56話 砂の一族
夜が更け、宿の奥にある広間には、まるで月光がそのまま降りたような淡い灯が揺れていた。天井から吊るされた無数の和紙灯籠が、ほのかに温かい光を落とし、檜の香りがほのかに漂う。床には艶やかな漆塗りの卓がいくつも並び、その上には、色とりどりの料理が美しく盛られていた。
この世界では珍しい、和の心が感じられる宿の趣向。
「よっ、御大臣様!!」
「ふふっ。我はハチ大臣でござる!」
どん、胸を張って超ご機嫌であるぞ。
「御大臣様、ははぁー!」
日が沈んだ頃。
俺は宿の職員総出で祝って貰っていた。
目の前に並ぶ豪勢な料理たち。山の幸から海の幸。旬の野菜から、見たこともないフルーツ、季節外れのフルーツまで全部並び、丁寧に皮が向かれて食べやすいサイズに切り分けられている。
まるで自分の子供が合格したのかってくらい皆が本気で祝ってくれる。本心から祝ってくれているからだろう。こちらも素直に喜べた。
「いやぁ、でもなんか悪いね」
俺にも負けぬドケチ根性を持つ父上によって予約された超縁起の悪い宿。当然宿泊代は激安。数年1次試験突破者が出ていないとは聞いてたが、実に9年も出ていなかったらしい。
昨夜は30名ほどの客がいたが、今日は俺だけ。ということは29人が1次試験で脱落したということだ。しかし、それでもなんとか俺が残った。俺まで落ちていたら10年連続で1人も1次を突破できなかった宿として名を馳せていたらしい。
試験突破証明書を見た時の、宿の主人の泣き崩れる姿や。なかなかに印象的で忘れることができない。
「何を言われますか! ハチ大臣が合格して下さらなければ、我が宿は! 我が宿は……! ううっ」
泣きながら抱き着かれた。
おっさんに頬擦りされるのは、なんともあれだが……けれど許す!
大臣だって。ぷぷっ。
大臣様。ぷぷっ。
ハチ大臣。……わっーはははははは!
これが笑わずにいられようか。
小物として生まれ、陰日向に太鼓を叩き、今では太鼓叩き界であいつほどのリズムを奏でられる者はいないと語られるこの小物ハチが。
大臣様!?
ああ、好き。
この宿好き。マイナスイオンが出てるんだよな。パワースポットとかみたいな宇宙エネルギーを感じます。
「それにしても凄い料理だよ。出されたものは全部食べる主義なので、ちょっとひるんでしまった」
「なにも気にせずどうぞごゆったりと。残されても気にしないで下さいな。それが我々職員一同のお気持ちで御座います!」
ありがたいお気遣いだが、出されたものは全部食べる!
10人前なんてものじゃない。軽く30人前はある。
宿の職員たちも一緒に楽しむのかと勘違いしていたが、なんとこれ全部俺一人用だ。
ここの宿は昨夜もサービスが行き届いており満足していた。激安なのになんでこんなにサービスが良いんだ!? と思っていたが、縁起が悪くても9年経営してこれたんだから、むしろ他の面で素晴らしいサービスをしているのは当然かもしれなかった。
聞けば、2次試験突破者に限るともう30年も出ておらず、最終の3次試験突破者、つまりは学園への入学者は一人として出ていないとのこと。
やたらと熱い視線を受けているのは、もしやそこも期待されてのことか? まあ乗っている以上は期待しちゃうよなぁ。
けれど、3次試験の結果はあまり重要視されておらず、そこまで行ったらもう運だよね? みたいな見方もあるので、宿の評判は1,2次試験突破者数によって上がり下がりする。
「でも、父上が少ししかお金払ってないでしょ? なんか値切りしたってのも聞いたよ」
小物の父としては誇れるが、貴族としてはどうなんだそれ。
宿の人たちの首を絞めるんじゃないよ。
「本当にお気になさらず。ハチ様の合格がいずれ大きな利益につながるのです!」
聞けば、やはり9年連続1次試験突破者0という悪い記録を断ち切れたのがまずとんでもなく大きいことらしく、これが次の客に繋がるのだ。
試験は1年に1回。受験生たちは事前に泊り込みに来たとしても、長くて3週間くらいだ。たったの3週間で利益が取れるのか? とか心配していたのだが、どうやらこの村は年中泊り客が後を絶たない。
時期外れの頃には、将来王立魔法学園の試験を受けるための子供が環境に慣れるために泊りに来たりする。それに加えて伯爵が運営するような私塾生たちが集団で泊まりに来て、試験会場付近で演習したりもする。
単純な観光客もいるらしく、俺が知らないだけで年中客足の止まらない村となっているのだ。
王立魔法学園の威光の凄さを感じ取りつつ、俺の1次試験突破がどれだけ宿の助けになったのかを理解してきた。
これで試験以降は通常料金に戻しても客足が戻るだろうと。だから遠慮は一切いらないどころか、これでも足りないくらいです、と伝えられている。
ほうほう、そういう仕組みね。
となれば……もう踊るだけよ!
