から引きずり出された男が呻く。
担架が走る。
泣き声が上がる。
砲撃が、わざとその真上に落ちる。
「……人を動かしたいんだ」
トールの頭に、特使の言葉が蘇る。
戦争を終わらせる。表も裏も必要。揺れを整える。
揺れは前線が作る。
揺れは今、作られている。
誰のために?
海壁上。砲戦が始まった。
「今だ! 近いのを狙え!」
マーカスの号令で、沿岸砲が火を吐いた。
砲弾が海面を跳ね、艦の舷側に当たる。
黒煙。破片。怒号。
「当たった! 右舷!」
「次! 次だ! 同じ距離で撃て!」
帝国艦隊は怯まない。
数がある。余裕がある。
一隻が傷ついても、残りが砲門を開く。
砲声が重なり、空が灰になる。
海壁が削られ、石が裂ける。
符紙の貼られた盾が、衝撃でひしゃげる。
そのとき、海面に小さな影が増えた。
舟だ。
艦隊の陰から、細い舟がいくつも滑り出してくる。
「上陸だ!」
マーカスが歯を鳴らす。
「海壁だけじゃねえ。市街に入れてくる気だ。ライサに伝えろ!路地を殺せ!角で殺せ!」
「路地を……殺す?」
伝令が怯える。
マーカスは怒鳴り返した。
「敵を殺せって意味だ! 道を通すな! 入ったら終わりだ!」
裏で、別の戦が始まっていた。
倉庫街のさらに裏。
昨日の夜、黄昏の仲介人が座っていた暗い部屋。
そこに今夜は、別の客が来ていた。
紫の封蝋。
それに似た色の印を押した封筒が、机に置かれている。
「火は上がった。人は動いている。良い滑り出しだ」
特使の声は落ち着いていた。
港が燃えても、机の上では燃えない。そういう声。
黄昏の仲介人は薄く笑う。
「あなたは整えるのが上手い。だが現場の犬が噛みつくよ」
「噛ませる。噛ませて、牙の形を見る」
特使が封蝋の縁を、親指で一度なぞった。癖みたいに。
「探せ。名を。守られている名を拾え。混乱の中でしか動かない者がいる」
「もし、違ったら?」
「違っても構わない。拾うべき名が増えるだけだ」
人が人を数える声。
それが政治の腹だ。
仲介人は指を鳴らす。
扉の影から、数人の男が現れる。顔は見えない。歩き方だけが獣だ。
「配給所の名簿係をさらう。生きたまま。喋らせる」
「殺すな」
特使が言った。
「死体は喋らない。名は死体からは抜けない」
仲介人が肩をすくめる。
「ご立派。昼の言葉だ」
「昼も夜も関係ない。必要な形に整える」
特使は立ち上がった。
「黄昏は、働け」
市街の路地。暗闘。
ルカが先導していた。理由は単純だ。
海の道も、陸の裏道も、この男は「音」で覚えている。
砲声の中でも、足音の違いが分かる。
「止まれ」
ルカが手を上げる。
前方、崩れた壁の影に、複数の足音。急いでいる。
逃げる足じゃない。狩る足だ。
ライサの配下の若い男が唾を飲む。
「海兵ですか」
ルカは首を振った。
「違う。重い靴じゃない。港の裏の歩き方だ」
次の瞬間、影が飛び出した。
布で顔を隠した男が二人。
手に短剣。縄。
そして、血の臭い。
「邪魔だ!」
男が叫び、ライサの部下へ斬りかかる。
ルカがとっさに横から腕を振り、男の鳩尾を穿つ。
無駄がない。
「誰の指示だ」
ルカが低く問う。
苦悶の表情をした男は唾を吐いた。
「黄昏だ。金の匂いがする方だ」
ルカの口元がわずかに歪む。
「……俺が繋いだ糸だ。だが手綱はもう俺の手にない。黄昏にも、金の匂いがする方と、港を消したくない方がいる」
ライサの名が出ない。帝国の名も出ない。
それがいちばん嫌だ。裏の戦はいつもそうだ。
「名簿係はどこだ」
男が笑った。笑える状況じゃないのに笑う。
「もう動いてる。鐘が鳴るたび、場所が変わる。あんたらが決めた安全な時間が、あんたらを殺す」
ルカは男の喉元に刃を寄せ、言った。
「誰が時間を知っている」
男の目が揺れた。
恐怖じゃない。言っていい相手か迷う目だ。
「……王都の、綺麗な靴の人間だ」
海壁。正午。十二時。
鐘楼の鐘が鳴り、少し遅れて、艦隊の砲撃がまた揃った。
今度は海壁の中央が狙われた。砲座が潰れ、火薬庫に火が移りかける。
