天秤
朝の霧は昨夜よりも濃かった。まるで何かを包み隠そうとするかのように、村の境界すら曖昧になっていた。鶏の鳴き声もどこか遠く、現実の輪郭はすっかり削られていた。
村の広場には、重い足音が交差していた。ひとつ、またひとつ。
その歩みは、儀式という名の殺し合いを前にした人々の、静かな逃避のようにも見えた。
慎二は昨夜、眠れなかった。夢に清志郎が出てきた。首を傾げ、何も言わず、ただ見つめていた。その眼差しは、怒りでも悲しみでもなかった。ただ問いかけるようだった――
「お前は、信じたのか?」
否、そうではない。「信じたふりをして、諦めたのだろう?」
それはたぶん、清志郎ではなく、慎二自身の良心が投げた問いだった。
彼は今朝、誰よりも早く集会所に来た。だが何もできなかった。
火を起こすでもなく、言葉を準備するでもなく、ただ煙草を一本、火のついていないまま咥えていただけだった。
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午前、誰よりも遅くやって来たのは紗良だった。
今日もまた、鈴を手にしていた。慎二が何気なく見たその手首は、昨日より細く見えた。
「占い師が名乗るべきです」
誰が言ったか分からなかった。言葉は空中に浮かび、そして沈んでいった。
「……そうね」と紗良が言った。
「私は……占い師じゃないわ」
「ならば、黙っているのが吉だ」
今度は百合子の声だった。彼女は目元に巻いた黒布を外そうとはせず、笛を静かに膝に置いていた。
「昨夜、清志郎は私にこう告げました。『彼女は、狼ではない』と」
誰かが息を呑んだ。
その「彼女」が誰を指すのか、訊く者はいなかった。皆、分かっていたのだ。
紗良は言った。
「ねえ……私たちは、誰を殺せば終わるの?」
百合子が答えた。
「まだ終わりません。あとひとり、少なくとも」
老女・久美子が嗤った。笑いというには湿っていた。
「何人殺せば気が済むんじゃろうなあ。いっそ、みな殺してしまえばええ。残った者が“人間”ということになる」
その言葉は皮肉であったが、誰も否定しなかった。
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日が傾く頃、三人の名が囁かれていた。
慎二。紗良。そして百合子。
いずれも「信じるには遅すぎ、見捨てるには惜しい者」たちだった。
決を採る時間が来た。
古びた木箱の中に、また紙片が落ちていく。
その音が、まるで雨垂れのようだった。どこかに棺があるのだとすれば、それを静かに満たす音。
開票。
三票、百合子。二票、紗良。一票、慎二。
「……そうですか」
百合子は静かに立ち上がった。笛を手にし、もう一方の手を胸に当てた。
「私は高明な霊媒師の血を引く者であり、この村に真実を告げるために遣わされました。……その務めは、今ここで終わります」
彼女はそう言い、微笑んだ。誰に向けた微笑みだったか、もう分からなかった。
「ただ一つだけ、最後に告げましょう。清志郎も私も、“人ではなかった”。……でも、狼でもなかったのです」
そう言い残し、彼女は霧の中へと消えた。
霧の向こうに消えた白い法衣と、鈴のように小さく響く笛の音だけが残った。
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その夜、誰も眠れなかった。
誰もが目を閉じ、何かを祈った。だが何を祈っていたのか、誰も答えられなかった。
翌朝、霧は晴れなかった。
むしろ、昨日よりも濃かった。
まるで神が目を覆ったように。
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