ふぅー。行儀は悪いが、食べて、笑って、踊る! 食べて、笑って、踊る!
踊れるときに踊らないと損なのです!
そういや、1年前くらいにもすんごい踊れる機会があったな。そうだ、子爵領での夜会。あの後酷い目にあったなぁと染み染みと思い返される。……おっとと、そんなフラグいりませんよ。
踊れ、踊れ!
体の感じるままに。今ならサンバのリズムも刻めそうだ。
この最高の宴会で少し驚いたことがあるのだが、なんと出された料理全部平らげた。
小物に生まれ、将来の稼ぎもたかが知れているこの身。それなのに胃袋だけが王族をも超える大物なのは如何なものでしょうか。養いきれませんよ。
「……てか、あり得ないだろ」
物理的に考えて、腹に収まる量じゃない。宿の職員たちは途中から酒が入って気にしていなかったが、素面の俺はとても違和感を覚える。しかも、これでもまだ若干食い足りていない。
俺の体、本当にどうしちまったんだ?
成長期という概念では説明の出来ないことが起きている。
とても恥ずかしかったのだが、広間の宴会場で伸びている職員たちを後に、調理場へと向かった。
「……す、すみません。あのー、パンとか余っていませんか?カピカピになってるやつとかでいいので」
そう。本当に食べ足りない。胃袋大臣が権力を持ちすぎて、俺の意志を決定する脳ちゃんを尻に敷いている。
「あら、ハチ様じゃないですか。パン? そんなもので良ければ、まだいくらでも。ちょいとお待ちを。パンだけでは申し訳ないですから、何か作りましょう」
「いやいや、大丈夫だよ。食後の散歩で食べるから、パンだけ頂ければ」
「……へえ。でしたらどうぞ」
ちょっと戸惑った反応だった。
今日はもう十分豪華なものを食べさせて貰ったからね。窯で焼かれた質素なパンが何より美味しい。
パンを入れた紙袋を片手に抱えて、夜の散歩に出る。
空を見上げれば、夜空にて輝く月。コントラストが際立っており美しい。
ここの土地は逆三角形のような形をしており、傾斜に沿って宿が連なっている。面白いのは、その格式の順序だ。高く広い上の方ほど庶民的で、低く狭い斜面の先端――最も試験会場から遠い場所にある宿ほど、格式が高いとされている。
最初は誰でも立てる広い場所に集まり、試験が進むにつれ、通過者はどんどん絞られていく。最後に残るのは、狭く、限られた場所に立つ者だけ。すなわち、選ばれた者。だからこそ、最も低く狭い先端に建つ宿ほど、高い格式を持っていた。
試験に準えているわけだ。縁起って凄いよな。絶対に上に泊った方が景色も良くて、アクセスも良いのに。
お世話になっている宿は試験会場の近く、斜面の上部に建てられていた。
格式は高くはないが、試験を終えた者を労うには十分な造りで、どこか温かみのある雰囲気を漂わせている。
建物は段差に沿って建てられており、外から見れば縦に重なるような構造をしている。どの宿の木造建材もよく手入れされ、館内には素朴な香りが満ちていた。先ほどいた宴会場は、広く開かれた窓から斜面の街並みが見下ろせる造りで、低い位置に並ぶ格式高い宿の屋根がまるで宝石のように見下ろせる。
どう考えたって上がいいでしょ……。
父上はまさかこのことを知っていて俺にあの宿を!?
まっ、そんな訳ないか。だって値切りしてるもん。息子の一世一代の日に値切りしてるもん。
昨夜、受験生たちを送り出す祭が行われたのが最下層にあるエリア。今日も2次試験を受ける受験生たち用に祭が開かれている。運が上がると、かなり人気らしく、やはり祭に参加するには高額なお金を請求される。
なんとその額30万バルである!
そんな大金があったらパンを何個買えるのか!
