祠(ほこら)の刻印
夜闇が最深を迎える頃、慎二と紗良、そして数名の村人たちは、村の奥深くにひっそりと佇む古い祠へと足を運んだ。霧はなお濃く、足元を確かめるたびに水滴が靴底を冷たく濡らす。木漏れ日の名残すらなく、松林の影はまるで生き物のように蠢いていた。
──ここに、二つめの影を誘い込む。
紗良は白木の扉に手を触れ、鈴を高く掲げる。鈴の清澄な音が、夜の静寂をえぐるように響いた。程なくして、祠の内側から古びた石板が浮かび上がり、淡い青い紋様が霧の中にぼんやりと浮かぶ。
「これが、先人が刻んだ“狼の落とし子”の刻印……」
紗良の声は震えていないが、その瞳には一瞬の苦悶が走った。
彼女の呪文が石板に触れると、絵画のように刻まれた狼の姿が動き出した。雄々しく吠える狼、そしてその背後に重なる影──二つの狼影が、祠の空間を揺らめかせる。
「一つは獣の咆哮、もう一つは人の嘆き……混じり合う時、狼は真の牙を顕す」
紗良が呪文の続きを詠唱する。周囲の霧が渦を巻き、松林のざわめきが低い咆哮に変わった。
突然、その声は祠の外からも響く。
──ガサガサ、ガサガサ。
慎二は剣を構え、一歩前に踏み出す。
と、その時。祠の扉が大きく開き、二人の姿が現れた。ひとりは深い黒髪を乱した若い女――百合子の面影を残すが、瞳は人ではない冷たさを帯びている。もうひとりは、追放されたはずの清志郎。だがその表情は怒りとも悲しみともつかない、異形の何かに支配されたものだった。
「迎えに来たよ紗良、駆けつけたよ...慎二……」
二つの声は澄んで、しかし重なり合って村人たちの胸を貫いた。
百合子の姿はまるで霧と同化し、気配はほとんど感じられない。彼女は静かに微笑み、唇から微かな笛の音を漏らした。それは甘美で毒のように心を支配する響きであった。
一方の清志郎は、震える声で詠う──
「我らは、狼でも人でもない。だが、この村に刻まれし罪の証──闇の血脈を繋ぐ者なり」
その言葉と同時に、清志郎の胸元から黒い霧がほとばしり、村人たちを包もうとした。逃げ場などない。松林の影が、まるで意志を持つかのように枝を伸ばし、囚われた者を閉じ込める佇まいだ。
「これが……二重の影の真髄」
紗良がかすかに呟いた。だが彼女は恐怖に屈しない。銀鈴を高く振りかざし、最後の一振りで祠の石板へと音を叩きつける。
──リン、リン、と澄んだ余韻が幾重にも重なり、刻印の青い紋様が一斉に閃光を放つ。
まばゆい光に包まれ、狼の声が裂けるように消えた。松林のざわめきは凍りつき、霧は一瞬にして晴れ渡る。そこには、百合子も清志郎も、ただの空虚な気配だけが残った。
祠の扉は静かに閉ざされ、石板の紋様は元の眠りに戻る。夜風が吹き抜け、二つめの影の囁きは永遠に閉じ込められたかのようだった。
だが、慎二は知っていた──
閉ざされたのは影の一部に過ぎず、真の牙はまだ深い闇の底で研がれていることを。
霧の切れ間から見上げた空に、満月が薄く浮かんでいた。狼牙は、今まさにその輪郭を研ぎ澄ましつつある。
──終わりなき夜は、ただ続くだけだと。