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雨の夜の村

蓮ケはすがたには、山深き谷間に息づく小さな村である。四方を峰々に囲まれ、外部との連絡は古びた石橋と一本の草道のみ。ここ数日、激しい雨に閉ざされて、村人の顔には不安の色が濃くなっていた。


夕暮れ迫る村の中央、古い蔵の前に人だかりができている。ひび割れた土壁の蔵扉は開かれ、昨夜の惨劇の痕が静かに語りかけていた。若き猟師・辰巳たつみの遺体は、首筋がかみ切られたような無残な姿で発見されたのだ。血の海に倒れる姿は、村人の胸に凍りつくほどの恐怖を刻んだ。


「まさか、狼の仕業じゃあるまいな……」

背を丸めた老女が小声で呟く。その声には、迷信では片づけられない何か重い気配が混じっていた。


「人狼」という語は、かつてはただ往古の者の戯れ言に過ぎなかったはずである。

それが今や村を這う悪夢となり、澱んだ空気の中で人々の顔色を削ぎ落としている。

誰もが他者の瞳を恐れ、言葉を畏れ、やがて己の思考さえ疑いはじめている。

それでも太陽は無遠慮に昇り、村の沈黙に一片の加担もせず、ただいつもどおりに振る舞っている。


蔵のそばにいるのは、かつて兵士だった男──慎二。

戦を経て村に戻った彼は、己の意思で駐在役となった。

だがその瞳に宿るのは、平和の責任ではなく、かつて命令を受けた男の、義務にも似た哀れな誠実さである。

「動揺は禁物だ。まずは状況を整理しよう」


慎二は厚い革手袋のまま、濡れた地面を指して言った。雨に溶けた足跡や、蔵の土壁に残された細かな引っかき傷──人狼のものか否かはわからないが、何かがここで蠢いていた痕跡だけは確かに存在していた。


その傍らに立つのは、村の占い師として知られる少女・紗良さらである。十六歳にして鉄仮面のように表情を変えず、占いの儀式では的確な予兆を告げると評判を呼んできた。白木のほこらを前に翳す小さな鈴の音は、村人の心のざわめきを鎮める唯一の頼りだった。


「人狼は、ひと晩に一人だけを選んでつまみ喰いのように狩る....」

紗良は低く、慎重に語りかける。彼女の声は囁くように静かだが、その内容には揺るぎない確信があった。


村の長老たちはざわめきながら提案を交わす。夜ごとに集会を開き、容疑者を挙げ、票によって一人を村から追放しよう──あるいは処刑しようというのだ。古き掟では、狼につけ狙われた者を村の外に送れば、以後の被害は収まるとされている。


しかし、追放された者が手掛かりを残さぬまま闇に消えれば、かえって疑念は増すばかり。誰が真実を語り、誰が狼の手先か。村人の間には、沈黙よりも重い空気が満ちていった。


その夜。降りやまぬ雨の音が、藁葺き屋根を容赦なく叩く。村人たちは皆、自らの家の扉を固く閉ざし、防犯の鐘を鳴らし合った。誰もが息を潜め、闇の向こうに潜む獣の気配を感じ取ろうとしていた。


慎二は家の縁側に立ち、傘もささずに夜を見やった。遠くの松林で、時折かすかな枝の軋みが響く。あれが人狼の足音なのか、はたまた狂気に囚われた村人の足音なのか、区別はつかない。


ふいに背後から鈴の音が響いた。紗良が手にした銀鈴が、祠の前で震えている。彼女の目元に、わずかな翳りが走った。


「今宵、我らは試されている……誰が人狼であるか、そして誰を信じるか――」


その言葉に、慎二は深く頷いた。村人たちは再び、闇の中で意思を交錯させる。今夜、この静かな村に真正面から立ち向かうのは、恐怖と疑念──そして、ひと握りの勇気だけだった。

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