ということで、屋根に上って今日も祭を見下ろす。
やれやれ。ただ見、最高だぜ。
月は映え、祭りは彩り、安宿で心と財布が休まる。
そんな素敵な夜を過ごせるはずだったのに、興を乱す声を荒げた連中がいた。
気にするなって方が無理なので、屋根から屋根へと飛んで現場に向かう。
1人の女性を囲うように、20人もの男女がその場にはいた。パン泥棒ならば許せないのだが、宿の関係者はいない。
全員が歳の近い、受験生たちだろう。
受験生同士の揉め事がバレると、学園側から罰があると受験要綱に書いてあったのにもかかわらず、愚かな連中だ。それとも不合格になってもうどうでもいいとか?
「おい、聞いてんのかよ。それとも砂の一族は人間様の言葉もわからないのか?」
どんっと片手で小突かれて後ずさりしたが、その女性は何も抵抗しなかった。
ただ立ち尽くし、言葉も発しない。
砂の一族というワードを聞いて、よくよく観察してみると、そこにいたのはイェラだった。
……なんで抵抗しない?
どう見たってイェラの方が強いのに。
「お前たちって領地を持たないんだろ。砂に隠れてコソコソ生きてるって聞いたぜ。風呂も入らないんだろ。くっせーよな、ほんと」
「ああ、そうらしいぜ。食べ物もないから、俺たちの廃棄物を漁ってたりもするらしい。ほら、くれてやるよ」
イェラの足元に食べ物が投げつけられた。
投げる前にわざと握りつぶして。ゲラゲラと嫌な笑う声が聞こえてくる。
「砂の一族はこういうのも喜んで食べるんでしょ? きゃははは、感謝したらどうなのよ」
……胸糞の悪い光景で、醜い連中だ。
せっかく人が幸せいっぱい、お腹いっぱいだと言うのに。さっきまで踊っていたんだぞ。素敵な気分を返せ。
これはイェラの問題なので、出来れば口を挟みたくなかった。けれど、彼女は何もしない。なんでだよとこちらがもどかしくなってくる。
見てられるのもそこまでだった。
「やっちゃえよ。手ー貸すぜ」
イェラが振り返り、彼女を侮蔑する20人も驚いてこちらを見上げた。
まさか屋根の上で祭を盗み見している受験生がいるとは思わないよな。
屋根から集団の中に飛び降りて、囲んでいた輪を乱した。拳を構える。
けれど、イェラ俺の前に手を出してきて、静止する。目を瞑って、首を横に振った。
……なんでだよ。
俺が悔しくて堪らないが、イェラがやらないというのなら仕方ない。でも、暴力じゃなくても少しは痛い目に合わせてやらないと。
その場で屈んで、地面に投げ捨てられてぐちゃぐちゃになったパンを拾い上げる。彼らがイェラに投げつけたものだ。
「げっ、お前何する気だ?」
砂がついて汚れまくったパン。
それを口に放り込んだ。
バクバク、じゃりじゃり。砂かってー。でもなんとか飲み込んだ。
「砂の一族が喜んで食べるだって? 王国の民も喜んで食べるぞ」
べーと舌を出して、少し驚かせてやった。
「うげー。汚っ」
「どこの恥知らずだよ。お里が知れるな」
「お前みたいなやつは王国民じゃねーよ。そんなに好きなら、その薄汚い砂の一族とともに国から出ていけよ」
好き勝手言いなさる。
懐を探り、俺の何よりも斬れる懐刀を取り出す。ピシッ!
