75話 入寮
グランドホールの重厚な扉を出てすぐ西には、学園の心臓部とも呼ばれる中央中庭が広がっている。植物の知識を有した生徒によって常に整えられたその庭は、空と樹々と魔力が調和した静かな空間だ。庭の中心に据えられた噴水には、かつてこの学園を創設したアルカンディアジミス・レギミンティアンジャイ初代学長像が立っている。噴水の傍には『いたずら禁止』と書かれた看板が立てられているため、かつて誰かがやったことが伺いしれる。
中庭の更に西端には精霊の温室が、南端にはメインダイニング(飯!)が構えている。広く明るい食堂は、朝から夜まで学生たちの活気に包まれている。量と種類を求めるならここで食べるのが良い。
メインダイニングを抜けると、石畳は談話の広間(共用部分)へと続いていく。そこは小規模な演奏会や読書会、または恋の告白まで起きる、学園で最も多様な顔を持つ場所だ。
この広間の南にある分岐点──ここが、寮への分かれ道だ。
東南方向へ向かう坂道は、男寮+サブダイニングへと続く。道の左右には夜光草が植えられ、日が沈む頃には淡く青い光を灯す。男寮の建物は頑丈な石造りで、各階層に広々とした共用空間と個室が用意されている。隣接するサブダイニングは、特に訓練後の食事や、夜の軽食に重宝されている。ただし量と種類は少ないため気を付けなはれ!
南西に折れる小道は、女寮+サブダイニングへと導く。こちらの道は並木が多く、昼間は木漏れ日が美しく、夜は精霊が遊ぶと噂される。女寮はやや高所にあり、バルコニーからは中庭が一望できる造り。サブダイニングでは、花茶や菓子の調理が行われることもあり、しばしば男寮の生徒が“偵察”に訪れる姿も見られる。ふふっ、偵察です。あくまでライバルの偵察。
俺の貰った寮の部屋は1階の444号室。4畳半の小さな部屋で、風呂トイレ付き。
懐かしの四畳半!
なんだかんだで実家の屋敷も自室も広かったから、この狭さがなんとも心地よい。
この寮の受け取り手続きをしたとき、少し注意をされたことがある。
寮には6畳の部屋もあり、そちらは広いため特典なし。4畳半の生徒は夜食をサブダイニングで無料で食べられる特典が付いていた。
朝、昼、夕職まで保証してくれるこの学園だが、夜食や、規定時間以外のダイニング利用はお金がかかってしまう。
4畳半という狭い部屋に目を瞑れば、俺は4年間毎日夜食にありつけてしまう。こんなの迷うまでもなかった。
注意点は、俺が受け取った444号室である。
どうやら、いわくつき物件とのこと。
昔、この部屋で良くないことが起き、それ以来恐ろしい現象が絶えないらしい。でも、今年は定員ぴったりの合格者が出てしまい、誰かがこの部屋を使わないと困るため向こうも人を探していた。
なんと444号室を利用するだけで、毎月売店で使える3万バル分の商品券を貰えるとのこと。こんなでかい特典が貰えるにも関わらず、みんながこの部屋を避けていた。
わっつ!?
訳が分からないよ。
この部屋が残っていた奇跡に、丁寧に天へと感謝を捧げ、喜んで受け取った。
そして、いざ入寮。
室内は清潔そのもの。換気も良くできているみたいで、外の空気とそん色ない。当然匂いもないし、熱気が籠っていたりもしない。風呂とトイレも清潔だ。毎日掃除してこの清潔さを維持したいと思う。
そして4畳半の部屋。ベッドと本棚だけがあるシンプルな室内。その床に赤いべっとりとした質感で『今すぐ出ていけ。呪い殺す』と書かれているだけ。
ああっ、なんて心地良いんだ。思いっきり深呼吸をしておいた。
最高の部屋を貰って、夜食と毎月3万バルの商品券付き。神よ、感謝を捧げたいです。
洗面所で雑巾を絞り、これからお世話になる部屋を一通り掃除し始める。元々綺麗だが、こういうのは気持ちの問題だ。お世話になる部屋への恩返し。
天上、壁と拭いていく。本棚やベッドの脚も拭き、最後に床を吹く。赤い文字もすぐに消えた。やっぱりな。べっとりしているけど、ペンキ汚れじゃない気がしていたんだよ。
雑巾を濯ぐため洗面所に戻ろうとしていたら、その隣にある風呂場のシャワーが突如勝手に出始めた。そして、なぞの「うぅ……あつい……しぬ……」とか「うまくできない……」みたいな声が聞こえる。……隣人さんの声かな?
