93話 界境
百の願いの時代 。
人と精霊が共にあった頃、人と精霊は、今よりずっと近しく生きていた。
人々は精霊の息吹が満ちる『界境』を聖域とし、祈りと願いを捧げた。
精霊たちはそれに応え、風は恵みを運び、水は病を癒し、大地は実りをもたらした。
その媒介となったのが、『セレスティア鉱』と呼ばれる透き通った鉱石。
人はそこに願いを込め、精霊はその澄んだ魂のかけらに応じて力を与えた。
願いは数知れず。
けれど、どれも小さく、慎ましいものだった。
「旅立つ愛する者の無事を」
「寒い夜を越すための火を」
「病に臥す母に、一日だけ神秘的な景色を」
精霊は、それらを喜んで叶えた。
なぜなら、人の魂が澄んでいたからだ。
最も強くそれを体現していたのが――契約の精霊王シグレリア。
彼女は、人間を信じ、愛し、理解しようとした。
すべての精霊と精霊王、そして人との橋渡しを担い、その存在がある限り、界境も人の世界も栄え、人の願いは精霊に届いていた。
濁る願いの時代 。
欲望の侵食が押し寄せてくる。
人と精霊の繋がりはより濃く強くなった世界。だが、願いは変わった。
「飢えを癒す」から「国を支配する」へ。
「家族の無事」から「敵の破滅」へ。
澄んでいた祈りは、次第に欲望に染まっていった。
契約の精霊王シグレリアは、それでも祈りを受け取り続けた。
だが、信じるほどに毒されていく心に、彼女は蝕まれていった。
そしてついに、人は力そのものを求めるようになる。
契約ではなく、支配としての魔力を。
精霊戦争の時代。
世界が黒く染まり、断絶が始まる。
深まる欲に、精霊たちは拒絶した。精霊王が姿を見せなくなり、人は反発した。最も人を愛した精霊王シグレリアでさえも、もう人の声を聞くことが減った。
契約の名のもとに、精霊の力を得ていた貴族や王たちはそれを“裏切り”と呼び、ついに界境へと軍を送り込む。
これが後に語られる『精霊戦争』である。
精霊は界境にて応戦し、勝利した。
だが代償として、信頼は失われ、多くの契約が破綻した。
そして、界境が閉じられる。暗い時代の到来。
神エル=アルムの誕生の時代。
声を聴く者として、戦の終結と同時に、この世界に初めての『神』と呼ばれる存在が生まれた。閉ざされた界境。人と精霊の断絶。
その繋ぎ手としての神の誕生。
その名はエル=アルム。
後に、精霊からも人からも愛された存在、エル。
彼は人の姿を持ちながら、紋章を持たず、魔力の奔流そのもののような存在であり、ただ精霊の声だけを聴くために生まれた神。
エルは精霊王と深く通じ合い、中でも人を最も愛した精霊王シグレリア、彼女の唯一無二の友として、王の隣に在った。
「私はあなたの声を、世界の果てまで聴き届けましょう」
「あなたが人を信じるなら、私はあなたを信じます」
王は彼を神ではなく、同じ時代を生きる同志と呼んだ。
神と紋章の時代。
エルの存在のおかげで、人と精霊の繋がりがまた戻る。次第に神が増え、エルだけでなく他にも人と精霊を繋ぐ神が誕生する。
再び戻った繋がりの時代。かつての豊かな時代が戻る。契約の精霊王シグレリアは、人間とある契約を交わしていた。
それは界境最大の契約にして、最も美しい約束。
『人は精霊を信じ、精霊は人に寄り添う』
『共に生き、互いを救う。私たちは、離れずにいよう』
その契約は、『契約の紋章』という形で人に与えられた。
だが、時代が進むにつれ、人は祈りを忘れ、紋章を欲望の力へと変えた。
シグレリアは、それでも契約を守り続けた。
なぜなら彼女は、まだ人を信じていたから。
何度裏切られても、『本当の願いがある限り、私は与え続ける』と。
そんな中、ひとりの神が世界を見つめていた。
その名は――原初の神エル=アルム。
神でありながら人の形を持ち、精霊の声を誰よりも深く聴くことができる者。
そして、シグレリアの最も近くにいた友でもあった。
エルは知っていた。
このままでは、契約の精霊王は壊れる。
信じ続けたことが、彼女を滅ぼす。
「彼らは、もう貴女の声を聞いていない」
「精霊を共に生きる者ではなく、紋章を道具としか見ていないんだ、シグレリア」
「それでも……まだ、与えるのか?」
シグレリアは、静かに頷いた。
「信じるとは、愛そのもの。どうしようもなく人が好きなのです」
「私は、そういう契約を交わした」
悩み、苦しみ、それでもエルは決断する。
人と精霊を繋ぐ《《魔力線》》を断ち切ること。
それが、シグレリアを守る唯一の手段だと信じたから。
あるとき、エルは魔力を運ぶ、魔力線に手を伸ばした。それは原初の神である自分にしかできない、禁じられた技術だった。
エルは、人の体内にある、魔臓と紋章の間を通る魔力線を焼き切った。
この世界の人々すべての魔力線に同時に干渉し、精霊の力が人に届かぬよう、一方的な遮断を行った。
