72話 男男男
エンヴィリオと戦っていたクラウスが倒れた。
本来であれば、俺が真っ先に駆け付けなくてはならないのだが、今はどうにも太鼓持ちをやる気にはなれなかった。
まるで人生の目的を一つ奪われたかの様な感覚。
ずっとノエルのことは大事にしてきた。でも、今更に彼女の本当の大きさに気づかされる。
思っていたよりも、彼女はずっとずっと大きな存在だったのだ。
……これから、どうしたらいい? おれはどう生きたらいい?
固まっている俺の視界に、エンヴィリオが迫ってくる。
会場の生徒たちは避難を始め、唯一戦っていたクラウスは意識を失っている。
俺に近づいてくるのも無理はなかった。
このまま、あのぬめぬめとしたドラゴンに飲み込まれてしまおうか。それがいい。無抵抗にその場に座っていると、エンヴィリオが目の前で止まった。
粘液をたっぷりと含んだ舌で俺の顔を嘗め回す。
味見かと思ったが、そうではない。これはまるで、主人に懐くペットのようだった。
先ほど、ダンスパーティー会場で起きていた爆発。あれはこの生物がスキルを使用したものだ。
人間以外でスキルを使用できる生物なんて、魔獣くらいかと思っていた。しかし、ここにいる。
訳がわからない。そして、なぜ俺に懐く。
全てを放っておいて欲しかったが、エンヴィリオが二階に目をやった。俺がずっとロワとノエルの去った方を気にしていたからだろうか?
グルゥゥゥと喉を鳴らして、機嫌を窺うように傍にいる。
「……何が言いたいんだ? お前のせいで、会場はパニックになってしまったぞ」
我ながら、こんな化け物に語りかけるとは、随分と追い詰められたらしい。
それでも、俺のことを励まそうとしているのか、腹へと顔を近づけてくる。
クラウスのことはボコボコにしたくせに、なんで俺には……。
今日はなんのお菓子もくすねちゃいないぞ。
懐に何もないのが分かったのだろう。
エンヴィリオは最後に俺を振りかえって、そのまま2階へと続く柱をスルスルと這って上がる。
それを見送って、ふと気づいた。
あちらにはノエルがいるではないかと。
すぐに駆けだそうとして、脚が止まる。
……俺に行く権利はあるのだろうか。
そう思ってしまった。
ノエルは、どこか様子がおかしかった。
俺がパニックになりすぎたのかな。体格まで大きく見えた。よく食べる俺の隣にいて、ノエルまで大きくなったのか?
足がすくむ。けれど……!
「考えるまでもないか」
悲しいし、気分も重い。
けれど、ノエルがどんな選択をしたって、俺はずっとノエルの味方でいたかった。
今近くに行ったら嫌われるかな? ノエルは、ロワ王子を選んだ。
まあいい。別に嫌われても、元々何も持っていない小物だ。
ノエルを守れるなら、こんな小さなプライドなんていらない。嫌われても、俺は彼女を嫌いにはならない。
一瞬迷ったのを後悔する程に、俺は全力で走り出した。
星門を潜り、中央の階段を上る。左右に分かれた翼のような階段を左に曲がる。エンヴィリオがこちらへ向かったからだ。
一瞬階段に躓いて脛を打ったのも気にせず、全力で走る!
客たちが逃げてくれたおかげで道は空いている。身体強化も使って、最速でエンヴィリオが入っていった客間へと押し入る。
薄暗い客間。30畳くらいの室内にて、3人と1体が集う。
そこでは、すすり泣く声がした。
ノエルが、ノエルが泣いていた。
両手で顔を覆い、涙を流している。
それを見た時、体を覆う魔力が増えたように感じた。一層も二層も分厚くなったような感覚。
言葉では言い表せない激情がこの身を襲う。
自分が小物で、目の前にいる王子が超大物という立場を忘れてしまいそうになるほど、ロワという男を無茶苦茶にしてやりたかった。
けれど、その前にやることがある。
今はどうでも良い男より、大切な女性にまずは声をかけてやりたかった。
俺の大切な人へ、傷ついた君に、今声をかけなければならない。
「……ノエル、泣かないで。君がどこに行こうが構わない。でも、ずっと笑顔でいて欲しい。君には、笑顔が相応しいから」
そうだ。ノエル、君と初めて出会ったとき、君はそうやって泣いていた。けれど、あれからもう7年も一緒にいる。初めて会った時に泣いた姿を見て以来、君はずっと笑ってくれていた。
俺は出来れば、死ぬまで君には笑っていて欲しかった。なんでこんなことになっちゃったんだろう。
俺が不甲斐ない男だったからなのか?
