第10話 港に落ちた一発目
──「安全圏」が消える日──
朝のステンブは、いつも通り灰色だった。
雲は薄く伸び、海は鉛を溶かしたような鈍い色でうねっている。
海壁の上に立つトール・レンブラントは、潮のにおいと、どこか焦げたような匂いを一緒に吸い込んだ。
石の冷たさが掌に移り、白い指先の関節がかすかに赤くなった。吐く息が白く、望遠鏡の金具が手袋越しにも刺さるほど冷たい。帳簿の罫線を追ってきた目が、今日は海の奥を探している。
「……風向きが、変わったな」
隣で望遠鏡を構えていたライサが、ぽつりと呟く。
赤茶の短髪を乱雑に結ったまま、彼女は望遠鏡を構える肘を微塵もぶらさない。灰色の目は、煙の向こうの数ではなく標的を見ていた。
風は沖から港へ、真っすぐ吹き込んでくる。砲煙を運ぶには、ほどよく都合のいい向きだ。
「気象報告にも出てましたよ。今日から三日は『海からの風優勢』」
「紙に書くと、戦争の都合までいい風に見えてくるな」
トールは自分の言い草に、苦笑ともため息ともつかない息を漏らす。
海壁の外側では、波が砕けて白くしぶきを上げている。
その向こう、水平線近くには、いつものように商船の影がいくつか見えた。
中立国の旗を掲げた船、王国籍の古い帆船、そして帝国式の船体をした貨物船。
護送船団の編成表を見ているときには「数字」と「記号」でしかなかった船が、今日は妙に立体的に見える。
あの甲板の上にも、昨日までステンブの酒場で愚痴をこぼしていた水夫たちが乗っているのだと、頭から離れない。
「中尉!」
背後から駆け上がってきた兵の声で、トールは振り向いた。
港湾警備隊の若い兵が、息を切らせて文書筒を突き出してくる。
「艦隊本部からの通達です!」
「こんな時間にか。……受け取る」
封蝋を割り、文書を広げる。
紙には、丁寧な書式でたった数行が並んでいた。
『帝国艦隊の一部、ウーニヒ海外縁にて再捕捉。従来の護送船団襲撃行動に加え、沿岸拠点への長距離砲撃を行う可能性あり。ステンブ港、警戒態勢を一段階引き上げること』
「……沿岸拠点、ねえ」
声に出した途端、その言葉の輪郭が一気に現実味を帯びる。
「中尉?」
「帝国が砲を向ける先が、護送船だけじゃなくなるってことですよ」
トールは文書を畳みながら、海の方を見た。
灰色の水平線は、何も語らない。
警戒態勢の引き上げといっても、やることは単純だった。
海壁の砲台に予備の弾薬を運び上げ、符術塔の監視要員を増やす。
港湾内に停泊している商船には、出港準備を早めるよう通達を出す。
「もしものとき」の避難経路図を、もう一度確認する。
「帝国がわざわざ、ここを砲撃してくると思いますか?」
港湾事務所の窓際で、ライサが通達文の控えを手にしながら尋ねる。
窓の外には、荷を積むクレーンと、船腹に煤のこびりついた艀が見える。
「正直、合理的じゃないですね。護送船団を潰してるだけでも、十分に補給線は締まる」
トールは答えながら、自分で自分の言葉に引っかかる。
「……だからこそ、あり得るのかもしれません」
「どういう意味です?」
「合理的じゃないことを平然とやるのが、政治と見せしめです」
港を撃つという行為は、軍事的な損得だけで測れない。
『ここを通る荷は、全部敵と見なす』という宣言にもなるし、『中立を名乗るなら、その代償を払え』という脅しにもなる。
「どっかで聞いたことがあるな。『黄昏の仲介人ルートに乗れ』って売り文句」
ライサが窓の外を見ながら、ぼそりと言う。
「ステンブが危なくなればなるほど、あの連中のルートは安全で儲かる道に見える」
「……港を撃つ砲と、裏で貨物をさばく連中が、同じ方向を向くわけですか」
書類の上では、砲撃も密輸も別々の欄に分類される。
けれど、そのどちらも「ステンブを通すか、通さないか」という一本の線でつながっている。
トールは机の上の地図に視線を落とした。
ステンブの港が小さな四角で描かれ、その周囲にウーニヒ海、西境の沿岸、クライネルト方面への街道が記号で伸びている。
その四角の上に、まだ見ぬ砲弾の軌道を、頭の中で線として引いてみる。
