第1話 火薬の匂いがし始める港 アストリア王国 ステンブ
トールがステンブの海壁を初めて見たとき、真っ先に浮かんだ感想は「要塞だ」だった。
王都アステリア育ちの白い肌が潮風に粟立ち、黒に近い髪を撫で付けた指先には、薄いインクの染みが残っていた。制服だけが妙に新しく、ここが前線だとまだ認めていないみたいだった。
1月となる光月の潮風は容赦がなく、吐く息が白くほどけた。手袋越しでも指先がすぐ痺れる。
港町と聞いて想像する、白い家並みや陽気な酒場の気配はここにはない。
灰色の石を積み上げた巨大な海壁が、海からの風を正面から受け止め、鈍い音を立てていた。壁上には砲座が並び、その合間に符術塔が突き出している。符術塔の頂で索敵符板が淡く脈打ち、沖の船影と魔素の乱れを拾って、砲座へ警戒の合図を落としていた。
船を迎えるはずの町が、まるで敵艦隊に背を向けた城塞のように海に立っている。
海壁の向こうには、屋根を寄せ合うように家並みが続いていた。煤けた屋根の間に、小さな礼拝所の尖塔と、酒場の看板がいくつか顔を出している。路地裏の物干しには洗いざらしの服がはためき、屋台の鍋からは香辛料の匂いがかすかに流れてきた。
それでも、笑い声はほとんど聞こえない。子どもが駆け回る代わりに、荷車を押す大人たちの足音と、造船所から響く木槌の音だけが石畳を叩いていた。
軍港とはこういうものか、とトールは胸の内で呟いた。王都の商業港で見慣れた、観光客と旅芸人と荷馬車が入り混じる雑然とした賑わいは、ここには欠片もない。
甲板から吹き上げてくる潮風には、油と古い煙の匂いが混じっている。胸の奥がじわりと重くなり、指先だけが落ち着かずに制服の裾をいじった。
「見とれてる場合か、新任さん」
背後から声が飛んだ。振り向けば、肩に赤い紐章をかけた女兵士が、手摺に片肘を乗せて海壁を見上げている。
短く刈った赤茶の髪が風に逆立ち、日に焼けた首筋が露わになっていた。灰色の瞳は、景色じゃなく人間を先に測る。
「港湾警備隊副隊長、ライサ・グレインだ。王都からのお荷物さん、あんたがトール・レンブラントで間違いないか?すまないが隊長は今週ずっと海の上にある艦隊補給課に詰めっぱなしだ。港の机より、海図の机の方が戦場らしい」
「……トール・レンブラント中尉です。配属命令書を」
トールは慌てて胸元から封筒を取り出した。軍務局の封蝋が押されたそれを受け取り、ライサは雑に封を切る。
灰色の瞳が一度だけ紙面を走り、次いでトールをじろりと見た。
「書類は問題なし。中身は……現場で確認ってやつだな」
トールは、飲み込みかけたため息をどうにか苦笑に変えた。つい数日前まで、自分の仕事は王都の補給課で帳簿の欄を埋めることだった。
前線で起きることは、遠いどこかの出来事であり、机の上に現れるときには「消費量」と「損耗率」という数字に変わっているだけだった。
「評価が早すぎませんか、副隊長」
「評価なんてしてないさ。ただ、王都育ちの机上官僚が、この港でどれだけ持つかが気になってるだけ」
言葉はきついが、声音には軽い笑いが混じっている。
トールは短く咳払いし、視線を海壁から港の内側へ移した。
海壁の内側には、巨大な造船所が口を開けている。半ば組み上がった軍船が三隻、足場に囲まれて並び、その周囲で職人たちが木材と鉄板を運び、符術師が船体に刻印を打ち込んでいた。
その背後には、積み荷を満載した商船が何隻も停泊している。軍旗を掲げたもの、他国の商人旗を掲げたもの、そして旗だけは中立国を装いながら、どう見ても帝国式の船体をしたもの。
「……帝国船、多いですね」
思わず漏れたトールの呟きに、ライサは片眉を上げた。
「王都じゃ聞いてないか?『緊張は高まっているが、あくまで外交で解決する方針』だとさ。外交中なんだ。帝国商船様が増えるのも、きっと和平の証ってやつだ」
口調の端に、わかりやすい皮肉が滲む。
トールは、王都で最後に見た通達文を思い出した。
――西境緊張につき、前線部隊は挑発行為を厳に慎むこと。
――ステンブ港湾警備隊は、通常任務を維持しつつ、帝国商船の安全な入港と通商の確保に努めること。
空気のきな臭さが増してきても、「まだ大事ではない」と書類の上で言い張るのが王都のやり方だ。
「……港湾警備隊の任務内容を、改めてご教示いただけますか、ライサ副隊長」
「素直なのは嫌いじゃないよ。ついてきな、新任」
船が桟橋に舫われると同時に、ライサは身軽に跳び降りた。
トールも続いてタラップを降り、ステンブの石畳を踏みしめる。潮の匂いと、油と、人間の汗の臭いが一気に鼻を突いた。