一枚の手紙。
手紙の封蠟の部分をこれでもかと指で指示し、封蠟印を指さす。印の形は酒樽。そう、これは王家クリマージュ家の家紋だ。
魔獣討伐の後、リュウ様と何通か手紙を交わしている。絶対に役に立つと思っていたので、こうして忍ばせていた。こっちじゃクラウスの名前もあんまり聞かなさそうだしな。
「俺が王国民も相応しくないと? ふーん、これ見てもそんな失礼なこと言えんだ」
手紙の内容は関係ない。誰かが酒樽の家紋に気づくと、そのどよめきが一気に広まる。
まずい相手に喧嘩を売ったんじゃないかという動揺だ。後々、全然関係ない人ですよってバレてもこの場さえ凌げれば大丈夫。
「俺は小物だし、喧嘩も好きじゃない。けどな、別に弱いって訳じゃない。試してみるか?」
最後に威圧。王家の手紙もあって効果抜群だ。
「行けよ」
この一言が決めてとなり、20人は解散していった。背中を見ながら、息が漏れた。
ふう、どうなることかと。乱闘になったら普通にやばかったな。
一安心したので、その場に座り込んだ。少し不満げに、イェラにあたる。
「なんでやっちゃわなかったんだよ。俺はまだ消化不良で気分が良くない」
「……王国民を傷つけるは砂の意志に非ず。族長様も悲しまれる」
格好いいなぁ。それに、めっちゃ強い人だなって思った。
静かに佇み、ゆっくりと空を見上げて心を落ち着かせている。
けれど、俺は気づいた。イェラの手が僅かに震えるのを。
考えてみれば当たり前だ。体こそ逞しく育っているが、13歳の少女があんな大勢に囲まれて自分の一族を貶しめられたのだ。
俺が感じている不快感よりも、遥かに強い悲しみと痛みを味わったに違いない。こんな冷静に対処できた事が奇跡に近い所業。
そう思うと、なんだか俺に怒る権利なんてない気がしてきて心が落ち着いてきた。
「すまん。俺が先に怒ってしまった」
「やたらと縁があるな、ハチ。私と共にいるとお前の評判まで落ちるぞ」
「まさかそれを気にしてあまり関わろうとしないのか?」
思えば、1次試験中、そして試験後もイェラは助けてくれたのに深く関わろうとしてこなかった。てっきり無口なタイプなのかと思っていたが、真意はそこにあったか。
「ハチは私を差別しないのだな。ここに来るまでに、砂の一族や身長のことでよく差別された」
「砂の一族は嫌いじゃない。どっちかっていうと好きだ。それに俺は大きいものが好きだ。人も当然大きいのが良い」
当たり前だ!
砂の一族がこうして王立魔法学園の試験に来ていることがかなり珍しい。というより、前例すらないんじゃないか。だって彼らは孤立した民族で、神を避ける特性からも、神の恩恵を受けている王国民には関わろうとしない。
小物の決断は基本的に利に基づくのだが、この人は何かが違う。今日の件を見てもそうだ。己を押し殺してでも成し遂げたい、強い信念があるように見える。
「あのさ、イェラがどういう事情でここに来ているか知らないけれど、当分誰にも味方して貰えない環境だろ? だから俺が代わりに褒めてやる。イェラは傷つけられても他人を傷つけなかった。偉い! 王国民を代表して俺が覚えておく。……こんな小物で申し訳ないが」
一瞬だけ星を見上げていたイェラの口元が綻んだように見えた。そして小さく、ありがとう、も聞こえた。
「ハチ、一族についてどのくらい知っている?」
初めてかもしれないな。イェラから積極的に語りかけてくるのは。
「少し。本で聞きかじった程度だ。しかも偏見ばかりでのものを」
少し悩んでいる様子なのは、話せる内容を考えているのだろうか。
「お前には不思議な縁を感じる。族長様もきっと許して下さる気がするから話す」
「無理しなくていいよ」
イェラはなんとなく大物の気配を感じる。砂の一族は戦闘に長けた一族だが、その中でもイェラは特別な大物に分類される人物だろう。小物の俺と敢えて深く関わることは無い。
「無理はしていない。私は、族長様の予言に従ってこの地にやって来た」
「予言?」
「砂の一族の悲願。一族が命を繋いで来た意味。その運命の時がやって来たのだ」
悲願と聞いて、砂の一族の由来を思い出す。
彼らは神に使命を託された一族。その使命を果たす時が今来たって言うのか?
数先年の歴史を持つ謎に包まれた一族が、その止まった時をようやく動かす運命が今……。
心臓の鼓動が少し早くなった。目の前のイェラという少女は、俺が思っている100倍くらい重たいものを背負っているのかもしれない。
「私はここでとある人物と出会う。誰かは知らない。一族に終息の地を与える者。この試験に来たのはそのため」
使命が何かとか、使命を果たしたらどうなるのかとか、そういうのは話してくれない。当然だ。
偶然が重なってイェラがたまたま心を開いてくれたが、そもそも小物なんて信頼すべきじゃない。
「知っているか? 1次試験には真の合格ルートがあったんだ。今年の受験者の中で実力でそれに気づいた者がいる。おそらく、イェラの探し人はその人だ」
砂の一族の運命を背負える程の男だ。カイネル試験官が言っていたその人物以外にあり得ない気がした。
「知っているのか?」
「ううん。顔も名前も。ただ、イェラの探している人は高確率でこの試験地にいる」
「……そうか。やはり私は導かれているのだな。ハチに話して良かった。また一歩使命に近づけた」
「良いってことよ」
多分小物の助言も予言の一部だろう。