第11話 割れた天秤
砲撃の翌朝、ステンブの港は、静かに騒がしかった。吐く息が白く、濡れた石畳が足の裏から冷えを吸い上げる。
静か、というのは砲声が聞こえないという意味で、騒がしい、というのは人の怒鳴り声と、泣き声と、壊れたものの音がそこら中に満ちているという意味だった。
折れたクレーンの基部では、まだ煤がくすぶっていた。
符術で冷やされた鉄骨からは湯気が昇り、焦げた木材の山は、半ば炭のようになって積まれている。
その横には、白い布をかけられた列があった。
昨夜、ようやく数が確定した死者の数だけ、布が並ぶ。
「……港湾労働者十五名、船員七名。行方不明三名」
読み上げ役の兵の声が、淡々と数字を重ねていく。
トール・レンブラントは、その数字を手元の紙に写し取りながら、周囲の空気を意識していた。
怒りと、不安と、諦めと、空虚。
全部が薄い煙のように入り混じって、鼻と喉の奥にまとわりつく。
「ギルドは、ちゃんと払ってくれるんだろうな」
「弔慰金だけで済ます気じゃないだろうな」
港の男たちの低い声が聞こえてくる。
彼らの視線の先には、港湾の石畳を歩いている数人の男たちがいた。
よく仕立てられた上衣。
胸元の金鎖。
商人ギルドの幹部たちだ。
「商人にとっちゃ、壊れたクレーンも死んだ人間も、数字にしか見えねえんだろ」
「数字にして紙に載せられないと、何も始まらないって話もあるがな」
誰かの皮肉に、トールは内心で苦笑を返した。
その「紙に載せる係」が、よりによって自分なのだから。
その日のうちに、商人ギルドの臨時会合が開かれることになった。
場所は、港の丘の中腹に建つギルド会館だ。
石造りの堂々とした建物で、外壁には天秤と船を組み合わせた紋章が刻まれている。
「軍からも立会人を出してほしい、だそうですよ」
港湾事務所で通達を受け取ったとき、ライサが肩をすくめた。
「砲弾で天井が抜けたら、誰の責任か聞かれるんでしょうね」
「その前に、誰が何を決めようとしているのか、見ておく必要はあります」
トールはそう答えながら、封蝋を剥がした。
文面は、丁寧だが要点は一つだ。
『ステンブ港湾への砲撃を受け、商人ギルドとして今後の方針を定める。軍・港湾当局の意見も必要と判断し、出席を求む』
「戦争長期化で儲ける気のある連中と、街を守りたい連中の、綱引きってところですかね」
「そこに裏稼業の連中が混ざれば、綱はすぐにどっちかに切れます」
ライサの軽口に、トールは返事をしなかった。
昨日、海壁の上で出会った、あの「黄昏の匂い」のする男の顔が、頭の中に浮かぶ。
砲弾と金の流れを、同じ紙の上で計算する連中。
その計算が、今日の会議室にも顔を出さない保証はない。
ギルド会館の大広間は、普段は取引の場として使われている。
今日は机と帳簿が片付けられ、代わりに椅子が半円状に並べられていた。
前方には演壇があり、その背後の壁には大きな天秤の絵が掲げられている。
一方の皿には金貨の山、もう一方の皿には帆船が描かれていた。
「……いかにも商人ギルド、って感じですね」
ライサが小声で呟く。
トールは、軍・港湾側の席に座りながら、周囲の顔ぶれを見渡した。
商人ギルド支部長、ヴェルナー・ハーゲン。
ふくよかな体格に金鎖をいくつも下げた男で、昨日の会議にも出ていた。
その両脇には、副支部長や有力商人たちが並んでいる。
細身で鋭い目をした女商人、アナ・コルネリウス。
小さな商船を幾つも所有し、ステンブの港で長くやってきた現場派だ。
そのほかにも、顔に塩風の刻まれた古株の船主から、
文官のような身なりの帳簿担当者まで、色とりどりだ。
トールは、その中に見覚えのある顔を一つ見つけた。
昨日、海壁の上で話しかけてきた、あの男。
派手な衣を着た、黄昏色の目をした商人。
彼は、ギルド幹部席の端の方に腰掛けていた。
正式な役職を持つ者としてそこにいるらしい。
(名前くらい、押さえておくべきですね)
トールは、さりげなく出席者名簿に目を走らせた。
『特別顧問ルカ・パラミロン』
開会を告げる鐘が打たれ、支部長のヴェルナーが立ち上がった。
「諸君。まずは、昨日の砲撃で命を落とした者たちに、黙祷を捧げたい」
短い黙祷のあと、ヴェルナーは深く息を吐いた。