(……やめろ)
自分で自分に命じるように、目を閉じた、そのときだった。
海壁の外から、低い轟きが届いてきた。
「……今の音、聞こえました?」
ライサが眉をひそめる。
トールも窓の外を見やる。
波の音に紛れて、確かに何かが唸るような、重い振動が混ざっていた。
鐘楼の鐘が、遅れて鳴り始める。警戒の合図だ。
「索敵塔?」
トールは立ち上がると、窓から海壁の符術塔を見た。
塔の頂に設置された符術板が、かすかに白く明滅している。発報のサインだ。
「近づく船影を捕捉……?」
つぶやいた瞬間、視界の端で白い閃光が走った。
第一発目は、誰もきちんと見ていなかった。
後で何人もが証言を出したが、そのどれもが少しずつ食い違っていた。
「空が一瞬光った」
「海の上で何かが弾けた」
「雷みたいな音がした」
トールは海壁に駆け上がりながら、その「何か」に追いつこうとした。
足元の石段が揺れる。鼓膜の内側が、じんと震える。
「中尉、海側です!」
海壁の上から、誰かが叫ぶ声が聞こえた。
最後の段を跳ね上がるように駆け上がったとき、視界の先に広がっていたのは、海ではなく、白い水柱だった。
港の入口、外郭防波堤の少し内側。
そこに砕けるように立ち上がった水の塔が、数瞬遅れて粉々になって降り注ぐ。
しぶきの中に、黒い破片がいくつも混じっていた。
「あれは……貨物船か」
ライサが、望遠鏡を構えたまま呟いた。
港の外側に繋留されていた古い貨物船が、一発目の直撃を受けて砕けたのだ。
木材と帆布と人影が、白い水柱と一緒に宙に投げ出されている。
「誰か、落ちて──」
言い終わる前に、第二発目が来た。
今度は、耳で先に理解した。
腹の底に響くような唸りが、海の向こうから這ってくる。
次の瞬間、海壁の外側、少し沖合いの水面が、拳で殴られたように隆起した。
爆心から放射状に走る水と煙。
その輪の内側で、何か黒いものが空に放り上げられ、そのまま海へ落ちていく。
「着弾点……港の入口を測ってきてやがる」
海壁の砲兵が、顔色を変えて呟いた。
敵の砲弾は、最初の一発で距離を測り、二発目で修正をかけてきている。
「砲撃源は?索敵塔から方位は出てるか!」
トールの問いかけに、符術塔の監視員が首を振る。
「雑音が……!前みたいに、海の一帯が霞んで見えます!」
「符術妨害か。港を撃つときにも、律儀に使ってくるわけだ」
敵は再び、「見えない状態」で砲を撃っている。
どこから飛んできているのか分からない包丁で、目隠しされたまま斬りつけられているようなものだ。
三発目は、海ではなく、港湾設備を狙ってきた。
「伏せろ!」
誰が叫んだのかも分からない。
港のクレーン群が並ぶ一角、そのほぼ中央に、黒い影が落ちてきた。
次の瞬間、世界が白と茶色の破片で埋め尽くされる。
鉄と木の軋む悲鳴が入り混じったような音。
燃えた油と焦げた木材の匂いが、一気に風に乗って鼻を刺した。
トールたちが海壁の上から見下ろすその下で、巨大なクレーンの一基が、根元から折れ曲がっていた。
基礎ごと抉り取られた穴から、火の粉が噴き上がる。
「クレーン三号機、直撃!」
「付近の倉庫に延焼!消火班を──」
怒号と報告が入り混じる。
港の中ほどに、黒い煙が一本、まっすぐ立ち上っていく。
(……港そのものを、撃ち始めた)
頭の中で誰かが呟いたような気がした。
否定は誰もしない。
第四発目は、港の内側に停泊していた貨物船の一隻をかすめ、甲板を吹き飛ばした。
船体そのものは沈まなかったが、甲板の上で動いていた人影が、何人も煙と一緒に海へ投げ出されるのが見えた。
「救助艇を出せ!燃料庫には近づけるな!」
海壁の下で、港湾警備隊の兵たちが走り回る。
ベルが鳴り続け、符術塔の警告符が白く点滅し続ける。
トールは、握りしめていた欄干から手を離した。
手のひらには、石の角が食い込んだ跡が赤く残っている。
「被害報告をまとめます。……すぐに」
自分に言い聞かせるように、呟く。
砲弾の音がまだ続いている中で、もう頭は対策案を要求していた。