人間たちから間接的に魔力を奪い、精霊へと向かうすべての道を閉ざした。
人の魔臓は変わらず動いている。
紋章もそこにある。
だが、“繋がらない”。
契約の形は残っていても、もう何も届かない。
以後、精霊は人の声を感じ取ることができず、人もまた、精霊の祝福を失った。
「私が奪ったのは、力じゃない。繋がる権利だ」
それが、エルの選んだ断絶のかたちだった。
世界は静かになった。
そして、シグレリアの世界も、音を失った。他の精霊王たちもそれを良しとした。
裏切りと大罪。空白の時代。
夜明け。界境に赤い風が吹く。
シグレリアは、契約者たちの祈りが突然、聞こえなくなったことに気づいた。
まるで世界が自分を忘れたようだった。
心に触れるはずの声が、どこにもない。
そして、エルが現れ、静かに真実を告げた。
「魔力線を、すべて遮断した。君を壊さないために」
一瞬、理解が追いつかなかった。
だが、シグレリアの目は、次第に絶望へと染まっていく。
「それは……世界から、契約を奪うということ」
「それは……私が、信じたすべてを、否定するということ……!!」
エルの行為は、確かに善意だった。
だが、その善意こそが、彼女にとっては最大の裏切りだった。自分を最も理解する友の行動故に、より深く傷ついた。
「あなたは、私の願いを知っていたはず……」
「どうして、友であるあなたが私の願いを聞いてくれなかったの……」
契約の精霊王は、その場で力を暴走させた。
契約が断たれ、願いが捨てられた世界の中心で、彼女だけが約束にしがみついたまま、叫び、泣き、壊れていった。
「人を愛するということが、それほどまでにも罪なことなのか……」
界境内部を歪ませる程の暴走。世界各地にあった界境への入り口もこの時に多くが壊れた。人と精霊の決定的な断絶。
怒りと悲しみによる暴走の果て、それが、『大罪の精霊王シグレリア』の誕生だった。
この日、契約の名は世界から消え、代わりに一つの紋章が生まれた――大罪の紋章。
その印は、契約を壊された者の叫び。
信じたものに裏切られた者の、深い憎しみ。
そして、今もどこかで消えきれぬ再契約への祈り。
「もう誰とも契約など結ばない。だが……同じ痛みを持つ者には、力を貸してやろう。それが私の、大罪だ」
憎しみの力は憎しみしか生まないことを知らず、最も人を愛した精霊は死んだ。
人と精霊に最も愛された神もまた、無念のままに死を迎える。
そして、人と精霊と神が、正しい繋がりを失った日となった。
――。
「界境……」
この先に、学長とジンが。
尖塔地下、天壊旅団と学園一の天才が警備を任された地下行きついた先。
地下最奥の静寂は、音ではなく気配によって破られていた。
行き止まりと思われた岩の壁の中央、そこには確かに、裂け目があった。
空間そのものが、紙を破ったようにわずかにズレ、歪んでいる。
それは左右に開く扉ではなく、奥へと吸い込まれていくような断層だった
淡い蒼白の光が、その裂け目の縁を微かに縁取っている。
不思議なことに、裂け目の周囲には崩れかけた石のアーチが立っていた。
それはもはや門として機能してはいない。
けれど、誰かがかつて「ここに通路がある」と示そうとした痕跡のように、静かに佇んでいる。
そしてアーチの石には、無数の紋章にも似た小さな印が刻まれている。
それらは見る角度によって姿を変え、幾千の契約が記録されたかのように、個々に意味を持って静かに光っていた。
門の奥からは、風が吹く。
物理的な風ではない。
肌も髪も揺らさぬのに、確かに触れられたと感じる優しき意志を持った風。
そこは、世界の“向こう側”。
人が忘れ、精霊が眠り、神すら足を踏み入れない――界境への入り口だった。
……うわ、なにこれ……。
壁だと思ってたその場所に、なんか、裂けてる……空間が……。
目が離せないのに、ちゃんと見えない。
奥の方で光ってるのに、暗い。
近づくほど、遠くなる。
意味がわかんないのに、でも……。
とても……綺麗だった。
道を通してくれた姉さんたちが教えてくれた。
地下の先にあるのは『界境』。
精霊の世界へと旅立つ入り口。俺が持つ変刃、このアーティファクトの原料であるセレスティア鉱が摂れる場所だと聞いたのを覚えている。
かつて怠惰の神ウルスが教えてくれたことだ。
信じられなかった。
自分がここに立ってることも。
学園地下に、この場所がまだ残ってたことも。
姉さんたちが言っていた資格はとは、このことだった。
精霊王に資格を与えられた者しか、界境には入れない。精霊と人は、姿も声を聞くことも出来ず、分かたれた存在であるはず。
姉さんたちは少し離れた場所から見ている。
俺は知らなかったのだが、姉さんたちは界境に入る資格を与えられていた。
二人はクロマグロ中トロ級の魔力を持ち、恐ろしく格好良いスキルの持ち主でありながら、なんと精霊にも愛されていたのである!
