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第14話 黄昏の仲介人

鐘楼の鐘が鳴る前に、港はもう動いていた。冷気で指先がかじかみ、縄も釘もいつもより硬く感じる。


砲弾が落ちるかもしれない場所で、人間はパンを焼き、釘を打ち、瓦礫を運ぶ。そうしないと生きられないからだ。


トールは仮設の帳場で、昨日現場管理に切り替えた名簿を見直していた。避難民、遺族、配給、負傷。

誰の腹も、もう余白がない。


机の端に、紫の封蝋が押された文書が置かれている。昨夜、特使が「文書化する」と約束したやつだ。約束を守ったこと自体は、政治にしては珍しい。


珍しいから、信用はしない。


扉が開いて、マーカスが入ってきた。靴が床を汚す。謝らない。謝る暇がない男の歩き方だ。


「書記官。顔、死んでるぞ」


「生きてます」


「なら働け。港の外で獣がうろついてる」


トールは手を止めた。


「獣?」


「私掠船だ。帝国旗は出さねえ。出したら戦争が面倒になるからな。代わりに海賊の顔で来る。港に火をつけて、補給を腐らせる。鐘に合わせてな」


鐘楼の八時、十二時、十六時。

律儀な砲撃の拍と、私掠船の襲撃が、同じ線で繋がっていく。


「拠点は?」


「まだ確定じゃねえ。だが匂いはする。海岸線のどこかに巣がある。そこを叩く」


「正面から?」


マーカスが鼻で笑った。


「正面から行ったら、こっちが沈む。だから裏を使う」


トールは嫌な予感を覚えた。裏。つまり、裏ギルド。


「……裏ギルドと組むんですか」


「組むって言い方はやめろ。利用する。向こうもこっちを利用する。泥水で喉を潤すみたいなもんだ」


そこへ、ライサが入ってきた。外套の裾に潮と煤。顔は疲れてるのに、目だけは折れていない。


「裏を使うなら、窓口は私がやる」


「危ない」


マーカスが即答した。


「危ないから私がやるの」


ライサは言い返した。冷たい声だ。冷たいほど本気だ。


「港の人間のことを知らない裏に、名簿の匂いを嗅がせたくない。あいつらは匂いに群がる」


トールは紫の封蝋の文書を見た。

名簿は現場管理。支援配分は現場監督。口を金で閉じる発想は禁止。

書いてある。書いてあるだけ、という可能性もある。


「行くぞ、書記官」


マーカスが顎でしゃくる。


「お前の分からないは、今夜わかるになる。なら、目を開けて来い」


裏ギルドの窓口は、表の酒場より静かだった。

静かというより、音を飲み込む壁だ。

港の裏手、倉庫街のさらに裏。壊れた樽が積まれた路地の奥に、灯りが一つだけある。


扉の前に立つ男が、ライサの顔を見て一度だけ頷いた。止めない。止める権利もない。


中は薄暗い。甘い香の煙が漂い、誰の顔もはっきり見えないようになっている。

そこに座っていたのが、黄昏の仲介人と呼ばれる男だった。


年齢不詳。服は地味だが、布の質だけが良い。指先が綺麗すぎる。

笑うでもなく、睨むでもなく、ただ「こちらの値段」を量る目。


「港の守り手が、黄昏に何の用?」


声は低い。耳に残る。


ライサが答える。


「私掠船の拠点。場所と、出入りの時間」


仲介人は肩をすくめた。


「海の獣は、潮と金に集まる。港が燃えれば金が動く。金が動けば獣も動く。分かりやすい話だね」


マーカスが椅子を引いた。音がでかい。わざとだ。


「回りくどいの嫌いだ。いくらだ」


「おや、現場の人は短い」


仲介人が笑った。笑い方が薄い。


「情報は二段。まず匂い。それから地図。匂いは安い。地図は高い」


トールは思った。こいつは売っているふりをして、買っている。

何を買う? こちらの焦り。こちらの事情。こちらの線。


