94話 シグレリア
どこまでも静かな場所だった。
陽だまりのような光が、葉の隙間から落ちている。
空は薄く金に染まり、涼やかな風が苔むした地面を撫でていく。
木々は高く、どれも異様なほど幹が太く、葉は淡く光を放っていた。
「界境って、意外と……森、なんだな」
もっと何か、派手な異世界みたいな場所を想像していた。
でもここは、静かで、優しくて、どこか懐かしい。
木の幹に手を当てると、ほんのりと魔力の鼓動が伝わってくる。
「界境か……」
お茶菓子は、出て来そうにもなかった。
もっと精霊たちがのほほんと暮らしており、この世の天国みたいな食べ放題、寝放題、美女放題みたいな幸せな空間だったらいいのになぁなんて思っていたりした。
どこに学長たちがいるのかもわからず、木の幹に体を預けると、先ほども感じた魔力の鼓動が伝わってきた。
心臓みたいに、ぽん、ぽん、と。
まるでこの森が生きていて、眠っている誰かが、穏やかに夢を見ているみたいだ。
「その木はな、人よりずっと昔から、ずっとずっと、ここに立っておる。気に入られておるな」
不意に、背後から聞き慣れない声がした。
慌てて振り向くと、そこには――
背丈は自分の肩くらい。
やわらかい金髪に、ふわふわの白いワンピース。
頭には木の枝で作ったような王冠(しかも斜めにズレてる)を乗せた、少し老齢な言葉遣いをする少女。
「まさか、ここに至るのが小物くんだったと。界境は姉妹ではなく、ハチを選んだのか。絶対に姉妹の方だと思ったいたのだけれど」
木を見上げながら、少女がそう言う。まるで誰かに語り掛けるように。
「少女なのに、なんかおばあちゃん感がします……」
界境にいる少女がただの少女なはずもない。自然と敬語になってしまった。
何より、彼女の体内から溢れ出ようかという魔力量が、俺の小物センサーへと告げる。
こいつはやばい、と。
「失礼な。ワシをおばあちゃんなどとで呼ぶな。少女の姿をしておる者に、それは甚だ無礼というものじゃ」
「え、す、すみません! あの、どなたですか……?」
「なんじゃ、名乗らねばならんのか。最近の若造は“風に導かれし謎の者”とか言うだけで満足せんのかのう」
あれ? これ本格的におばあちゃんかもしれない。
少女、いや、なんかもう中身は完全にそれなりの年齢なその人は、こちらの困惑をよそに、地面にしゃがみ込んで小さな花に指先を添えた。
「この界境はの、人の心があまりに濁れば入ることすらかなわん。けれど、お主は……まぁ、うっかり入ってしまう程度には素直じゃな」
「うっかり……!?」
「そうじゃ。お主、いろいろうっかりしとるじゃろ。顔にも書いてある」
そんな落書きされてないけど!
小物であることは認めるが、しっかり者ですが!
少女はちいさく笑った。
その笑い方は、歳を重ねた者だけが持つ、ちょっとだけ切ない慈しみが交じっている。
「さて。せっかくじゃし、案内でもしてやろう。こう見えて道案内には慣れとるでな。長く生きておると、どこに何があるかも、大抵わかっておるものじゃ」
「えっ、えっと……ありがとうございます。た、助かります」
結局優しい人なのか? 人かどうかも怪しいが。
「礼などいらん。どうせ後で『なんでそんな大事なこと早く言わなかったんですか!』とか言われるんじゃから、今のうちに情を買っておく」
「いや、買うんですか情……」
売る方じゃないのか。
少女はスッと立ち上がり、苔むした道を先導するように歩き出す。
彼女の歩みは音もなく、草木すら道を空けるようにそよいだ。
しばらく歩くと、木々が途切れ、ふと地面が切り立った縁に出た。
広がる空は黄金に近い銀色。そこだけがぽっかりと抜け落ちたような空間だった。
少女はその端に立ち、後ろ手を組んだまま、穏やかに言った。
「ハチ……下を、見てごらん」
促されるままに縁へと近づいた。
最初はただの崖かと思った。けれど、覗き込んだ瞬間――
言葉が、出なかった。
地面なんて、ない。
そこにあったのは、幾重にも折り重なる枝と幹の海。
光の川のような魔力が、ゆるやかに下層へと流れていき、それらすべてが、一本の巨木の中にある風景だった。
「これ……」
「うむ。お主が歩いておった“森”はの、世界樹の枝葉にすぎん。この界境とは、“時の階層樹”と呼ばれるもの。お主は今、その上層に立っておるというわけじゃ」
「ええええええええ!?!?」
今立っている地面すら、枝葉の一部? どんな規模だよ、世界樹ってやつは。
「驚くのは当然じゃ。ワシも最初は驚きすぎて足を滑らせて落ちたからのう」
「落ちたんですか!?」
「落ちた。そして次からは落ちる者が出ぬよう、こうして案内しておる。神は学ぶのじゃ」
神?