港湾警備隊の詰所は、海壁へと続く坂道の途中にあった。
ごつごつした石造りの二階建てで、入口には「港湾警備隊」と彫られた木板。その下には、赤い封蝋で留められた通達用紙が何枚も重ねて貼られている。
「港湾内における符術使用の手引き」「帝国所属船舶への対応要綱」といった文字が、潮風に揺れていた。その横には、小さな鉄板が打ちつけられ、「王国西部艦隊補給課」と刻まれている。
港湾警備隊は都市衛兵の一部だが、ここは軍港だ。だから建物も指揮も、平時から西部艦隊と半分くっついている。
「表向きは港の警備と検査。実際は、軍とギルドと商人の喧嘩を全部まとめて押しつけられる場所さ」
ライサが肩をすくめる。
「砲と兵を握ってる軍に、傭兵かき集めてるギルド、この港を通る荷と金を抱えてる商人。そいつらの機嫌を、ここでまとめてなだめるのが港湾警備隊ってわけ」
トールは、王都で読まされた担当部署一覧を思い出しながら、その現場版を目の前で聞かされている気分になった。
中は、書類と地図と罵声で満ちていた。
「弾薬庫の増設がまだだと?海壁から一番近い配置だぞ!」
「いま増設してる倉庫は、商人ギルドとの共同使用が――」
「帝国商船の荷を検査するなって言うなら、そのうち密輸とスパイだらけになるんだよ!」
複数の声が重なる中、ひときわ大きな笑い声が響いた。
「おうライサ、帰ってたのか!」
奥から現れたのは、肩幅の広い男だった。日に焼けた頬と無精髭が、港の塩気をそのまま顔に刻んでいる。鎧はところどころ打ち直されているが、よく手入れされている。腰には長剣ではなく、湾曲した短い刃と符刻付きの棍棒。冒険者の名残を残した装いだ。
「傭兵分隊長のゲイル・ドナン。護送船団や港湾警備でうちに雇われてる。で、こっちは王都からのお荷物」
「トール・レンブラントです。補給課からの異動で――」
名乗ると、ゲイルはじっとトールを見下ろし、次いで口角を上げた。
「補給課か。書類の山からよくこんな端っこまで流されてきたな、お偉い中尉殿。ステンブは初めてか?」
「はい。港湾勤務自体、今回が初です」
「ならいい。最初から慣れてる奴より、こっちのやり方を素直に飲み込む余地がある。……で、副隊長。そいつに何を任せるつもりだ?」
「王都の話だと、補給計画と入港管理に強いらしい。だったら、まずは護送船団の編成表からだな。こっちも艦も人も足りない。足りないのをどう回すか考えるのが、中尉の仕事になる」
ライサが壁に貼られた大きな地図を指さした。
ウーニヒ海を中心に、ステンブからクライネルト方面へ向かう線が何本も引かれている。線の上には小さな駒が置かれ、それぞれに「食糧」「弾薬」「傷病兵帰還」などの札が立っている。
「西部艦隊の艦は、港防衛と護送、偵察で手一杯だ。護送だけ増やせと言うなら、壁の砲を減らせって話になる。偵察を削れば、帝国艦隊がいつ本気を出すか分からない」
「……全てを同時に守るのは、無理だと?」
「当たり前だろ。だからどこで諦めるかを決めるのが、指揮官の仕事だ」
ゲイルの言葉に、トールは口をつぐむ。
王都の陽当たりのいい執務室で書いてきた補給計画は、いつも「前提条件」が揃っていた。
必要なだけの船、必要なだけの兵、必要なだけの弾薬があるものとして、その最適な配分だけを計算していればよかった。
ここには、その前提がどこにもない。窓の外に広がるのは、帳簿ではなく、砲煙と潮風にさらされた現物の港だ。
「まずは現状の航路と護送実績、それと帝国船の動きが知りたいです。記録は残っていますか」
「お、仕事の話になったな、中尉殿」
ライサが口元だけで笑い、書類の束をどさりと机に載せた。
「帝国商船の入港記録と、ここ半年の護送船団の被害報告だ。字は汚いし、半分は愚痴だが、現場の数字は全部ここにある」
トールは束を両手で受け止めた。
ずしりとした重みが腕にかかる。その一枚一枚の裏側に、人や船や港の一日が貼りついていることを、言葉としては知っている。けれど、それを実感するには、まだ彼は若い。
最初の一日が終わるころ、トールは自分の机の上に積み上がった数字の山を見つめていた。
帝国船の入港回数は、三か月前から目に見えて増えている。
名目上は通商船だが、積荷の中身は「機械部品」「精密符具」「加工済み鉄板」など、軍需にも転用できるものが多い。
護送船団の被害報告はまだ少ないが、その分「単独行動していた商船の行方不明」がじわじわと増え始めていた。
行方不明の欄には、商会の名と船名が行儀よく並んでいる。それでも、トールの目には、まず「件数」という文字列としてしか入ってこない。そこに顔や声を想像しかけて、彼は意識的に思考を切り上げた。
