月下の影舞踏
霧が完全に晴れた翌朝、蓮ケ谷はすがたに清澄さを取り戻していた。松林のざわめきは遠くで止み、ひんやりした風が稲穂をそよがせる。慎二は祠の前でひとり、深く頭を垂れていた。昨夜の戦いは、村に小さな勝利をもたらした──しかしそれは、「序章の終わり」に過ぎない。
──誰もが、まだ目を閉じてはいけない。
集落に戻る途中、紗良が振り返り、慎二に問いかける。
「百合子と清志郎の影、確かに閉じ込められた。でも、その刻印は完全ではない。心の奥から滲む闇が、まだ牙を研いでいるはずよ」
慎二は微かに笑みを浮かべる。
「……ああ。村人も少しは安堵した顔をしているが、俺たちが安心できる段階はここではない。次が来る前に手を打つ。」
村の外れ、小さな泉のほとり。そこには昨夜、誰かが落としたと思しき血の滴が点々と続いていた。紗良が鈴を鳴らすと、泉面に銀の輪紋が広がる。
「この血痕は、新たな影を誘う符号。この場所を起点に、次が動き出すわ」
二人は神妙に泉のほとりを調べる。土を掘り返すと、古びた鉄の首輪が現れた。かつて村の番犬を繋いだものだろう。刻まれた文字はかすれて読めないが、裏側に彫られた紋章は見覚えがあった──それは、村の守護を司る古老の家紋と酷似している。
「これが意味するのは…」慎二の声に、緊張が生まれる。
「誰か“味方”と思っていた者が、もう一つの影を操っているということ?」
紗良は青い紋様を描くように微かに首をかしげた。
「可能性はあるわ。だが、真実は血痕と首輪を追わねば掴めない。人狼の本質は“仮面”よ。今夜、その仮面を剥がす作業を始めましょ」
午後、村人たちを集めた慎二は短く告げた。
「今夜、再び松林へ行く。篝火を焚き、首輪に刻まれた紋章を解読し、影の源を断つ。そのための仲間を募る。恐れるな、恐怖を盾に隠れるな──我らは村を守るために立つのだから」
呼びかけに応じたのは、鍛冶屋の源蔵、薬師の恵美、猟師の弟子・拓也ら四名。皆、昨夜の勝利に沸いたわけではない。だが、怯えを内に秘めながらも、一歩を踏み出す覚悟を見せていた。
夜。松林の縁に立つ十数本の松明が、影を長く引きずる。風が止み、月光だけが銀灰色の世界を照らす。炎の前に並ぶ面々の瞳は、決意と不安で揺れていた。慎二は短く合図し、恵美へと頷く。彼女が小壺から赤い粉を撒くと、松明の炎は一瞬、朱に染まる。
──警告の炎。
背後の茂みがざわめき、源蔵が剣を抜く。
「来い!」
静寂の中、影が舞い降りる。黒い毛皮を纏い、二つの影が重なった獣──ではなく、人の形を揺らめかせていた。月光に照らされたその顔には、助手の拓也の面影があった。
「拓也…お前が、仮面を?!」
慎二の声が震える。だが拓也は歪んだ笑みを浮かべるだけで、言葉なく獣の口元へと手を伸ばした。
紗良が鈴を強く打ち鳴らし、呪文を紡ぐ。首輪の紋章が朱の光を帯びて妖しく輝き、拓也の姿を引き裂くように閃いた。
──ガシャリ、と鎖の鳴る音。
宙に宙吊りになった鉄の首輪が、跳ね返る月光を浴びてきらめく。拓也の身体は地に崩れ落ち、獣の影が静かに消え去った。彼の目は閉じ、ただ冷たい夜気に晒されている。
松明の炎が揺らめき、皆の息遣いだけが響く。源蔵は膝をつき、剣の刃を受け止めた手を押さえながら呟いた。
「信じた者が…仇だったとは…」
紗良はそっと拓也の首輪を手に取り、青い紋様を撫でる。
「影は二つどころか、重層を成していた。仲間の仮面に隠れ、恐怖を糧に牙を研いでいたのね」
慎二は短く剣を振り、冷たい血を払い落とす。
「これで影の一層を剥がした。だが、深い闇はまだ残る。次はもっと深く、影の源泉を断たねばならない。」
夜風が一度、松林を揺らし、月光を一瞬遮る。──まるで次なる影を呼ぶように。
蓮ケ谷の夜は、まだ終わらない。