第12話 敗北をカードに
砲撃の翌々日、ステンブの港は「復旧」という名の片付け作業で、音だけが先に生き返っていた。
鉄を引きずる音。石畳を叩く靴音。怒鳴り声と、泣き声と、木材の割れる乾いた響き。
トール・レンブラントは、港湾警備隊の仮設詰所で、昨日まとめた被害状況の紙束を、もう一度だけ確かめていた。
数字は落ち着いている。落ち着いているのは紙の上だけで、現場はまだ焦げた匂いを吐き続けている。
「……来るぞ」
ライサが海壁側ではなく、街道の方を見て言った。
トールが顔を上げると、港へ繋がる石畳の道の先に、馬車が一台、ゆっくりと入ってくるのが見えた。石畳の縁には霜が残り、馬の鼻息が白く噴いた。
黒塗りの馬車。扉の縁にヴァロワ家の刻印。封蝋は深い紫だ。
潮と煤の匂いの中で、それだけが場違いに「王都」だった。
扉が開き、護衛が先に降りる。
続いて現れたのは、灰色の外套をまとった青年だった。泥を踏まない歩幅で降り立った靴は、磨き残しが一つもない。灰の港でそれを見ると、場違いな清潔さがかえって刺さった。若い。だが、立ち方だけが年齢を裏切るほど正確だった。
青年は周囲を一瞥し、誰に頭を下げれば一番早く場が収まるかを探すような目をした。
その視線はすぐに、手にした革の書類袋へ落ちる。封蝋の縁を、親指が一度だけなぞった。癖のように。
そしてライサではなく、帳面を抱えたトールへ歩いてくる。
「宰相府の命により参りました。ヴァロワ伯爵の名代、嫡子として特使を務めます」
名乗りは丁寧だった。
丁寧すぎて、港の空気がそのまま滑り落ちる。謝意も哀悼も、言葉としては揃っているのに、指先だけが封蝋の感触を確かめている。
トールは形式的に敬礼し、最低限の礼を返す。
「こちらは港湾警備隊、兼、港湾委員会臨時事務担当、トール・レンブラント中尉です」
「委員会の開催は?」
「今からです。商人ギルド会館へ」
特使は頷いた。その頷きが、港の死者列よりも、会議室の机を見ているように見えて、トールの胃の奥が少しだけ冷えた。
そのまま一行で会議室へ運ばれるのが嫌で、トールは歩幅を合わせた。
会館へ向かう道は、港の裏側を通る。
破れた帆布が風に鳴り、救護所の前では、血の匂いをごまかすための石鹸が泡立っていた。担架が一つ、空で戻ってくる。空なのに軽くない。
特使は足を止めない。目も止めない。見えていないのではなく、最初から「見る項目」に入っていない歩き方だった。
トールの胃の奥が、もう一度だけ冷えた。
商人ギルド会館の会議室には、昨日までの「片付け」では埋まらない種類の緊張があった。
壁には天秤の意匠。机の上には水差しと、紙と、封蝋。窓の外には灰色の港。
ヴェルナーは相変わらず大きな体で椅子に座り、ルカはいつも通り影のように静かに立っていた。
港湾の代表者たち、警備隊の幹部、そして臨時に合流してきた陸軍の若い将校が一人。
マーカス。まだ若いが、目の奥が戦場の色をしている。短い黒髪に煤が絡み、顎の線だけが妙に硬い。若さの代わりに、口元の固さが先に育っている。
特使は席につくと、挨拶も短く、いきなり封筒を机に置いた。
「まず現況を確認します」
ヴァロワ伯の嫡子は、哀悼ではなく確認から入った。
紙束を開き、淡々と視線を走らせる。
「戦死者数、負傷者数、行方不明。稼働兵力。砲弾の残。糧食の残。港湾施設の稼働率。避難民の人数と収容可能枠」
一つ一つが、悲鳴に等しい数字だった。
それを、青年は言い淀まない。まるで痛みを測る手順を、すでに覚えているかのように。
「……以上を、今この場で揃えてください。揃わない場合、揃わない理由を責任者名で添えて」
最後の一言が、空気を冷やした。
ライサが、椅子の背を鳴らすほどに体を動かした。
ヴェルナーの眉がほんの少しだけ上がる。マーカスは表情を変えない。
特使は続けた。
「帝国側の補給が長期に耐えられない兆候が見えています。こちらも同様です。ゆえに、早期に講和へ持ち込む余地があります」
その言い方は、まるで市場の相場を語るようだった。
トールは紙束に視線を落としながら、手元のペン先がわずかに震えるのを感じた。
港の死者の数を「余地」の言葉で包まれたくない。
「――そして重要なのは」
特使は、ここでようやく顔を上げ、会議室全体を見渡した。
それは「聞いておけ」という目だった。
「局地的な敗北は、交渉のカードになります」
特使の親指が、机上の封蝋に触れたまま言った。
その言い方だけが、わずかに浮いていた。まるで誰かの台詞を暗記してきたみたいに。
触れているのは封蝋で、触れていないのは、この港の焦げた匂いだった。
ライサが机を叩くより先に、マーカスの声が刺さる。
「特使殿。言葉を選べ。港には人がいる。死がある。カードという言い方は軽すぎる」
青年は一拍だけ止まり、そして、間違いを直すように言い換えた。
「……交渉の材料です。撤退線と補給線の整理に必要な、材料」
「謝罪は」