「我々の港は、ついに帝国の砲撃の射程に入った。これは、ただの事故ではない。ステンブが、西境戦争の前線に近い『後方基地』であることを、敵も味方も認めたということだ」
ざわ、と広間の空気が揺れる。
「この状況で、我々商人ギルドは、三つのことを決めねばならない。
一つ、港の防衛にどこまで協力するか。
二つ、補給と取引をどこまで維持するか。
三つ、戦争が長引いた場合、ステンブがどうあるべきか」
ヴェルナーの言葉に、トールは静かに耳を傾けた。
問いの立て方そのものは、悪くない。
問題は、その答えを誰が、どのような計算で出すかだ。
「まずは、港の防衛だが……西部艦隊と港湾当局から、説明を願いたい」
視線がトールたちの席に向く。
出番だ。
トールは立ち上がり、昨日から作り続けている紙束の一部を手に取った。
「ステンブ港湾警備隊所属、トール・レンブラント中尉です」
軽く頭を下げ、手元の紙を一度見たあと、広間を見渡す。
「昨日の砲撃について、簡潔に報告します」
クレーン一基の喪失。倉庫一棟の全焼。貨物船一隻の大破。
死傷者の数。
砲撃の回数と、おおよその時間間隔。
トールは淡々と数字を読み上げた。
「敵は十発未満の砲撃で、ステンブ港に『手が届く』ことを示しました。こちらの海壁砲では、現時点で敵艦に届きません。また、符術による索敵は部分的に妨害されており、砲撃源の正確な位置特定は困難です」
数字だけを並べると、「軽微な被害」にも見える。
だが、その数字がどんな匂いと音を伴っているかを知っている者には、違った重さで聞こえるはずだ。
「我々としては、港湾設備の再配置と、危険区域の設定、非戦闘員の退避を提案しています。
詳細は、この資料に──」
トールが資料を掲げかけたとき、商人席から声が飛んだ。
「それで、港は止まらないのか?」
声の主は、アナ・コルネリウスだった。
細身の女商人は、眉をひそめながらトールを見ている。
「止めるつもりはありません」
トールは即答した。
「港を完全に止めれば、西境への補給線そのものが途絶します。それは、帝国の思うつぼでしょう」
「なら、港を『半分だけ燃やして済ませる』方法を探せってことか」
別の商人が皮肉まじりに言う。
「燃やさせないために、危険を局所化する、という言い方の方が近いですね」
トールは言葉を選びながら返した。
「港全体を均一に使っていれば、どこを撃たれても被害が広がる。逆に、危険を前提とした区域に荷役と軍事物資を集中させれば、砲撃を受けても、他の区域を生かす余地ができます」
「つまり、一部を『捨て石』にするってことだ」
細い笑い声が響いた。
声の方を見ると、特別顧問のルカ・パラミロンが、椅子に深く座ったまま薄く笑っていた。
「言い方を変えれば、そうなります」
トールはあえて否定しなかった。
「ですが、その『捨て石』をどこに置くかを決めるのは、ここにいる皆さんです」
視線が、自然と天秤の絵に向いた。
一方の皿には金貨。もう一方の皿には船。
そのどちらにも、人間は描かれていない。
軍と港湾側の説明がひと通り終わると、今度は商人側の意見が出始めた。
最初に立ったのは、支部長のヴェルナーではなく、アナだった。
「アナ・コルネリウスです。小ぶりの船を何隻か持ってます」
彼女はそう名乗ると、短く息を吐いた。
「私は、街を守りたい。自分の船だけじゃなく、積み荷を積む場所と、荷を下ろす人間の足場を守りたい」
ざわ、と周囲が揺れる。
「戦争が長引けば、確かに儲かる商売もあるでしょう。護送の手数料も上がるし、危険手当もつく。武具や干し肉の売り上げだって伸びる。けど、その間にも砲弾は降ってくるんです」
アナは、折れたクレーンの方角を一瞬だけ振り返った。
「港が燃えれば、商売の元手そのものがなくなる。倉庫も桟橋も、そこで働く人間も、全部失われる。数字で埋め合わせるには、何年かかるか分からない」
静まり返った広間に、アナの声だけが通る。
「だから私は、軍と港湾の『危険区域』設定に賛成します。捨て石というなら、捨てる場所を自分たちで選べるうちに決めるべきです」
その言葉に、何人かの商人が頷きかけた。
しかし、すぐに別の席から反論が飛ぶ。
「甘い」