天は人に二物を与えず、ただしたくさん与えることはあるらしい!
その歪みが小物へとしわ寄せが来ているとも知らずに!
二人はここへとやってこない。一時的に、精霊王が許可していないからだという。資格があるからこそ、ルールには厳格。
入れるなら入ってみなさい、と試すように姉さん達には言われた。
(無理だろうけど)という感想が見て取れたけど……。小物なので、そう思われるのも仕方がない。
界境へと近づくと、背中を、誰かに押されたような気がした。
振り返っても誰もいない。姉さんたちは姿こそ見えるが、遠くにいる。
足元に魔力の黒い粒子が集まり、靴先にそっと触れる。
まるで「来い」と誘うように。
少し怖くはある。けれど、行かなくてはならない。猫の手どころか、小物の手を必要とされているのならば、俺はどこへだって行ってやる。
「……お茶とお茶菓子、用意しててよ」
精霊たちへの要求を口にする。
一歩、足を踏み出した。
空間が波打つ。
裂け目が人を受け入れるように、淡く光り、柔らかく引き寄せる。
重力も、距離も、境界も消えて、次の瞬間、一人の男の姿は空気の中に溶けるようにして、静かに消えた。
まるで最初からそこに存在していなかったかのように。
ハチの姿が、裂け目の向こうにふわりと消えた瞬間――カトレアとランの時間が止まった。
「……えっ……?」
静かな地下空間に、ぽつりとカトレアの声が落ちる。
「消えハチ」
隣でランも目を見開いたまま、固まっていた。
「……嘘でしょ? ちょっと、今の見た……? ラン、今の」
「見た。消えハチ。驚きハチ。やっぱりハチは凄い」
目を丸くしたまま、動けない。まばたきもできない。呼吸も忘れているカトレア。
ランの声も、やけに小さく、震えている。
ふたりともハチのことは、信頼している。
不器用だけど、まっすぐで、時々びっくりするくらい強い、小さくて可愛い大事な弟。
でも、でも――
「あの子、精霊の気配も分かんないのよ……? わたしたちが感じるもの、あの子、なにも分かんないのに……!」
「鈍感ハチ。精霊見えないのに、なぜか入れたハチ。やっぱりハチは凄い」
驚きっぱなしのカトレア。妙に納得するラン。
「なに? 知らないうちに弟が精霊たちに好かれてたの? 可愛いから? それとも、ご飯の食べっぷりで?」
「だとしたら……精霊、見る目ある……!」
メインダイニングの料理長マルグリットの厳しさは二人も知っているところ。先日そこで問題を起こした弟と、ついでに伝説も残したことも知っていた。
冗談を言いながらも、二人の顔には冷や汗が浮かぶ。
驚きと、呆然と、ほんの少しの誇らしさに包まれて立ち尽くす。
「あっ、忘れ物、忘れ物!」
界境から顔と腕だけを伸ばしてきて、忘れていった変刃を掴むハチ。
「おっと。では姉さん達! 俺行ってきます! ジンと学長を保護したらすぐに戻りますから!」
静寂と感動の余韻が吹き飛ぶ中、残された姉妹はただ、ぽかんと口を開けていた。
「……界境ってあんなに自由に出入りできたっけ?」
「……ハチ、不思議な子」
流石に姉妹も常識が通じない光景に、言葉を失った。