「失礼しました」
頭は下げた。角度も時間も規格通りだ。
ただ、下げたのは礼儀であって、痛みの共有ではなかった。それが余計に刺さった。
トールは、そのやりとりを「記録」する側の人間として、紙の上に文字を落としていく。
落としていくほど、何かが削れていく感覚があった。
砲弾で削れるのは港だ。
言葉で削れるのは、たぶん別のものだ。
「具体的には、何をカードにするおつもりですか」
トールが問うと、特使は待っていたように頷いた。
「戦線の整理です。西部のいくつかの前哨地は、保持に比して損耗が大きい。帝国側も同様のはずです。双方の損耗を合理化し、講和の糸口にする」
合理化。
その言葉の中には「誰が切り捨てられるか」も、最初から入っている。
「……クライネルト方面は?」
マーカスが問う。会議室の空気がわずかに動いた。
特使は紙束を一枚めくり、読み上げる。
「クライネルト砦、保持。避難民多数。内郭結界、維持中。損耗大。追加補給を要す」
ライサが、拳を握った。
「維持中」。その二文字の裏側に、誰かが立ち続けている。
結界の内側で、民を抱えて、動けずに。
トールの脳裏に、以前送られてきた書面の一節が浮かぶ。
「港が生きていれば、ここもまだ立ち続けられます」
口述だけが届く言葉。
今、その口述の主が、紙の上では「維持中」になっている。
「……補給は?」
ヴェルナーが問う。
「優先順位は高い。ただし、王都としては講和の準備も同時に進める」
特使は一切揺れなかった。
揺れないことが「仕事の出来る人間」の証だとでも言うように。
だが、トールはそこで、別の違和感を拾った。
「特使殿」
「何でしょう」
「講和の条件は分かりました。ですが……王都が今、必要としているのは、条件の文章だけではないはずです」
「――続けてください」
特使の目が、ほんの少しだけ鋭くなった。
トールは、そこに確信に近いものを見た。
この男は、ただ条件を運ぶために来たのではない。
「帝国の砲撃周期、符術妨害の揺らぎ、機雷の配置の癖。王都は、それを欲しがっているように見えます」
会議室の空気が変わる。
ルカの視線が、トールの横顔に一瞬だけ刺さった。
特使は、答えを急がなかった。
急がないこと自体が、答えだった。
「……講和のためには、相手を理解する必要があります」
「理解、ですか」
「相手が何を恐れ、何を欲しがるか。戦争は情報の交換でもあります」
その言葉が、妙に滑らかに出てきた。
「交換」という単語が、戦場の血を洗い流すみたいに聞こえた。
トールはペン先を止め、紙の上の余白を見つめた。
余白に書けるのは、数字でも条項でもない。
「分からない」という文字だけだ。
会議が終わったころには、外はもう夕方に近かった。
会議上の外で青年は護衛ではない、文官風の男を呼び止めた。
「名簿を二つ作れ。避難民と、戦死者の遺族。港の倉庫に出入りする者も。できれば借金のある者から先に」
「……借金、ですか」
「口は金で閉じる。金で閉じない口は、別のやり方で閉じる」
青年は声を荒げない。
荒げないからこそ、その言葉は本気に聞こえた。
港へ戻る道すがら、トールは潮風に混じる煤の匂いを吸い込み、吐く。
ライサは黙って歩き、マーカスも黙って歩いた。
誰も「講和」という言葉を口にしない。
口にした瞬間、戦って死んだ人間が、紙の上のカードになるからだ。
詰所に戻ると、トールは机に向かい、今日の議事録を整えた。
整えながら、最後に一枚だけ、別の紙を引っ張り出す。
公式の記録ではない。
誰にも提出しない。
提出できない。
紙の上に、トールはゆっくりと書いた。
――分からないこと一覧。
砲撃のたびに、術式が揺らぐ理由。
機雷が「そこ」にいる確率。
港が焼けるのに、帝国が踏み込んでこない間合い。
そして、王都の特使が、講和より先に欲しがったもの。
「……局地的敗北をカードにする」
口に出すと、言葉がやけに軽く響いた。
軽いのに、胸の奥に沈んでいく。
港を落とす気なら、もっと早く、もっと乱暴にやれたはずだ。
なのに帝国は、こちらの反応を確かめるみたいに、同じ場所を、同じ拍で叩いてくる。
鐘楼の八時。十二時。十六時。鐘が鳴って、ほんの少し遅れて着弾する。偶然にしては律儀すぎる。
砲撃は破壊じゃない。こちらの生活の拍を、向こうの都合に合わせて並べ替える作業だ。
トールはペン先を紙から離し、窓の外の海を見た。
灰色の海。灰色の空。灰色の港。
そこにだけ、あの黒塗りの馬車の艶が残っている気がした。
戦争は続いている。
だが、今日の会議で見えたのは、砲弾の向こう側の「別の仕事」だった。
トールは紙を折り、ポケットに入れた。
提出しない紙は、提出できない重さで、やけに重い。
鐘楼の鐘が鳴った。
港の男たちが、また鉄を引きずり始める音が聞こえる。
ステンブは、今日も立っている。
ただし、天秤の皿の上に置かれたものが、昨日より増えている気がした。