何発撃ち込まれたか。
どこに当たったか。
死者は何人で、負傷者は何人で、設備の損耗はどの程度か。
それを紙に起こして「被害状況」として提出しなければ、次の弾の意味すら誰にも説明できない。
砲撃が止んだのは、最初の着弾から一刻も経たないうちだった。
帝国艦隊の新型魔導砲は、十発にも満たない弾を撃ち込むと、あっさりと沈黙した。
索敵塔の雑音も、同じくらいあっさりと消えた。
「……試し撃ちってやつか」
港湾事務所に戻る途中、ライサが呟いた。
港の一角からは、まだ黒い煙がくすぶっている。
消防符を貼られた倉庫の壁が、じゅうじゅうと音を立てていた。
「港湾設備の破壊、船一隻の大破。……それだけなら、まだ軽い被害と言えるでしょうけど」
「けど?」
「『ステンブを撃てる』ってことを、相手は確かめたんですよ」
トールは、焦げた匂いを肺の奥にまで吸い込みながら言った。
「こっちの砲は届かず、向こうの砲弾だけが届く距離から。港を狙って、何発でも撃てるってことを、今日見せてきた」
海壁の砲台は沈黙したままだった。
射程が足りないのだ。敵は沖合の外側にいた。港砲台の最大射程のさらに外。
当てられるのは、こちらが海に出た時だけだ。
敵がどれだけ撃っても、こちらからは撃ち返すことができない。
「安全圏ってやつが、消えたわけだな」
ライサの言葉に、トールは小さく頷いた。
これまでは、港は「後方」だった。
砲弾の届かない場所。
戦争の匂いは漂ってきても、直接焼かれることのないはずの場所。
その前提が、一発目の砲弾でひっくり返された。
午後、臨時の会議が開かれた。
港湾事務所の大広間に、いつもより多くの椅子が並べられている。
西部艦隊の将校、港湾警備隊、街の行政官、それに商人ギルドの代表者たち。
壁際には、大急ぎで描かれた被害図が貼り出されていた。
クレーン三号機、基礎ごと使用不能。
隣接倉庫一棟、全焼。
貨物船一隻、大破。
死者十数名、負傷者数十名。
「帝国艦隊は、あの位置からステンブ港を自由に砲撃できる。これは、ステンブを交戦対象の都市と見なしたということと、ほぼ同じだ」
西部艦隊の将校が、棒で地図の一点を叩きながら言った。
ウーニヒ海の中ほどに、赤い丸が小さく印されている。
「我々としては、港内の軍事目標の移転を検討すべきだ。少なくとも、燃料庫と弾薬庫は、現位置から離さねばならん」
「そんなことをしたら、港の効率は落ちます」
商人ギルドの代表の一人が、即座に反論した。
ふくよかな体格の、金鎖を首に下げた男、ヴェルナー。
「ただでさえ護送船の編成で遅れが出ているのに、荷役にまで支障が出れば、西境全体の補給が止まってしまう」
「止まるより、焼き払われる方がましだと言うつもりですか?」
別の声が重なる。
細身で、どことなく現場叩き上げの匂いがする商人だ。
「今日の砲撃で死んだのは、港湾の労働者と水夫たちだ。あなた方が所有している船と倉庫に、これから何発も砲弾が落ちるかもしれないんですよ」
ギルド内部に微かな亀裂が走るのが、トールにも分かった。
戦争が始まってからずっと、「儲け話」の匂いを嗅ぎ分けてきた連中と、「街」を守ることを優先したい連中。その線が、この砲撃でよりくっきり浮かび上がる。
だが、今日の会議の役目は、その線をはっきりさせることではない。
まずは、帝国が何をしたか、その「意味」を紙の上に定義することだ。
「……まとめます」
発言の合間を縫って、トールは立ち上がった。
会議室の視線が、一瞬こちらを向く。
「帝国艦隊は、本日、ステンブ港湾設備に対して長距離砲撃を実施。港内クレーンおよび倉庫を直撃し、人的・物的被害を発生させました」
言葉を一つずつ区切って口にしながら、それをそのまま紙の上に写していくのが頭の中に浮かぶ。
「これは、護送船団への攻撃から一歩踏み出し、『ステンブそのもの』を攻撃対象とする意思表示と判断できます」
トールの言葉に、部屋の空気が少し重くなる。
誰も反論しない。
それが事実だからだ。