水が勿体ないのでシャワーでついでに雑巾を綺麗にした。
そのタイミングで、室内の、ベッドがある辺りからドンドンドンドン! とまるで太鼓でも叩くかのような音がする。
なるほど。この学園は大物が多いからね。それすなわち、寄生する小物も多いってことだ。誰だ? 本当に太鼓を持って来たのは。音が俺の部屋まで響いて来てしまっているぞ。
太鼓持ちってのはな、心の所作なんだよ。物に頼っているようじゃ小物失格だ。今度、そいつらに小物道を叩き込んでやらにゃならんな。
窓サッシも綺麗にしておきたかったので、今度はそこも拭いていく。
窓はFIXタイプではなく、ちゃんと開くタイプだ。これなら清掃もしやすいし、空気の入れ替えも簡単でよろしい。外には虫などもおらず、整った緑の芝が見える。とても環境が良い。ちゃんと日も差し込んでくる。
パリン!
突如、部屋の天井についていた照明が割れた。
おっと。
部屋は綺麗だったが、どうやら備品はそうでもなかったな?
「ラッキー」
初日だからね。壊れても絶対に俺のせいにはならない気がする。少し古くなっていたみたいで、寿命ですかね? って言えば多分新品を貰えるはずだ。これはほんまラッキー。
一通り清掃を終えて、自分の荷物を部屋に入れていく。ほとんどスペースなんてないからな。上手に収納しないと。
ベッドの上で物を整理中、ふと前が気になったので顔を上げると、壁に立てかけた本棚がこちら目掛けて倒れてくる途中だった。俺は無限身体を常に使っているため、片手で難なく受け止める。
あっぶね。ありゃりゃ。ちゃんと固定されていなかったか。
しかし、やはり俺は運が良い。自分が部屋にいるときに固定されていなかったことを知れただけでなく……!
なんと、本棚の下から10000バル札が出てきたのだ。
「うっひょー!! なんて運が良いんだ! この部屋は幸運の女神でも住んでいるのか?」
先程からツキまくっている。しかも、このツキが実質4年も続くんだぞ。なんて最高の滑り出しだよ。王立魔法学園での4年間。俺の未来は明るい!
荷物整理を終えて、少し休憩を取るためベッドに入った。なんだか妙に枕が冷たい。……最高かよ。
良い枕が使われているんだろうな。たくさん勉強して温まった脳みそを、この枕で冷やせってか? 学園側の配慮、最高かよ。
軽く目を瞑ると、どこから鼻歌が聞こえてくる。少し音程を外しているが、悪くない。音楽って好きなんだよな。
今日は学園の授業もないし、昼飯まで時間もある。このまま一眠りしてしまおう。鼻歌がまるで子守唄のようだった。最高の部屋をありがとう!
「ああ、昼飯が楽しみだ。全部がありがたいなぁ」
気持ちが良いからだろう、目を閉じるとそのまま気持ちよく昼寝へと誘われた。
短い間だったけれど、深く眠れた気がする。目を覚ますと天井に『頼む。出て行ってくれ。昼飯時だ。ほんま、頼むから』と赤い文字で書かれている。
……え?
この部屋。通知機能までついている?
すっげー。王立魔法学園、舐めていたよ。こんな便利な機能を生徒の部屋につけてくれているの?
「この部屋、やっぱり最高かよ!」
本当に最高の部屋を貰ってしまった。
「この赤い文字、もっと出てくれないかな?」
それは流石に欲張りかな?
