1話 目覚めた小物界の大物
英雄譚を紡ぐ英雄たちはいつだって愛される。その勇敢な姿、明るい性格で人を魅了して止まない。俺も好きだ。一方で、敵対する巨悪にもどこかカリスマ性や深い過去があって憎めない。こっちもやはり好き。
反対に、皆が好きになれず最も嫌われる存在は、庶民の前でイキリ散らかす小物の悪党じゃないだろうか。大抵大した人物ではない。背景も薄っぺらいんだよ、これが。例えば、小さな領地を持つ特権階級の弱小貴族なんかがいい例である。好き放題、我がまま放題。みんなから嫌われ、碌な結末を迎えない。実は、そんな小物貴族に転生してしまった……。
――。
広い貴族邸の一室にて、美しい作りの陶器のカップが壁に叩きつけられた。キャッと悲鳴を上げて、若い使用人の女性がその場にしゃがみ込む。
俺はその光景をやけにスローに、そしてまるで第三者視点かのごとく眺めていた。
このときの行動がきっかけになったのか、それとも偶然のタイミングだったのかはわからない。けれど、その時まるで生まれ変わるような感覚に襲われた。どっと押し寄せる前世の記憶。混ざりあう、小物貴族としての5年間の記憶。二つが合わさり、新しいものが誕生する。
たった今カップを投げつけた自身の小さな両手を眺めた。まだ5歳の小さな掌を自身に向けて、グッパグッパしてみる。可愛らしい手だ。そして育ちの良さが、肌艶に表れている。爪先も丁寧に磨かれており、清潔感がある。
室内は広く、家具の作りも良い。整理整頓が行き届いており、使用人らしき人もいる。
これが転生した俺の新しい体であり、ハチ・ワレンジャールの住む家である。
怯えてこちらの様子を伺ってくる使用人の若い女性が、急におとなしくなった俺の様子に違和感を覚えはじめていた。少し首をかしげる。
それも無理ない。先ほどまで癇癪を起し、ギャーギャーと騒ぎ立てていた特権階級意識盛り盛りのガキんちょが、急におとなしくなって自分の体を興味深く伺っているのだから。
ハチ・ワレンジャールは結構癇癪持ちであり、こうして使用人に当たり散らすのは日常茶飯事だ。だから使用人が長続きせず、今も若く経験の浅い人が担当をしてくれている。今日の人も記憶にないので完全な新人さんだろう。
けれど、使用人さんを気に掛けられるのもそこまでだった。自分の仕出かした事の重大性を思い出したのだ。
椅子から降りて、すでに余裕を失った精神は体に影響を及ぼし、視界がふらふらする。涙腺が緩み、気が付けば駆けだしていた。
地面に転がった割れたカップの破片たち。それを拾い上げ、まじまじと見る。
「ううっ……ご、ごめんなざいっ!」
ううっ、誰に言うでもなく大きな声で謝罪の言葉を発した。涙も止まらない。
使用人を怯えさせたから泣いているわけじゃない。当然申し訳なく思ってはいるが、今はそれよりも割れたカップの価値が無くなったことにショックを受けているのだ。
これは先ほど戻った前世の記憶のせいである。
俺は前世、かなりの節約家だった。実家も裕福ではなかったし、大学入学とともに入った4畳半のアパートは軽い地震で崩壊するような作りだった。当然内装もひどく、すきま風というにはいささか強すぎる風が室内を駆け巡っていた。給料もそこまで高くなかったので、自然と染みつく慎ましい生活習慣。けれど、俺はその生活が嫌いではなかった。むしろ、誰よりも幸せだという実感まであるほどに。黴臭く狭い部屋は意外や意外、住んでみればいつしかまるで聖域かの如く居心地がよくなり、ここで一生過ごしてもいいとさえ思っていた。都内の駅近で家賃が3万円。たまにトイレがガタガタ音を立てたり、照明がついたり消えたりするが、実害はない。こういういわくつきだったとしても、結果家賃3万が口座から引き落とされるたびに、なんだか極上の喜びが湧いてくる。友人は毎月9万引き落とされている。なんだか勝った気分になれた。
そんな筋金入りの節約家であり、勿体ない精神の覇者である俺だったから、目の前の割れたカップに茫然自失となっていたのである。
……これ、たぶん元の世界で買うなら2,3万はするような代物だぞ。不純物もなく、丁寧な作り。柄も事細かに描かれていたあ。ああっ、大事に使ってやれば一生ものだったかもしれない。そんな極上の品を、俺は癇癪を起して人に投げつけたのだ!
なんと愚か! なんという悪! あまりの愚行に怒りすら湧く。
自分の行動ながら、自分が許せない。
「このばかっ!ほんとばかっ!」
あまり勢いはつけられないが、自身を痛めつけるように自分の手でぺちぺちと頬にビンタを食らわせた。……痛い。
「ハチ様、おやめ下さい!頬が赤くなってしまっています」
「でも……でも……」
「それ以上やれば私が旦那様から怒られてしまいます。……それに私はそんなに気にしていませんよ。ほらっ、立ち上がって食事の続きをしましょう。大丈夫ですよ。今度はカップを投げるようなことはしないで下さいね」
「ううっ……うん。ぐすん。ありがとう」
止めてくれてありがとう。そろそろ頬が本気で痛かったから。
「カップの掃除は危ないですから、私がしますね。実家が陶器を扱う店でしたので、こういうのは慣れているんですよ。というより、こういうのが得意だから雇われたんですけどね」
「実家で陶器を作っているの?」
「はい、父が工房の職人で、母がお店で販売しています。兄が店を継ぐ予定で、そこそこに人気もあるんですよ。そうだ、父に頼んで、ハチ様専用のマグカップをおつくりしましょう。育ち盛りですし、今度のは大きめのサイズを」
えっ!?