「今後、帝国はいつでも、同様の砲撃を再開できる位置に艦を置いている。こちらの砲は届かず、符術による索敵も妨害されている以上、『ステンブは砲撃の届く後方拠点』として扱われつつあると……そう見なすべきでしょう。艦隊との符術通信も安定しない。だから隊長は海側で線を握っている」
紙の上で、「前提」がまた一行書き換えられていく。
「では、その前提の上で、我々はどう動くべきか」
行政官が、重たい声で問いかけた。
「避難計画の見直しと、非戦闘員の退避が最優先です」
トールは、自然と口を開いていた。
今日、港で倒れたのは兵士だけではない。
荷役の老人も、ただその場に居合わせただけの少年も含まれている。
「港の一部を『危険区域』として指定し、荷役の集中と、非必要人員の立ち入り制限を」
「荷役を制限すれば、補給はさらに滞るぞ」と、ヴェルナーがなおも不満げに言う。
「補給を通すために港を失うわけにはいきません」
自分でも驚くほど、声ははっきり出ていた。
「クライネルト戦線に物資を送るために、ステンブを焼け野原にする。その結果、西境全体の補給能力を失うのは、本末転倒です」
静まり返った会議室に、しばし呼吸だけが聞こえた。
やがて、西部艦隊の将校が、わずかに口元を引き締めて頷いた。
「……港を守りながら、補給を維持する道を探る。そのための数字を、すぐに出してくれ、中尉」
「はい。港湾設備ごとの稼働限界と、危険度の区分をまとめます」
砲弾の届く「後方」で、また机の上の数字が増えていく。
日が落ちるころには、港の黒い煙もようやく薄くなっていた。
クレーンの折れた基部の周りには、白い布がいくつか並べられている。
その向こうで、まだ動くホースから水が垂れ続けていた。
トールは、海壁の上からその光景を見下ろしていた。
昼間と同じ灰色の海が、夕暮れの光を飲み込みながらうねっている。
背後から足音が近づいてきた。
「中尉、こんなところにいましたか」
振り向くと、港の裏通りでよく見かける顔の一人が立っていた。
派手な衣を着た商人風の男だが、その目の光は、港の公式な商人たちとは少し違う。
上等な布の袖口から覗く指はやけに長く、封蝋でも刃物でも扱えそうな綺麗さがあった。香油か煙草かわからない匂いが、焦げた港の空気に一筋だけ混ざる。
「黄昏の仲介人の噂を、覚えてますか?」
男は、海ではなく、黒く焦げたクレーンを見ながら言った。
「こうやって港が焼ければ焼けるほど、あの連中の荷は別の道を通る。カーラベルでも、帝国沿岸でも、どこへでもね」
トールは、男の言葉に何も返さなかった。
「ステンブを通す荷は、これから減っていくでしょう。でも、荷そのものは消えない。消えるのは、この港と、ここで生きている連中の仕事だけだ」
男は、肩をすくめると、潮の匂いのする風を一口吸い込んだ。
「……儲け話をするには、少し早い」
トールはようやく、一言だけ返した。
「そうかもしれませんね。でも、誰かがどこかで計算を始めている。砲弾の落ちる先と、金の流れる先を、同じ紙の上に描けるやつが」
黄昏の色をした空の下で、男は笑いもせずにそう言った。
その姿が裏通りに消えるのを見届けてから、トールは視線を海に戻した。
ポケットから取り出した紙には、さっきまで会議室で書いていた文言の続きがある。
『本日をもって、ステンブ港は帝国艦隊の砲撃範囲内に入ったと正式に認識。港湾設備への初撃に対する被害状況は別紙の通り。今後の砲撃に備え、港湾機能と防衛機能の両立策を早急に検討する必要あり』
文字を追いながら、トールは小さく息を吐いた。
「……これも、数字でしか見えない敗北の一つ、か」
紙の上では、「港湾設備損耗〇%」「死者〇名」といった数字が並ぶだけだ。
そこに、焦げた匂いも、折れた鉄の軋む音も、海に落ちた水夫の叫びも記録されることはない。
それでも、その数字を書かなければならない。
この港がまだ「後方」として機能しているうちに、砲弾と政治と裏社会が同じ紙の上に乗ってしまう前に。
灰色の海の向こうから、砲声は聞こえない。
代わりに、鐘楼の鐘が、ゆっくりと夜の訪れを告げていた。




