双影の囁き
朝霧はなお晴れず、蓮ケ谷はすがたに深い灰色のヴェールをまとっていた。百合子の姿はもう戻らず、集会所前の石段には、彼女が最後に踏んだ蹴り跡だけがひっそりと残っている。風が通り抜けると、白布に染みた霧の雫が揺れ、まるで彼女の声にならぬ囁きを運んでくるかのようだった。
慎二はその石段に腰を下ろし、手許の笛を見つめる。昨夜、百合子が放った最後の言葉――
「清志郎も私も、人でも狼でもない」
その含意を反芻しながら、彼はゆっくりと息を吐いた。誰が、どんな“存在”を見せようとしているのか。だが考えすぎれば、胸の奥で鎖がきしむ。
午前の集落見回りで、農夫の早苗が声を上げた。
「見て……畑の端に、人の形の何かが転がってる!」
駆けつけると、そこには首を落とされた誰かの遺体。だがよく見ると、服装も体つきも先日追放された清志郎や百合子とはまったく異なる――若い娘のものだった。
霧の中、慎二は刃を構え、周囲を警戒する。遠く松林のざわめきが、一瞬ざわめきのように聞こえた。遺体の傍らには、小さな足跡がひとつだけ――しかしそれは、たった今つけられたばかりの、新しい影の足跡だった。
夕刻、再び集会所。村人の顔は青ざめ、不安で震えている。紗良は鈴を鳴らすことなく、静かに立つと告げた。
「私の占いは完全ではありませんでした。……人狼は、一人じゃない──」
その声に集まった者たちはみな、息を呑む。
「二つ、いや複数の影が、この村を彷徨っているのです。百合子の“消失”も、清志郎の“追放”も、その先に隠された真実の一片に過ぎない。」
紗良は手のひらで鈴を転がし、軋むような音を漂わせた。
「占い師の私は、ひと晩に一つの影しか捉えきれない。けれど、この霧が示すのは、影の重なり──一つではなく、二つの狼が牙を研いでいるということ。」
村長が震える声で尋ねる。
「では、我らはどう立ち向かえばよいのか?」
紗良は霧の奥を見据え、静かに答えた。
「まずは真実を二つに裂き、それぞれの正体を暴かねばなりません。百合子が残した霊媒の力も、清志郎への呪詛も、この二重の呪縛を解く鍵になるでしょう。」
慎二は剣を抜き、柄に手をかけた。
「夜が来る前に、村の奥の祠へ行こう。百合子の呪文と、紗良の占いを組み合わせ、二つめの影を暴き出す。」
薄暗い燭台の火が揺れ、村人たちの顔に小さな光を落とす。恐怖と希望が入り混じる中、誰もが固唾を飲んでその決意を見つめた。
集会が解散し、帰路につく人々の足音は、霧に吸い込まれるように消えていった。だが、遠くから――松林の向こうから――低い唸り声が断続的に響いてくる。
人狼は今、ひとりではない。
影は深く、そして広く、まだ見えぬ獲物を求めて蠢いている。
夜の闇が迫る。蓮ケ谷は、二重の影に試される。
誰が狼か、誰が人か──その答えは、霧の奥に眠っている。