立ち上がったのは、支部長ヴェルナーだった。
「戦争は、今始まったばかりだ。帝国が本気を出せば、今日くらいの砲撃など、遊びみたいなものだろう」
彼は懐からハンカチを取り出し、額の汗を拭いた。
「そんな中で、『街を守りたい』などと綺麗事を言っても、戦線は持たん。クライネルトの砦が落ちれば、西境全体が帝国のものになる。ステンブどころか、王国西部の街全部が地図から消える」
「だからこそ、補給を止めるな、ということですね?」
トールが口を挟むと、ヴェルナーは大きく頷いた。
「その通りだ、中尉。補給が滞れば、砦は持たん。兵に食わせるパンも、撃つ弾も、着る上衣もなくなる。そうなれば、砲弾が降る前に戦線が崩壊する」
「つまり支部長は、港の危険が増しても、補給と取引を最大限維持すべきだと?」
アナが問い返す。
ヴェルナーは胸を張った。
「商人ギルドは、王国の血管だ。血の巡りを止めるのが、身体にとってどれほど危険かは、皆も知っているだろう」
血管、という比喩は悪くなかった。
トールは、そこだけは認めざるを得なかった。
「血を巡らせるためなら、指の一本や二本、犠牲にするべきだ。街一つ燃えても、国が残るなら、商人ギルドとしては仕事をしたと言える」
その一言で、広間の空気が変わった。
「……街一つ、ですか」
アナの声が低くなる。
「そうだ。ステンブの港は、不幸にも戦争のうねりの中にある。ならば、その位置を最大限利用するべきだ。危険手当を上乗せし、護送の報酬を増やし、保険料を高くする。戦争が長引くほど、ここを通る貨物は増え、金は流れてくる」
ヴェルナーの言葉に、周囲の商人たちがざわめく。
賛成か反対かは別として、「計算」は誰の頭にも浮かんでいる。
「ステンブが『燃える港』として有名になればなるほど、リスクを取れる者には莫大な利が転がり込む」
そこで、ルカ・パラミロンがさりげなく口を挟んだ。
「港を通せなくなった荷は、別の道を探す。カーラベルの小さな湾や、帝国側の沿岸寄りのルートや……黄昏時にしか見えない道もある」
「パラミロン顧問の言う通りだ」
ヴェルナーはすぐに乗った。
「表の港が砲撃で揺らぐなら、裏の港を整えればいい。公式の護送船団に乗せられない荷でも、どこかを通って戦線に届けばいいのだ」
その言葉が意味するところを、トールは一瞬で理解した。
(黄昏の仲介人を、ギルドの公式な選択肢に組み込むつもりか)
表の港で焼け出された荷を、裏のルートに流す。
危険手当をふんだくりながら、帝国沿岸や中立港を経由して、西境に必要な物資を運ぶ。
その過程で、どれだけの金が「どこか」に落ちるか、想像するまでもない。
「戦争が長引けば長引くほど、その道は太くなる」
ルカは笑わない目で言った。
「街を守ることと、儲けることは、必ずしも矛盾しない。港が燃えれば燃えるほど、守るべきものと売りものの値段は上がる」
広間の一部から、乾いた笑いが漏れた。
その笑い声に、別の一部は露骨に顔をしかめた。
ギルドは、きれいに二つに割れつつあった。
「軍としては、どう考える?」
議論が一息ついたところで、誰かがトールに水を向けた。
ヴェルナーではない。
アナでもない。
どこにでもいそうな中堅の商人の一人だ。
「港を犠牲にしてでも補給を守れ、という話と、街を守るために補給を絞れ、という話。どちらが正しいか、軍は決めているのか?」
簡単な問いではない。
トールは一瞬だけ目を閉じ、頭の中で数字を組み立てた。
クライネルト砦の備蓄日数。
護送船団の損耗率。
ステンブ港の荷役能力と、人員の数。
「……どちらか一つ、だけを選ぶことはできません」
トールは、ゆっくりと口を開いた。
「補給を止めれば戦線は死にます。港を守らなければ、補給は近いうちに死にます。どちらも生かすために、どこまで削れるかを決めるしかない」
「抽象的だな」
ヴェルナーが鼻で笑う。
「具体的に言え。港湾設備の何割を捨て、何割を守るつもりだ?」
「例えば、危険区域に荷役設備の三割を集中させる。そこに護送船団向けの軍需物資と、一部の高リスク貨物を集める。残りの七割を『比較的安全な区域』として、一般貨物と市民生活に必要な物資に回す」
トールは、自分が昨夜から描いてきた案を、そのまま口に出した。