「グランとエルディア……いいや、彼は今ジンと名乗っているな。二人が危なそうだから、少し急ぐとしよう。さ、お主が来た目的の騒ぎは下の層じゃ。行くぞ。息を吸って、耳を塞げ。泣き声と怒号と、ちょっとした英雄譚が聞こえてくる頃合いじゃからのう」
彼女の目は、どこまでも深く、どこか寂しそうで、しかしまさかの――予想外な人物の登場に楽しそうだった。
小物の登場がそれほど意外か?
そりゃ姉さんたちの方がこの場に相応しいとは俺も思うけど、でも小物だって仲間のためならこんな場所にだって来ますよ。あまり小物を舐めて貰っては困る。
「さあ、参るぞ。心して進め」
いざ下層へ。
「蔦を踏み外すでないぞ。落ちたら責任は持たんからの」
「え、落ちたら……どうなるんですか?」
「そうじゃな……おそらく数百年の瞑想タイムが始まるじゃろ。昔お調子者の人間が界境に入ったことがあるが、すぐに静かになった。永遠に」
ヒィ!!??
確実に、そして急ぎ蔦につかまり、下層へと続くその階段のように編まれた道を覗き込んだ。幹に沿って編まれた無数の蔦。それが、世界樹の幹を螺旋状に這うように伸びて繰り上げた道、遥か下層へと続いていた。
「お主の姉君たちの氷華螺旋樹は良くできておる。あれはこの世界樹をモデルにした技。数千年という時を生きたが、あれ程のものは未だかつて見たことがない」
数千年。そして先ほどの神、という発言。
彼女が神であるのはもう間違いはなさそうだった。後は……彼女が一体どの神なのか。
蔦の階段を進んで行く。
腰が引けながらも、神である少女の後を追って進んでいた。
下へ行くほど、空気は変わっていく。
風が重たくなり、優しく肌を撫でていた光は、熱と鋭さを持ちはじめる。
そして、耳の奥に……嗚咽のような音が混じり始めた。
「これ、泣き声……?」
「うむ。泣いておるのじゃ、あの子は。怒り、恨み、傷ついて。数千年ぶりに目覚めても、今なお泣いておる。……シグレリア」
蔦の階段は、ひたすらに長かった。
世界樹の幹をぐるぐると這うように編まれた、
らせん状の蔦。踏みしめるたび、わずかにきしむ音がした。
下に行くほど、空気が変わっていく。
肌にまとわりつく熱。焼け焦げた匂い。
最後の段を降りた瞬間、視界が開けた。
そこは、巨大な開けた深い森の中のような場所だった。
天井の代わりに、光る葉がびっしりと茂る枝。
空は見えない。でも、風が通る。
地面には苔が広がり、古い切り株が点在していた。
ただし、その風は――
「うっ……!」
熱風だった。
皮膚を焼くような、魔力を孕んだ風。
その風の向こう。
森の中央、巨大な切り株の上に、それはいた。
紅く、長大な胴体。
筋肉の束のように捻れた体をうねらせ、幹に巻きつくように絡まり、森そのものを軋ませる、一体の大蛇。
口を開けば、赤い魔力の奔流が咆哮として吐き出される。
鱗の一枚一枚が膨れ、波打ち、まるで怒りそのものが形を成したようだった。
「シグレリア……」
隣の少女がまたその名を口にする。
この大蛇がシグレリア? その名の意味するところとは。
目が合った。
“睨まれた”というより、“見つめられた”。
あの目――
人間の目だった。
だけど、そこに理性はなかった。
あるのは、ただひとつ。
怒り。
その中心に、どうしようもないほどの、孤独を感じた。
「シグレリア!! もうやめてくれ!!」
少女の叫ぶ声が響く。
それと同時に、既にここにいた、二人の声も聞こえる。
「ハチ!? なぜここに!」
声のほうを振り向くと、そこには――ジンと、学長がいた。
ジンは肩で息をしながら、剣を杖代わりに地面を抑え、学長は何重にも結界を張っては、崩されるのを繰り返していた。
二人とも、顔も服もボロボロだ。
血も汗も、すでに乾いて、汚れの一部になっていた。
立っているのも精一杯で、この場から動き出せない様子。
「来るな!!」
ジンが叫んだ。