「水! 水持て!」
「火薬を移せ! 今すぐ!」
現場の叫びが飛び交う。
そこへ、マーカスが怒鳴り声で割り込んだ。
「火薬を抱えて走るな! 死にたいのか! 土袋だ! 土で止めろ! 符盾を前に出せ!」
符盾が前へ運ばれ、衝撃を少しだけ削る。
完全には止まらない。
でも少しだけで、人は生き残る。
トールは後方の伝令所で、震える手を抑えていた。
書く。記録する。
誰がどこで死にかけたか。どの砲座が残ったか。
それが次の判断になる。
そのとき、伝令所に飛び込んできたのはルカだった。顔に煤。目が硬い。
「さらいが動いた」
「誰が?」
「黄昏。だが、指示してるのは別だ。綺麗な靴のやつが時間を知っている」
トールの胃が冷えた。
特使。
文書に署名して、名簿は現場管理だと言った男。
その裏で、名簿係をさらわせている。
「……証拠は」
ルカは小さな封筒を投げた。
紫に似た封蝋。
そして、中の紙切れに書かれた短い指示。
「混乱に紛れて名を拾え。生かして運べ」
トールは息を止めた。
これが腹だ。
戦争の顔ではなく、胃袋の中身。
午後。艦隊の砲撃がさらに激しくなる。
「市街に入ってきたぞ!」
「海壁の北が破れた!」
報告が重なり、会話が喧騒になる。
混乱が増える。
混乱は、誰かの狙いだ。
マーカスが海壁の縁に立ち、叫んだ。
「退くぞ! 内側の線へ! 走るな、散れ! 散って生きろ!」
退却。
だが、これは逃げじゃない。
事前の打ち合わせで決めた「切り方」だ。
「砲手は最後! 砲を捨てるな! 火は消せ! 使えるものは全部持て!」
海壁上の兵が内側へ下りる。
帝国の海兵が壁を越えようとする。
その瞬間を待っていた。
「今だ! 角で殺せ!」
市街の入口、狭い路地の両側から矢が飛ぶ。
屋根の上から石が落ちる。
近距離でしか当たらない武器が、近距離に誘い込まれた敵を削る。
ライサが叫ぶ。
「路地から出すな! 広場に出したら終わりよ!」
市街戦は泥と血と煙だ。
英雄の場じゃない。
ただの生存の作業。
十六時。鐘楼が鳴る。
艦隊が最後のように砲門を開く。
一斉射。
今度は市街の中心、配給所のすぐ近くに落ちた。
土煙が上がり、人が倒れる。
その直後、裏からの襲撃が重なる。
黄昏の手の者が、混乱に紛れて名簿係へ伸びる。
縄。
布。
口を塞ぐ手。
「離せ!」
叫びは砲声に消える。
砲声は、叫びを消すためにあるみたいだ。
そこへ、ルカが滑り込んだ。
刃が光り、縄が落ちる。
ライサが殴り、マーカスが蹴る。
きれいじゃない。だが速い。
「誰の命令だ!」
マーカスが男の襟を掴み、壁に叩きつける。
「黄昏だ!」
「黄昏の後ろだ!」
男は喚き、吐き、最後に言った。
「王都のやつが……『名を拾え』って……!」
マーカスの目が一瞬だけ凍った。
怒りじゃない。理解だ。
「……やっぱりか」
ライサが歯を噛み、短く言う。
「味方の顔をした敵ね」
夕暮れ。
艦隊は沖へ引いた。完全撤退じゃない。距離を取っただけだ。
煙が海に溶け、空が赤黒くなる。
ステンブは、まだ立っている。
ただし、削れた。折れた。焼けた。
そして、消えた者がいる。
「名簿係が一人、いない」
トールの報告に、ライサの顔が沈む。
「さらわれた?」
「……分かりません。混乱の中で姿が消えました」
マーカスが拳を握り、言った。
「分からない、じゃ済まねえ。取り返す」
ルカが封筒をトールへ返す。
「証拠は残った。相手が王都のやつだと、表に出せ」
トールは頷いた。
だが頭の片隅で、もっと嫌な答えが育っていた。
特使は戦争を終わらせると言った。
終わらせるために、名を拾う。
守られている名。噂の名。
人を拾う戦争。
領土じゃない。勝敗でもない。
最初から、別の獲物を狩っている。
遠くの港の端で、紫の封蝋が夕日の色を吸って、妙に艶めいて見えた。
そしてトールは、紙に一行だけ書き足した。
「敵は海から来る。だが獲物は、港の中にいる」
鐘楼はもう鳴らない。
代わりに、夜が来る。




