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第13話 線を切るな、骨を切れ

ステンブの港は、夜でも終わらない。夜気は冷たく、吐く息だけが白く浮いては瓦礫に吸われた。瓦礫をどける音、濡れた木が軋む音、泣き声を飲み込む咳。


トールは仮設詰所で、折りたたんだ紙を握りつぶしかけていた。

「分からないこと」を並べただけの紙だ。提出できない紙。


扉が乱暴に開いた。


「まだ起きてんだろ」


入ってきたのはマーカスだった。軍服は汚れ、袖口はほつれ、靴底に泥がこびりついている。

礼儀より先に、疲れと怒りが来る男だ。


「紙、出せ」


「……何の」


「出せっつってんだよ。昨日の会議で、お前の目が噛みつく犬みたいだった。そういうやつはだいたい紙を隠してる」


トールは嫌な気分になりながらも、紙を出した。

マーカスは奪うように受け取り、目だけで走らせた。


「鐘楼の八時、十二時、十六時……着弾が遅れて来る。律儀すぎる。偶然じゃねえな」


「私もそう思います」


「思うじゃねえ。使え」


マーカスは地図を机に叩きつけた。ステンブ周辺の防衛線。長い。薄い。

線というより、引っ掻き傷だ。


「今夜、作戦会議だ。王都の特使が縮めろって言いに来る」


「防衛線縮小案ですね」


「そうだ。綺麗な言葉で人を捨てるやつだ」


マーカスは一度、鼻で笑った。


「お前の紙は会議で武器になる。役に立たねえなら、燃やせ。紙に名前が残れば、責任者の首が飛ぶ」




会議室は広かった。広いくせに息が詰まる。

地図が何枚も広げられ、線が増え、赤い印が増えている。


ライサは席につかず立っていた。ヴェルナーは石みたいに黙って座り、ルカは壁際で目だけ動かす。


正面に、特使がいる。

ヴァロワ伯の嫡子。灰色の外套。磨かれた靴。机の上の封筒には紫の封蝋。煤の港には似合わない艶。


特使は淡々と口を開いた。


「提案は二つです。第一案、防衛線縮小。保持コストの高い前哨地を放棄し、兵力を集中します。第二案、ステンブ死守。現行の線を維持します」


「象徴とか言うなよ」


ライサが即座に切った。


「港は象徴じゃない。腹と喉よ。ここが止まったら内陸も死ぬ」


特使は紙を一枚めくる。


「承知しています。しかし現状の線は長すぎます。薄い線は必ず破れます。線を短くするのが合理的です」


「合理、便利な言葉だな」


マーカスが椅子を引く音を立てて口を挟んだ。

言葉が荒い。遠慮がない。会議室の空気が一段硬くなる。


「短くするって言い方はやめろ。切るんだろ。何を切る?誰を切る?」


特使は眉ひとつ動かさない。


「放棄候補は三か所。河沿いの小砦、丘陵の監視所、海岸哨戒拠点。戦術価値が低い」


「価値が低いのは、今はまだ敵が要らねえからだ」


マーカスは地図の三か所を、指で乱暴に叩いた。


「放棄した瞬間に価値は跳ね上がる。敵が踏み込む道が増えるからな」


「線が短くなれば反応は早くなる」


「反応?」


マーカスが笑った。笑いというより、唾を吐く手前の音。


「敵が攻めてくるならな。だが、今の敵は攻めてねえ。殴ってるだけだ」


会議室が静かになる。

特使が初めて、マーカスを見る。


「……殴っているだけ、とは」


マーカスはトールを顎でしゃくった。


「書記官。言え」


トールは喉が乾いたまま、紙の内容を口にした。


「砲撃が、鐘楼の鐘に合わせてきます。八時、十二時、十六時。鐘のあと、一定の遅れで着弾します。偶然にしては規則的です」


特使の目がわずかに細くなる。


「それが何だと」


「破壊が目的なら海壁を狙えばいい」


マーカスが、かぶせた。


「なのに倉庫と街路を、人が動く時間に合わせて殴ってる。荷揚げと配給の列ができる時間だ。壊したいんじゃねえ。揺らしたいんだ」


ライサが目を鋭くした。


「揺らす?」


「揺れたら住民は逃げる。逃げたら、誰がどこにいるか名簿が要る。名簿を握ったやつが、配給と仕事口を握る。握られたら……金も脅しも通る」