いいや、答えなんてどうでもいい。
今は、ただ、ただただ、ノエルに笑って欲しい。
「……相応しくない」
なぜか否定するノエル。
その声が、どこか野太い。
2週間くらいインフルエンザでうなされたのかって感じで、喉がやられている。
いや、え? ノエル?
おばあさんを食べた狼くらい、男の声っぽくなってるけど。
エンヴィリオがノエルに近づいていき、その体をノエルに巻き付ける。
涙は止まらない。
すすり泣くってより、あれはむせび泣いているようだった。
「ファーストキスが……。ファーストキスが……!」
そういえば、あれはそうだったかもしれない。
少なくとも、俺はまだキスをしたことがない。
昔、ノエルからほっぺにチュウをして貰ったことがある。今でもよく覚えている。
けれど、初めての唇はロワに奪われてしまった。それがショックだったのか? それともここに来るまでにロワに何か酷いことをされたのか?
事情はわからないが、俺はロワを睨みつけた。
顎を上げて、笑うロワ。
「どうだ? 今、どんな気持ちだ? ハチ・ワレンジャール」
「……お前とは話したくない」
「さぞ気分が悪いだろう。内臓がぐちゃぐちゃになるほど、はらわた煮えくりかえっているんじゃないのか?」
実際その通りだ。
けれど、認めたくはない。
一触即発。
後先も考えず、この男をめちゃくちゃにしてやろうと思ったその時、部屋の両開きの扉がノックされた。
背後より強力な魔力の気配。
「おい、警備担当のロガン様来てやったと思ったら、なんだこの事体は。狭い部屋に化け物一匹と、男が3人」
男が3人?
俺はこのロガンという、男を今度は睨みつけた。
灰銀の髪を後ろで一つに束ねた中年の男。
無精髭が頬から顎にかけて濃く、目は琥珀色で鋭い光を湛えている。
日に焼けた肌としなやかな体つきで、無駄のない筋肉が服の上からでも分かる。
黒いロングコートに高めの襟、古びた軍靴を履き、常に薄く笑っているような口元に煙草を加えていた。
「もう一度言ってみろ! この部屋に男が三人だと!?」
俺とロワと、それにノエルが男だと!?
俺への無礼は許せても、ノエルへの無礼は絶対に許さない!
「ああ、俺は鼻が利くからな。なんとなくわかる」
「今すぐ訂正しろ。じゃなきゃ、お前をぶっ飛ばす!」
「おいおい。化け物騒動で呼ばれたんだが、なんでお前とやらなくちゃならない。それに嘘はついちゃいないが……」
俺のストレートな怒りが身に染みたのだろう。
ロガン、おそらく王立魔法学園の教師が煙草を足元に捨てた。
ブーツで踏みつけて火を消す。
「なんか……言っても全然聞いちゃくれないし、やるしかなさそうだな」
「ノエルに謝罪しろ。それで手を打ってやる」
「俺はなにも間違ったことは言っちゃいない。警備が遅れたことで文句を言われるのならまだしも、他のことで攻められる覚えはないね」
コートを脱ぎ捨てて、シャツ姿になる。
手にグローブを嵌めて、拳を構えた。
「わりーが、学長に金を借りてるもんでな。警備の仕事をちゃんとこなさなきゃならん。最後の頼みだ、そこどいてくれ」
「断る」
愛する女を男と呼ばれて、黙って引き下がれるか。
――。
唐突に訪れた完全なる勝利。
ノエルとロワ王子のキスを見た時、私は全身に電気が走った。
圧倒的な勝利。もはや疑いようもないその光景。
喜んだのは束の間。何故か襲ってくる虚無感。
人生最大のライバルになると思っていた女の自滅。それも訳の分からないタイミングで。
少し虚ろな目をしており、気の抜けた感じがした。そしてどこか体格も大きく見えた気がする。……流石に、それは勘違いだろう。
とにかく、勝ったのだ。なのに、なぜ私は喜んでいない?