満足した気分で部屋を出て、いざ向かうはメインダイニング。サブダイニングの方が近くて気軽に立ち寄れるが、種類と量が少ないと聞いたから興味なし! あっちは夜食のときだけ使わせて貰うとする。
先程来た道を戻り、到着するは腹の親友メインダイニングちゃん。
まるで大聖堂のような高い天井と、魔石効果で常に磨かれた床。並ぶ長テーブルは百を越え、常時300人以上の生徒で賑わっている。
天井には『魔灯果』と呼ばれる光る果実が浮かび、時間帯によって色を変える。朝はオレンジ、昼は真っ白、夜はほんのり紫がかった灯り。
以前学長から聞いていた通りの、ビュッフェスタイル。料理台が中央にて十字型に広がっており、主菜・副菜・スープ・デザートで区分。トレーを持って、自分が食べる分を取り分けるのも、全く同じルールである。
心が高鳴った。
俺って、今幸せの絶頂にいるのかもしれない。
生徒たちの食の好みや、体質、生まれに合わせて沢山の種類が用意されているのだろう。
見たことない料理すらあった。
一通り全部見てから取るのを決めようとワクワクウキウキ動き回っていると、俺の目に飛び込んでくる《《あの料理》》。
そこには大皿に盛られた2,30人前くらいの大量のチャーハン。
……そう、チャーハン!
俺はこの世界に来てから、米というものを食べたことがなかった。しかし、目の前には間違いなくあの粒々を上手に炒めて作られたパラパラチャーハンが!
感動に涙が出そうだった。多様な生徒に合わせた料理とは聞いていたが、ここまで多様性に富んでいるとは!
感動と故郷に戻って来たかのような安心感。胸がいっぱいで満たされて、思わずその行動に出てしまった。
トレーに取り分けるのではなく、大皿ごと手に持つ。
ごめん。これ、全部食べます!
「ちょっと待ちな!」
大きな声に、ダイニングのざわめきが静まり返る。
現れたのは、エプロン姿の巨体を揺らす料理人。白髪を後ろでひとつに束ね、皺だらけの額から鋭い眼差しを覗かせる彼女は、生徒たちから「鋼の鍋鬼マルグリット料理長だ!」とたった今呼ばれていた。
料理長?
あっ、もしかして俺がマナーの悪いことをしたから、説教に!?
「あんた、手に取ったからには残すんじゃ、ないよォ……?」
顔をグイッと近づけて来て、睨みつけてくる。蛇に睨まれたカエルくらい動けない。滅茶苦茶迫力のある人だ。
傍にあったボードを取ってきて、それも見せてくる。
『メインダイニング マルグリット料理長鋼の掟
1 食事は一粒も残すべからず
2 味への文句は命知らずの証
3 「いただきます」と「ごちそうさま」は絶対声に出すこと』
「おいおい、あの一年やったな。くくっ」
「ありゃ完全に1年間出禁だ。まあ毎年いるんだよな」
「もはや名物の光景だな、こりゃ」
「マルグリット料理長による公開処刑か? 折角だし見ていこう……って今年はあの量かよ」
そんな上級生たちの声が聞こえてきた。ビュッフェスタイルに興奮して、毎年取りすぎてしまう生徒がいるらしい。でも、興奮しちゃうよなぁビュッフェスタイルって。食べ放題ってのが、なんともお得でついついはしゃいじゃう。
ビュッフェ形式ながら、残した者・盛りすぎた者には厳罰があるって訳か。当然のルールだな。むしろ秩序を保つルールに敬意を表したい。
「ビュッフェは戦場。選ばれし者だけが食べ切れる量を取る。それがあたしゃが信条に掲げていることだよォ」
上級生たちが俺の前にテーブルと椅子を運んできた。
腕を組んで堂々と正面から監視するマルグリット料理長。
野次馬たちが俺を取り囲んで、本当に公開処刑みたいな体裁になってきていた。
「それ、全部食べ切りなァ。じゃないとあんたは1年間メインダイニングの利用禁止だよ。名を名乗りな。手続きするように必要だィ」
「……ハチ・ワレンジャール。なんだか大きな騒ぎになって来たけれど、要はこれを食べれば良いんだよね?」
「そのチャーハンは30人前。先に何名かが取って行ったんだろうね。少し減って、それでも残り26人前ってところかい? あんた、大口叩くのは構わないけどね、あたしゃの前であんまり生意気――」
生意気だと?
おいおい。勘弁してくれ。
「俺は腹が減っているんだ。あんたは説教のために雇われたお坊さんかい? それとも腹の減った学生に料理を届ける料理人かい?」
食い気味に割って入った。
俺は、チャーハンが、食べたくて仕方がないんだ!!