数字を並べてみると、嫌でも分かる。
事が大きくなる話は、鐘や砲声より先に、こうして帳簿の端から静かに焦げ始める。
緊張は、高まっているどころの話ではない。
「中尉、そろそろ上がっても――」
声をかけかけたライサの言葉が、外の喧騒にかき消された。
怒鳴り声と、何かが倒れる音。続いて、甲高い金属音。
トールとライサは同時に顔を上げる。
「……港だな」
「行きましょう」
詰所を飛び出し、坂道を駆け下りる。
夕暮れの港は、いつもの喧騒に加えて、妙なざわめきが混じっていた。
桟橋へ続く通りでは、酒場の扉が次々と開き、灯りがこぼれ始めている。歌声はまだ控えめで、その代わりに低い囁き声が多い。
露店の主たちは客よりも荷を気にして視線を港に向け、路地の影には商人ギルドの腕章を付けた男たちが、事の成り行きを値踏みするように立ち止まっていた。
人垣をかき分けていくと、その中心に二つの集団が向かい合っているのが見えた。
一方は、ステンブの荷役や水夫たち。
もう一方は、帝国商船の水夫と思しき男たち。服装も言葉も、トールには見慣れない。
「てめえら、こっちの荷に勝手に手ぇ出しておいて――」
「荷役の不手際だろう?我々はただ、自国の貨物を守ろうとしただけだ」
帝国水夫が流暢な王国語で返す。その口元には薄い笑み。
ステンブ側の水夫が掴みかかろうとした瞬間、帝国側の男の指先で、黒い紙片がひらりと踊った。
薄い板のような紙。表面には、細かな線と記号がびっしりと描かれている。
それが「符」だと、トールは理解する。符術塔の特別製とは異なる一般的な符。
魔力を持つ者が触れて力を流し込めば、一度だけ決められた効果を発動する、使い捨ての術。遠見の符、火花を散らす符――戦場では剣より先に飛んでくる、と教本には書いてあった。王都の訓練場で何度か見せられた、教範通りの光景だ。
頭のどこかで、その説明が勝手に復唱される。だが足は石畳に根を張ったように重く、喉だけが乾いていく。
空気がぴんと張り詰める。
トールはとっさにライサの腕を引いたが、びくともしなかった。
「符だ!」
水夫の足元で小さな光が弾け、周囲の男たちがよろめいた。
足をすくわれた形になり、荷役の一人がバランスを崩して海に落ちかける。
その腕を、別の男がぎりぎりで掴んだ。
引き上げられた荷役は顔を真っ青にしながら、帝国水夫を睨みつける。
「今のは――」
「ただの軽い牽制だよ。怪我はさせていない」
帝国の男は涼しい顔で答えた。
「港湾警備はどこだ?こちらは正当な自己防衛をしただけだと証言できるぞ」
「協力ねえ……」
ライサが人垣を割って前に出た。肩章を見た帝国水夫の顔に、一瞬だけ警戒の色が走る。
「帝国船の乗員だな。符術の使用は港湾内では届け出が必要だ。規則は通達してあったはずだが?」
「自衛のためだ。こちらの荷に、そちらの水夫が――」
「事情は後で詰所で聞いてやる。今は全員、その場から離れろ。王国港湾内で符を振るった件は、帝国側の領事にきっちり報告しておく」
ライサの声は静かだが、返事を求めない響きがあった。
帝国水夫が、わずかに目を細める。その背後で、同じ服装の男たちが小声で何かを囁き合っていた。だが、誰も次の符を抜かなかった。
人垣が少しずつ散っていき、港のざわめきが戻り始めた。
「トール」
名を呼ばれ、トールはライサを振り向いた。
「見たか?今の符」
「……観測符の応用のようでしたが、動きが速すぎて」
「近接戦じゃなく、ああいう小出しの嫌がらせから物騒な話は転がり出す。王都で回してる紙には、今の一発みたいなのは絶対に載らない」
ライサは海壁の向こう、白く波打つウーニヒ海を見やった。
「何かが本当に動き出す前には、匂いが変わる。こいつは、そろそろ鼻が慣れてきたところだ」
トールも、海の匂いを吸い込んだ。
潮と、油と、汗と、さっきの符の焦げた匂い。
どこまでが港の日常で、どこからが戦の臭いなのか、まだ彼には判別がつかない。
だが、胸の奥で、うすら寒いものが広がっていく。
王都の通達は、まだ「外交で解決する」と言っている。
紙の上の情勢は、あくまで平時の扱いだ。
それでもトールは、海壁に並ぶ砲と符術塔を見上げながら、ふと思った。
――もしかすると、この港ではもう、別の数え方が始まっているのかもしれない。
彼がそう考えたところで、遠く海の向こうから、ゆっくりと帝国旗を掲げた商船が近づいてくるのが見えた。
火薬の匂いは、まだかすかだ。
けれど、風向きは確かに変わりつつあった。