ライサが先に釘を刺した。


「名簿は渡さない」


仲介人の目が一瞬だけ光った。笑うより先に、欲が出た目だ。


「名簿? そんなもの、誰も欲しがらないよ。危ないだけだ」


嘘だ。欲しがる。

だから「欲しがらない」と言う。


マーカスが机の上に、銀貨袋を落とした。鈍い音。


「匂いからだ。私掠船の巣。今夜行ける距離を言え」


仲介人は袋を指で触れない。触れると欲が見えるからだ。代わりに、机に細い木片を置いた。木片には潮で削られたような傷。


「北の浅瀬。崩れた灯台の影。潮が引くと岩が牙を出す入り江。そこに夜だけ生きる倉庫がある」


ライサの眉が動く。そこは、地元の漁師が近寄らない場所だ。


「証拠は?」


仲介人が首をかしげた。


「証拠が欲しいなら、地図の段だ。高いよ」


マーカスが唸る。


「……足元見てるな」


「足元は、泥だらけだ」


仲介人は穏やかに言った。


「泥の深さを知っている人ほど、沈まない道を買う」


トールが口を挟む。


「その拠点、出入りの時間は」


仲介人の視線がトールへ滑る。

若い書記官の目に、何か計算を見たのだろう。


「鐘楼の鐘のあとだ。いつも少し遅れて来る。律儀なくらい、同じ間隔でね」


その言い方が、ぞっとするほど自然だった。

まるで最初から知っていたみたいに。


マーカスが椅子を蹴った。


「……あんた、誰に仕えてる」


仲介人は笑わない。


「黄昏に仕えてる。昼でも夜でもない、都合のいい時間に」


ライサが立ち上がる。


「地図はいらない。匂いで十分。こっちの条件を言う。港の人間を売ったら、あなたの黄昏は終わる」


仲介人は薄く頷いた。


「脅しは嫌いじゃない。ちゃんと本気が入ってるから」


マーカスが吐き捨てる。


「本気が入ってなきゃ前線じゃ死ぬ」


作戦は、分かりやすいほど単純だった。

偽装撤退で外へ目を向けさせ、その隙に獣の巣をかき乱す。


夜。潮が引く。岩が牙を出す。

崩れた灯台の影が、海に黒い刃を落とす。


小舟は三つ。

ルカが先導し、マーカスが真ん中、ライサが最後尾。トールは中央に押し込まれた。


小舟が沖へ滑り出したところで、マーカスが横目でトールを見た。


「……お前、なんで付いてきた」


トールは一瞬言葉に詰まり、波の音に紛れるくらいの声で答えた。


「……作戦は現場の方が回せます。僕が同行して、何が役に立つのかと思いまして」


マーカスは鼻で息を吐いた。


「役に立つんだよ。現場の話は、口だけだと握り潰される。紙になって初めて残る」


「……握り潰される、というのは」


「政治にも、裏にもな。都合が悪けりゃ事故になる」


マーカスは潮の黒さを睨むみたいに前を見た。


「だから見ろ。覚えろ。帰ったら書け。お前の紙が、次の死人を減らす」


海の匂いが濃い。潮と腐った藻と、金属の味。

岩陰に、薄い灯りが見えた。倉庫だ。確かに夜だけ生きている。


見張りは二人。表向きは漁師の格好だが、立ち方が違う。

漁師は海を見る。こいつらは人の来る方向を見る。


ルカが手で合図を出す。

マーカスが頷き、短く言う。


「殺すな。縛れ。話はあとだ」


ライサが小さく舌打ちした。


「後で話す前に、燃えるわよ」


「燃やすのは倉庫だ。人じゃねえ」


マーカスの声は乱暴だが、線がある。現場の線だ。


動きは早かった。

ルカが背後へ回り、見張りの口を塞ぐ。もう一人はマーカスが肩から倒し、膝で押さえつけた。


「声出したら歯折る」


見張りが頷く。目が恐怖で白い。


倉庫へ入ると、海水と油の匂いが鼻を刺した。

樽。縄。武器。乾いたパン。帝国の硬貨。

そして、紙束。帳簿。名簿に似たもの。


トールは背中が冷えた。