「おっ。あの1年言うねー。マルグリット料理長を怒らせたらただじゃすまないぞ?」
「いや、いいぞいいぞ! もっと言え!」
「出禁! 出禁!」
野次馬たちまで加熱してくる。
食べ切れるかどうかの賭けまで始まったようだ。人間って賭け事好きだよねぇ。俺も好き。
「ハチ、あんた言ったからには覚悟しなよォ。あたしゃの目はごまかせないよ。この目が黒いうちは、一粒だって残すことは許されない」
「良いから、そろそろお代わりを作って来てくれ」
「へっ。ハチ! あんたがそれを食べ切ったらいくらでも作ってあげるわァ。ただし、あたしゃ口先だけの男が一番、だっい嫌いなのさ! 訂正するなら今のうちだよ」
もう会話していられるのはそこまでだった。
俺は! 腹が! 減っている!
メインダイニングにあった最も大きなスプーンを取ってきて、両手を合わせる。
「食材よありがとう。料理人たちよありがとう。そして、こうして食べ物にありつける天運よありがとう。……いただきます!!」
スプーン一杯、山盛りに掬って口に入れる。
……うわっ。うんめー。
ちょっと笑ってしまう程に美味しかった。口に食べ物を含みながら、くつくつと微笑みが止まらない。
味付けも普通にチャーハンだった。火の通りがいいのか、それとも調味料か? もしくは素材かもしれない。その全部の可能性もあるな。ただただ美味しい。
少しマナーは悪いが、ガツガツとかき込んで盛大に食べる。
うんまっ、うんまっ、これうんまっ。
先程まで騒がしかったメインダイニングが徐々に静まる。皆がこちらに意識を向けているのはなんとなくわかったけど、そんなのには構っていられない。俺にはチャーハンちゃんと向き合う時間の方が大事だからだ。
「うっぷ……!」
静寂に満ちた時間が経過した。少し空気を吐き出す。急いで食べすぎちゃったな。
空になった大皿にスプーンを置くと、カランと響く音がした。米のクッションは一切ない。
辺りを見ると、料理長だけでなく、皆が大きく口を開けて固まってしまっていた。
「ふぅーっ……うまかったぁ……。ごちそうさまでした、はまだ言わないよ。はやく、お代わり持って来てよ」
椅子に寄りかかり、満腹の恍惚を浮かべる。
一瞬間を置いて、うおおおおおおおおおおおお!!
とメインダイニングで大歓声が起きた。
上級生たちによるお祭り騒ぎ。
料理長はまだ固まったままで、啞然とした様子で目を見開いている。
「……ちょいと待ちな、お前……今の全部、一人で食ったんかい?」
「見てたでしょ? めっちゃうまかったッス。あのぉ、パエリアとかってあります? 同じ量だけ欲しいんですけど……」
……沈黙。
流石に欲張りすぎたか?
「……なっははははは!!! みんな見たかェ!? 残さず全部きれいに平らげちまったよォ!!」
ダイニングに響く料理長の爆笑。腹を抱えて笑っていた。
「何年ぶりだい、皿を全部空にして、足りなかったなんてガキはよぉ! そら、もう一杯くれてやるとも! 厨房ィ! パエリアもう一発いったれェ!!」
あいよー!! と男たちの野太い声が聞こえる。厨房は戦場だと聞いたことがあるが、本当に戦場で聞こえて来てもおかしくない声質だった。
「……気に入ったよ、坊主。お前みたいなの、嫌いじゃない。むしろ大好物だよ!」
少し待つと、テーブルの上に鍋敷きが置かれて、調理鍋がゴンとテーブルに直に置かれた。俺の前に、まるごとのパエリア料理が届けられる。
周囲の生徒は誰もがその量にポカンとしていた。
「おかわりって……いい文化ですねぇ……!」
俺、この学園好きです!
「食材よありがとう。調理人たちよありがとう。そしてこうして食べ物にありつける天運よありがとう。おかわりありがとう! ……いただきます!」
熱々のパエリアには少し苦戦したが、それでも余裕で食べ切った。
爆笑する料理長と、世にも珍しいものを見て興奮する上級生たちの前で、今日の昼飯を終える。
最後に「ごちそうさまでした。美味しかったです」の声がメインダイニングに小さく響いた。