二人はどう見たって限界だ。
「不運にもシグレリアの目覚めに立ち会ってしまった。流石に厳しいものがある。これ以上の犠牲は不要。ハチ、すぐに引き返すが良い」
学長まで俺に逃げるように告げる。
シグレリアの正体はなんとなくわかった。
あれは……精霊王。
以前、俺は人間世界にて精霊王を見たことがある。アーケンが連れていた、美しい毛並みをした大きな狼。てっきり、精霊王はあれだけかと思っていた。一体だけなのかと。
けれど、あの時感じたものと同じ感覚。
目の前の暴れまわる大蛇、シグレリアは間違いなく精霊王である。
その存在を理解すると同時に、足が震えてた。
一歩進むごとに、緊張で内臓の位置がズレる気がする。
風は熱くて、皮膚が焼ける。
目の前の大蛇は、俺の何十倍もデカい。咆哮だけで内臓が揺れる。
……普通に、無理じゃない? これ。
ジンも、学長も限界で、俺が来たって何ができるんだって感じだろうな。
それでも、俺が逃げたら、学長とジンはどうなる。どう考えたって、こんな小物より二人の命の方が重い。
「2人はもうボロボロだ。俺が逃げる時間を作る。だから、逃げて」
小物の良いところは、命も安いってところだ!
変刃を手に構えた。さすまたの形にして、大蛇の首元を狙うイメージをする。
とはいえ、相手は精霊王。しかも今のシグレリアは、暴走状態の大蛇。
体長数十メートル。
魔力は周囲を焼き、空間そのものがよじれているような錯覚を与えて来る。
まるで、怒りの塊がそのまま形になったような存在。
俺は権力と大きな存在がとても恐ろしい。小物だからな。
けれど、実は蛇に強い。
シグレリアが、うねるように地を這った。
「速いが、知っている……!」
本能的に地面を転がってかわしながら、俺の脳裏に、あの夏の地獄バイトがフラッシュバックする。
マムシだ……こいつ、マムシと同じ動きしてる……!
前世の貧乏大学生だったころ、「金になるぞ」と言われて参加したあの地元のマムシ捕獲バイト。
草むらに潜んだマムシを踏み抜いて、袋に詰め、役所に持っていくと3000円。
真夏の中、一人異次元のやる気を見せて、一日で10万円弱を稼ぎ出した俺は、役所で『スネークボーイ』との異名を取った。
シグレリアは怖い。目前に迫るリアルすぎる死の光景。
しかし、それ以上に俺の勿体ない精神が告げる。
……あれは一体いくらいになるんだろう? と。
「……やっべ。いくら分だこれ。下手したら1億バルはくだらない……!!」
俺の目には、いまや敵意ではなく、金色のオーラが見えていた。
やっばい……俺、今メチャクチャ金運が高まっている! 命と引き換えに、とんでもない金運が!
再度迫ってくるシグレリア。
変刃を構え、正面からその突進を止めようとする。
しかし、直線に迫ったとき、その無謀さに気づいた。
暴走列車を人が止めるようなものだ。
しかもスピードは新幹線位スピードが出ている。
また横に飛び退いてかわすが――
後からやって来た毒々しい熱風を思いっきり吸い込んでしまった。
喉が焼ける。
肺が潰れそうだ。
けど! こんなもの! あの真夏に比べたら!
張り切りすぎて、森に迷い、3時間も水を飲めなかった。
それでもマムシを捕まえ続けたあの夏を思い出せ!
左手で変刃を構える。鎌形態、全長180cm。突撃仕様。
ジンや学長が逃げられるまでの時間稼ぎ、それだけでいい。小物の仕事としては十分すぎるだろう。
俺は飛び込んだ。
蛇の体がうねる。速い――でも読める。こちらにだって身体強化はある。
過去にマムシ酒用の蛇を追い回してた経験が生きてる。唸る暴走列車。その攻撃を躱し続ける。
地面に体を擦りつけながら、敵の腹側をとる。
蛇は腹が弱点。ここはどの時代でも同じだ。
「――いけっ!」
地面を滑りながら、勢いよく変刃を突き上げた。
鱗と鱗の隙間に狙いを定めて――
ギャリィッ!!
刃がめり込んだ感触。確かに刺さった!