「……これ」


ライサも気づく。

港の人間の並びが、ここにもある。


マーカスが帳簿をひったくるように開いた。

そこに、配給の日時、避難民の流れ、誰がどこで泣いたかみたいなことまで、雑に書かれている。


「ちっ……裏から漏れてる。もう漏れてる」


ルカが倉庫の奥から小さな箱を持ってきた。

封筒が入っている。紫の封蝋。


トールの喉が鳴る。


「……特使の」


マーカスが封蝋を爪でなぞり、顔をしかめる。


「同じ色だ。印は……違うが、色が同じなら、狙ってんだろ」


ライサが低く言う。


「わざと似せてるか、同じ所から流れてるか」


トールは封筒を開けたい衝動に駆られたが、手が止まった。

ここで開けたら、次の言い訳が始まる。


マーカスが先に決める。


「燃やす」


「証拠が」


「証拠は持ち帰る。だがここは燃やす。巣を残したら、また噛まれる」


マーカスは油樽の栓を抜き、床へ流した。

火はライサがつけた。迷いがない。港を守る火だ。


炎が走り、倉庫の空気が変わる。

熱が背中を押す。


外へ出ると、すでに火の舌が窓から伸びていた。見張りは縛ったまま、波打ち際へ転がす。

死なせない。だが、もう戻れない。


小舟へ戻る途中、遠くで笛が鳴った。

私掠船の合図だ。

巣が潰されたことを、誰かが知っている。


「早い」


ルカが短く言う。


マーカスが歯を鳴らす。


「……内通だ。黄昏が売ったか、黄昏の上が売ったか。どっちでもクソだ」


ライサが言う。


「でも、火はつけた。巣は乱れた。明日からの襲撃は鈍る」


トールは紫の封蝋の封筒を胸に抱えた。

これが特使の腹の一部なら、胃袋を掴んだことになる。




翌朝。港の空は鈍い灰色だった。

煙の匂いは、海風に混じって薄くなっていく。


作戦会議の報告は、特使にも届く。届かせなければ意味がない。

トールは封筒を抱え、ライサとマーカスの後ろを歩いた。


特使は執務室で待っていた。灰の外套。整った机。紫の封蝋の文書。

港が燃えても、机は燃えない。そんな場所だ。


マーカスが机に封筒を置いた。音が重い。


「私掠船の拠点を叩いた。中に港の流れの帳簿があった。配給の時間帯や、鐘楼の鐘が鳴る時刻に合わせた動きまで書いてあった。どう思う」


特使は封筒を見下ろした。

すぐには触れない。触れると、何かが残るからだ。


「見事な攪乱です。被害は」


「こっちは出てねえ」


マーカスが乱暴に言う。


「で、質問に答えろ。どう思う」


特使は一拍置いて答えた。


「現場の情報管理が甘いのでは」


その瞬間、マーカスの目が燃えた。


「現場のせいにすんな。現場は今、名簿を守ってる。甘いのは裏だ。裏を誰が嗅がせた」


特使は目を上げた。

薄い笑み。


「裏ギルドを使うと決めたのは、あなた方でしょう」


正論の形をした刃だ。

ライサが前へ出る。


「使うと決めたのは私。だから責任も私。けど、帳簿の書き方が現場のものじゃない。配給の拍を知ってる。鐘の癖を知ってる。港の生活の拍を知ってる」


特使の目が、ほんの僅かに細くなる。


「……偶然かもしれません」


マーカスが笑った。笑いじゃない。


「偶然なら、俺が今ここで殴っても偶然で済むか?」


ライサがマーカスの腕を掴んだ。

止めたのは礼儀じゃない。次の一手のためだ。


特使は淡々と続ける。


「黄昏の仲介人、という名を聞きました。彼はどこにも属さない男です。利用したなら、利用されたと考えるべきでしょう」


トールは思った。

この男は、黄昏のことを知りすぎている。


マーカスが低く言う。


「お前、黄昏を知ってるな」


特使は微笑んだ。

封蝋を、親指で一度だけなぞった。癖みたいに。