マーカスは特使を睨んだ。


「昨日、お前は名簿を作れって言ったな。避難民と遺族。借金のある順に、って話もした」


会議室の空気が凍る。

特使の隣の文官が一瞬だけ顔色を変えた。


特使は平然と答えた。


「行政です。支援の配分に必要です」


「借金順で支援?」


ライサの声が低い。怒りが冷えると怖い。


特使は口角だけで言う。


「支援には優先順位が要る。秩序のためです」


「秩序で人が死ぬ」


マーカスが、短く言い切った。


「聞け。縮小案を通すなら条件を書け。口約束は現場じゃ死ぬ」


特使が黙る。

マーカスは指を折っていく。乱暴だが、言ってることは整理されている。


「一、放棄する地区の避難手段。二、受け入れ先。三、補給の代替。四、放棄した瞬間に敵が踏み込んだ場合、責任者の名前」


「国家が責任を負います」


「国家は責任を負うって言うだけだ。処分されるのは、ここにいる誰かだ」


マーカスは机を拳で軽く叩いた。


「あと五。名簿は王都が握るな。現場が握る。支援の配分も現場監督。金で口を閉じる発想は禁止。ここに、文書で書け」


特使の目が一瞬だけ揺れた。ほんの一瞬。

揺れた、という事実だけが残る。


「……現場に権限を与えすぎるのは危険です」


「危険なのは今だろ」


マーカスが吐き捨てた。


「この港、今日も担架が動いてる。危険じゃない顔してる王都が危険とか言うな」


会議室が沈黙する。

ヴェルナーが、低く息を吐いた。


「では、どうする。死守だけでは線が持たん」


マーカスは頷いた。


「だから線を切るなら、切る順番も戻り方もこっちが決める。第三案だ」


「第三案?」


ライサが眉を上げる。


「即放棄はしねえ。順番を決める。まず海岸哨戒拠点を偽装撤退する。引いたふりして内側に罠を作る。敵が踏み込む気があるか、どこから来るかを吐かせる」


特使が言う。


「危険な賭けです」


「賭けじゃねえ。確認だ」


マーカスは地図の港を指した。


「ステンブは死守する。だが精神論じゃない。ここは情報の港として守る。名簿も配給も、現場が握って敵の手口を潰す。敵が欲しいのは港の石じゃねえ。避難の列と、配給の順番だ」


トールの背中が冷える。

昨夜の「二つの名簿」が、まっすぐここに繋がった。


特使は数秒黙り、やがて言った。


「……興味深い。しかし条件があります。責任者を明確に。誰が実務を握るのか」


「俺だ」


マーカスが即答した。


「逃げねえ。逃げたらここが死ぬ。ここで死ぬなら、俺の名前で死ぬ」


ライサがマーカスを見る。

一拍置き、頷いた。


「いい。あなたが握るなら、私も握る。港は私の現場だ」


ヴェルナーが短く言った。


「決めた。縮小は順序付き、ステンブ死守。名簿は現場管理。文書化しろ、特使」


特使は、紫の封蝋を一度だけ指先でなぞった。癖のように。

それから、頷いた。


「分かりました。文書を作成します」


会議後、廊下。

特使が去ろうとしたところで、マーカスが道を塞いだ。


「おい、特使」


「何でしょう」


「お前の本当の仕事は何だ」


特使の目が細くなる。


「戦争を終わらせることです」


「戦争は、終わらせ方で次が決まる」


マーカスは一歩近づき、声を落とした。落としても荒い。


「港の痛みを取引に使うな。名簿を武器にするな」


特使は微笑んだ。綺麗すぎる微笑みだ。


「前線の正義は、しばしば遅い。制度は速い」


「速いほうが人を殺すこともある」


マーカスは道を開けた。許したわけじゃない。見張り始めただけだ。


特使は規格通りの歩幅で去っていく。

煤の匂いの中で、紫の封蝋だけが最後まで艶を保っていた。


トールはポケットの紙に一行足した。


「王都が欲しがるものは、港ではない。避難と配給の名簿だ。人を並べる権限だ」


鐘楼が鳴る。

港はまた動く。

ただし、砲弾の向こうに別の狙いがいる気配は、昨日より濃くなっていた。

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