ずっと待ち望んでいたはずだ。
この勝利を。
どんな手を使っても、ハチ様の隣を奪うと決めたはず。
なのに、なぜ心が虚無感で満たされているのでしょう。
「もしかして」
私はいつのまにか、ノエル・ローズマルという女のことを好敵手として認め、彼女と戦えることに喜びを見出していたの?
こうして相まみえることこそ初めてだが、その存在はずっと知っていた。ずっとずっと、敵として認め、ようやく会えた時は心より喜んだ。
ふざけないで、ノエル・ローズマル。あなたはここで簡単に散って良い人ではない。あなたはまだ、私と戦っていない!
「……ギヨム王子、私は2階へと参ります」
傍で同じ光景を見ていたギヨム王子。
彼に私のこれからの進路を伝えた。
ノエルが向かい、ハチ様も向かった先。
見届けなければならない、この先の光景を。
「その先には恐ろしいものが、待っているかもしれないよ」
エンヴィリオのことではないだろう。
きっとノエルに対するハチ様の気持ちが露になった姿。
ギヨム王子は、そのことを心配して下さっている。
……どこまでもお優しい方。もしも出会うのが先であれば……。いいえ、そんなことは考えたくない。ハチ様にもギヨム王子にも失礼だ。
「行くというのなら止めない。僕はここより、ずっと君の帰りを待つ。……ハチは凄いやつだ。生まれの身分が逆ならば喜んで忠誠を誓いたいほどに。けれど、君を巡る戦いからは、一歩も引きたくはない。相手があのハチであろうと」
ギヨム王子は私の気持ちを知りながら、それでも傍において下さっている。
彼の気持ちを私も知りながら、利用している。
私とギヨム王子は共に愛する人から思われない存在。似た者同士なのかもしれません。
謝罪は必要ありませんよね、ギヨム王子。私の底知れぬ野心は知ってのことでしょう?
「転ぶのが怖いなら、初めから立ち上がりはしませんでした」
そう。絶対にハチ様の隣に立つと決めて、泣くほど苦しいリハビリを始めたあの日より、転ぶことなど恐れたことは無い。
「この目で、ノエル・ローズマル様とハチ・ワレンジャール様の顛末を見て参ります」
「ああ、そうすると良い。君の気が済むまで」
行って参ります。この脚で辿り、この目で全てを見て、丸ごと飲み込んでみせましょう。
たとえ、どれほど予想外な未来が広がっていようと。
――。
僕は悪い男だ。ロワ兄さんの力を知りながら、それをミリアに知らせなかった。
ロワ兄さんはスキルタイプ神聖。その力は強烈で、他者の心を支配する。一時的に強い拘束力を持ち、長期間使用すれば相手の心を蝕んでしまう程の力。
「ロワと関わるな」昔、リュミエール兄様から聞かされた言葉。今にして改めて思う。あの方の力は本当に恐ろしく、底知れない闇の力だと。
先程見たノエルの目。あれは完全に兄様に支配されている目だった。会場隅から姿を現したノエル。彼女がロワ兄さんに近づいていき、話を聞いていたわずか1分ばかりの出来事。……少し体格が大きく見えたのは勘違いだろう。
彼女の目から生気が失われた。
支配完了。
後はロワ兄さんの思うがまま。なぜハチに見せびらかすように、あんなキスをしたのかはわからない。
けれど、強烈なダメージを植え付けたはずだ。ハチとノエル両者に。
……ごめん。ミリア。この事実は君に告げることが出来なかった。2人の気持ちは共に失われていない。
きっと2階には君の想像を超える光景が待っている。ノエルは目を覚まし、ハチは真実を知る。2人に立ちはだかる壁が高ければ高い程、より強く惹かれあうだろう。入る隙などない程に。
ミリア、君にはここで挫折を知って貰う。……卑怯な男でごめん。僕には僕の戦いがある。君が欲しい、ミリア・クルスカ。
ここにて、君を想い、待つ!
……あれ? 今目の前をノエルが通らなかったか?
あれ? んん?
ミリアは二階にいるはずじゃ?
待ってくれ、ミリア。君が向かう先には、本当に化け物ですらも驚きの光景が広がっているかもしれない!