「王都で生きるには、黄昏を避けられません」


それは告白の形をした、免罪符だった。


ライサが言う。


「……特使殿。あなた、最初から裏に通じてるの?」


特使は否定しない。肯定もしない。

ただ、言葉を選ぶ。


「私は、戦争を終わらせる仕事をしています。終わらせるには、表も裏も必要です。あなた方が嫌う方法も」


マーカスが吐き捨てる。


「嫌うんじゃねえ。殺されるから止めろって言ってんだ」


特使は、少しだけ顔を傾けた。


「では、質問を返しましょう。港の痛みを守るために、あなたは何を捨てられますか」


その言葉が、腹だった。

港の人間を守るふりをして、「捨てるもの」を探っている。

誰が先に折れるか。誰が先に売れるか。


トールの背中に汗が浮いた。


「……この封筒」


トールが口を開いた。自分でも驚くほど声が出た。


「封蝋の色が、あなたの文書と同じです。印は違います。でも、同じ色を選ぶ理由はあります。似せるなら、相手が見慣れた色にする」


特使の視線がトールへ刺さる。

刺すだけで、血は出ない。出るのは、言葉だ。


「聡明ですね、書記官。あなたのような人材は、王都に必要だ」


甘い毒。

トールは胃が冷えた。


マーカスが机を叩いた。


「勧誘してんじゃねえ。話を戻せ。裏の臭いが濃い。お前の靴は綺麗すぎる。なのに泥の匂いを知りすぎてる」


特使は静かに言った。


「泥の匂いを知らない者が、戦争を終わらせられると思いますか」


その瞬間、トールは確信した。

この男は、終わらせるために揺らしている。

鐘に合わせた砲撃も、私掠船の襲撃も、港の人間の並びを崩すための圧力だ。


目的は領土ではない。

人だ。

誰か一人。あるいは、誰かの名。


ライサが口を結んだ。

マーカスは言葉を失わない。


「……今度、裏が港の人間を齧ったら」


マーカスが一歩前へ出る。


「俺が裏ごと潰す。黄昏だろうが夜だろうが関係ねえ。現場は、現場のやり方で終わらせる」


特使は、初めて楽しそうに笑った。

薄い笑みじゃない。ほんの一瞬だけ、心が見えた。


「期待しています。前線のやり方が、どこまで届くのか」


それは挑発だった。

同時に、試験だった。


その夜。港の外れ。

黄昏の仲介人は、崩れた壁の陰で誰かを待っていた。


潮風が煙を散らす。

足音が一つ。整いすぎた靴音。


灰色の外套が闇に溶ける。

特使は、仲介人の前に立った。


「拠点は燃えました」


仲介人が言う。


「ええ。火は必要です。煙が上がれば、人は動く」


特使は淡々と返した。


「あなたは、まだ名を嗅いでいませんか」


「嗅いでいます。港の中に、守られている名があります」


仲介人は低く笑った。


「神託には各地で誕生すると言われている聖女の噂も」


特使の指が封蝋に触れた。

親指が一度だけ、縁をなぞる。癖のように。


「噂は噂のままでいい。確証が欲しい」


「確証には、もっと揺れが要ります」


「揺らすのはあなたの仕事ではない」


特使が言う。冷たい声だ。


「揺れは、前線が作る。私は、その揺れを必要な形に整える」


仲介人が頷いた。


「黄昏は整えるのが上手い」


特使は背を向けた。


「次は港ではない。港を守るふりをして、港の外を焦がせ。人は守りたいものが燃えると、必ず動く」


「……誰を動かしますか」


特使は一瞬だけ立ち止まり、言った。


「動いた者の中から、欲しい名を拾う」


それが腹だった。

戦争の腹。政治の腹。黄昏の腹。


鐘楼の鐘が、遠くで鳴った。

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