「砲撃を受ければ、その三割はほぼ毎回被害を受けるでしょう。死傷者も出る。だが、七割は生き残る可能性が高い」
トールは話を続けた。
「逆に何も区分けをしなければ、十割が均等に危険に晒されます。砲弾のたびに、港全体をゼロから立て直す羽目になる」
「七割も生き残れば、港は機能する、と?」
アナが確認する。
「数字の上では、です。実際に動かす人間が、その条件でどこまで持つかは、皆さんの方がよくご存じでしょう」
トールは、あえてそう付け加えた。
「あと、もう一つ」
広間が静まり返る。
「裏のルートを使うにしても、それは『補助線』であるべきです。黄昏の仲介人がどういう仕組みで荷を動かしているのか、私は詳しくありませんが……、帝国沿岸や中立港に頼り切れば、補給線そのものを敵の気分次第に委ねることになります」
ルカの目が、わずかに細くなった。
「ステンブ港という『自分たちで管理できる後方』を焼き捨ててまで、他人の庭先を借りるのは、軍としては望ましくありません」
そこまで言って、トールは少しだけ口を閉ざした。
本当はもっと、言いたいことはいくらでもある。
砲弾が落ちてきたとき、真っ先に死ぬのは帳簿の中の数字ではないこと。
黄昏の仲介人が儲ける仕組みの中に、「誰がどこで切り捨てられるか」が最初から組み込まれていること。
だが、それを口にすれば、「軍が商売に口を出した」と受け取られるのは目に見えている。
「要するに中尉は、『港を守りながら補給も守れ。裏の道には依存しすぎるな』と言っているわけだな」
ヴェルナーがまとめる。
トールは、否定も肯定もせず、わずかに頭を下げた。
「軍の立場は分かった」
ヴェルナーは、今度は商人たちの方を向いた。
「だが、決めるのは我々だ。港をどう使い、どこで金を拾うか。天秤のどちらの皿に重りを乗せるかは、商人ギルドの仕事だ」
天秤の絵が、再び視線を集める。
一方の皿には金貨。
もう一方の皿には船。
その下に、薄く描かれた街並みがあることに気づいたのは、トールだけだった。
会合の最後に、ギルドは一つの結論にたどり着いた。
「戦時特別対策委員会」の設置。
港の危険区域設定と荷役の優先順位を決める権限を持つ委員会で、
その構成は、軍・港湾側から数名、商人ギルドから数名、そして「特別顧問」を含む、とされた。
「中尉、あなたにも委員として入ってもらう」
退出の間際、支部長のヴェルナーが肩を叩いてきた。
「軍の人間が一人もいなくては、委員会が『利権の巣窟』などと言われかねんからな」
「それは困りますね」
トールは、皮肉を半分だけ混ぜて返した。
「実際にそうならないことを、祈るばかりですが」
ヴェルナーは、笑っているのかどうか分からない笑みを浮かべた。
「金の臭いがするところに、利権が集まるのは自然なことだ、中尉。だが、利権をうまく扱えれば、それもまた力になる」
その会話を、少し離れたところでルカ・パラミロンが見ていた。
目が、一瞬だけトールの方に向く。
「これで、砲弾も政治も裏の話も、全部同じ机の上に乗るわけですね」
ルカは、軽く肩をすくめた。
「いいじゃないですか。『数字でしか見えない敗北』の隣に、『数字でしか見えない儲け話』も並べておけば」
トールは何も答えなかった。
会館を出ると、外の空はすでに夕焼けに染まりつつあった。
港の方角からは、焦げた匂いがまだ微かに漂ってくる。
ポケットの中の紙束が、やけに重い。
そこには、死者数と被害状況に加えて、
今日決まった「委員会」の構成と、危険区域案の叩き台が挟まっている。
砲弾の落ちる位置も、
政治の力学も、
裏社会のルートも、
これからは全部、この紙の上で交わる。
「……天秤の皿に乗っているのは、金と船だけじゃない」
トールは、小さくつぶやいた。
その皿の上には、街そのものと、その街で生きている人間たちも乗っている。
ただ、帳簿の上では、その重さはいつだって数字数桁に押し込められるだけだ。
鐘楼の鐘が鳴り始めた。
港の方から、修理に戻る男たちのざわめきが聞こえてくる。
ステンブの灰色の夕暮れは、いつもと変わらぬ顔をしていた。
ただ、その上に載っている天秤だけが、少し傾きかけている。