バリィン、と小さく砕ける音。
ほんの一枚、だけど――鱗が剥がれた!
俺のなかで勝利確定音が流れた。
だってこれ、絶対高く売れる。マジで金ピカだし。
ここまでは良かった。けれど、ここで小物の良くないところが出た。
はぎ取った鱗に手を伸ばし、取ろうとしてしまった。
その瞬間だった。
空気の流れが変わった。風がグッと押し寄せる。
シグレリアの急旋回。うねる蛇尾が一閃。風も追いつかないスピード。
シュッ。
右腕が――吹き飛んだ。
「が、あああああああああああああああああああっ!!」
世界がひっくり返る。
視界がグルングルン回って、地面に叩きつけられ、口から血を吐く。
……息が、苦しい。
腕が――ない。肩の付け根から、ぽっかり空白がある。
でも、終わらない。
次の瞬間、紫の瘴気のようなものが目にかかる。
「――っぐ、ぁあああ……っ!」
左目が焼ける。
熱い。痛い。視界が、黒に染まっていく。
「が、っ……あ……ああ……っ!」
俺は転がり、変刃の柄にすがる。
左手だけで武器を支え、必死で上体を起こす。
ボロボロだ。
でも、まだ動ける。
「へへっ……」
ニヤッと笑う。
右肩から流れ出る血で、地面が染まってる。
左目は見えない。
だけど、鱗はしっかりポケットに仕舞った! これ大事。
相手は精霊王。フィールドすらも敵に回った状態。流石に油断し過ぎた。
でも、もう欲しい物は手に入った。
この間に、学長とジンも逃げれたら良いんだけど、ふと足元がおぼつかなくなる。
神殺しガロムとの戦闘の疲労。カトレア姉さんが治療してくれたのもあるが、流石に血を流し過ぎた。体がズシリと重い。
けれど、役目は果たしたんだ。金目のものも手に入った。
「……ま、いーよな……ひとつ……勝ちだろ?」
鱗の感触を確かめながら、
俺は片膝で立っていた。
左手だけで支える変刃の柄は血に濡れ、地面に描いた自分の足跡は赤と黒に染まっている。
息を吸うたび、肺が潰れそうだ。
まだ……動ける……。
そう言い聞かせて、最後のあがきと立ち上がる。
さすまたを――ぐっと、構えた。
けれど。
その瞬間、空気が凍りついた。
シグレリアが俺に向けて牙を剥く。
頭部がこちらをとらえ、雷鳴のような魔力のうねりが、俺の全身を捉えてターゲットととする。これが精霊王……。力の底が一切見えないや……。
次で、終わる気がした。
毒々しい魔力が飛んでくる。
「ハチ!」
風が――爆ぜた。
シグレリアの魔力が当たる直前、俺の足元に戦闘の紋章の絵が展開された。
巨大な魔力の紋が、地面から浮かび上がり、まるで城の壁のように、俺とシグレリアの間に結界を構築する。
「ギリギリ間に合ったか」
その声、学長だった。
「ハチ……お主、なんでその状態で笑っていられる?」
え……?
俺は笑っていたらしい。
自分でも死ぬかと思っていた状況で、笑っていたなんて自分でも驚いている。
だって、精霊王の鱗が手に入ったから。
「くくっ、やっぱりお前どこかおかしいんじゃねーのか?」
今度は、背後から声がした。
振り向くと、そこに立っていたのはジンだった。
黒のコートを羽織り、顔には赤い返り血。
久々に見るその姿が。そして、背後にはあの赤黒い炎を纏う鬼までいた。
「なんで二人とも逃げていないんですか! こんな化け物相手に勝てるわけがない! ここは俺が盾になるから、今からでも!」
「……ハチよぉ」
学長は結界を張ったまま動かない。
血まみれのジンが頭をポリポリとかきながら、振り向いてこう言った。
「お前が死んじゃあ、この世界は面白くなくなっちまう。学長さんもそう思っているから、残っているんじゃないのか?」
刀を抜く。
ここまで随分と戦って、二人は限界が近いはずだ。
なのに、それでも俺の前に立とうとする。
「それにお前は俺が殺すって決めたしな。他の誰にもお前に手出しはさせない。なんでハチがこんなところにいるのかは知らないが、お前だけでも絶対に生きて返すから、そのつもりでいな」
助けに来たはずが、いつの間にか助けられる展開に。
俺はそれが納得いかなくて、叫んだ。
「馬鹿野郎! 自分の命を大事にしろ!」
それを言うと、学長もジンも笑い出してしまった。