ちょっと待って。おつくりしましょうって……それって『ただ』ってこと!?
貰っていいんですか?
「……いいの?」
「ええ、もちろんですよ。ハチ様が気に入るかどうかはわかりませんが、父と相談して相応しいのを作ってみますね」
これ絶対ただやん!
うおおおおおおおおお。大の節約家である俺のモットーを知っているか。『貰えるものは貰っておけ』だ。そして感謝しろ!
職人が作る俺専用のマグカップだと!?そんなん絶対に貰いますけど!
「名前は?」
「え?私ですか?」
「そう」
「使用人の名前なんて覚えなくても大丈夫ですよ、ハチ様」
「教えて!」
もう逃がさないから!マグカップ貰うまで逃がさないから!
「えーと、なんだか私、ハチ様のことを少々誤解していたみたいです。気難しい方とお聞きしていたのだけど。……長い付き合いになりそうですし、名乗っておきますね。私はクロン。ワンジャール領地にある陶器職人の娘ですよ」
「クロン!忘れない!名前覚えたからね!」
だからマグカップの件、言質とりましたよ!
「ふふっ、わかりました。改めてよろしくお願いしますね。ハチ・ワレンジャール様」
「うん!」
――。
ワレンジャール家の屋敷で働くことになったときは大きな不安を抱えていた。当主様は気難しいお方で有名だし、貴族と何かトラブルがあった際には実家にも迷惑をかけかけない。
「でもお給金がいいのよねぇ」
クロンはワレンジャール家の高いお給金とリスクの狭間で揺れ動いていた。
実家は陶器の工房を持ち、製造と販売を担っているが、自分には兄がいる。しかも先年結婚して、奥さんのお腹の中には子供まで。二人とも働き者で、実家は既に人手が足りていた。両親はいてくれて良いと言ってくれているが、働き口があるのなら働かなきゃという真面目な性格から来る責任感が滾ってくる。
「まあダメそうならやめればいいか」
離職率は高そうだし、評判も良くない。けれど、最後は自分の目で確かめねば。
採用はすんなりと通った。できることを一通り確認された後は、本当に簡単に面接が終えられた。なんとその日のうちから働くことに。
相当人手が足りていないと見える。また悪い噂が脳裏をよぎったが、屋敷の居心地の良さが不思議と心を落ち着かせてくれる。
私が任されたのは、5歳になるハチ様のお世話係だ。仕事の先輩がみんな申し訳なさそうな表情をして私のことを見送りだしていた。まさか離職率の高さはこの子のせいなのか?と恐る恐る面会してみると見事に不安が的中したことを理解することに。
貴族の子とは思えない言葉遣いの悪さと、品性の欠片もない態度。午前の仕事だけでもう体重が10キロは落ちたんじゃないかと、気持ちがげっそりしてしまった。良いダイエットになるかもしれない。
しかもかなりの癇癪持ちで、ことあるごとに声を荒げて喚き散らかす。これが頭と耳にダイレクトアタックでつらい。
心も体もガリガリになっちゃう。
もうだめかと思ったその時、ダメ押しのように私に向けて飲み物の入ったカップが投げつけられた。幸い顔の横をかすめて壁に当たっただけ。もう少しずれていれば、顔面直撃だっただろう。
もう無理だ。嫁に行く前に、本当に傷物になってしまう。こんな職場、続けられるわけがない。一日も経たずに諦めかけていた瞬間、まるでハチ様が別人になったかのような豹変が起こる。
少し間があって、静寂の後に訪れた異変。本人も少し戸惑っているみたいだった。
言葉を詰まらせ、目には涙を浮かべ、自身で割ったカップに駆け寄り破片を広い上げるハチ様。
その目からは大粒の涙が流れ、大泣きしていた。
……もしかして、自分が悪いことをしたっていう自覚がある? 急な成長と学習?
必死に謝罪の言葉を紡ぐその態度は、まさにその通りだった。信じられない光景だ。午前中のハチ様を見て、今の姿を想像しろなんて絶対に無理な話。
貴族の子供は私たち庶民とは育つ環境が違う。いや、生まれた瞬間からすべてが違うと言ってもいい。
ハチ様も今日一日ご両親に会っておらず、私たち使用人とばかりいる。しかも、頼りの使用人も離職率が高くてことあるごとに変わる状況が続いている。
もしや、ハチ様がああなってしまったのは、環境のせい?
まだ間に合うのかな……。
試しに私の身の上話をしてみると大いに興味を持ってもらえた。陶器を作る職人さんなんて珍しくもないのだが、目に光を宿して興味を示している。
専用のマグカップを作ってあげましょうと提案してみれば、もう顔いっぱいに喜びを隠しきれていなかった。
ふふっ、普通に可愛いところがあるじゃない。
やっぱりこの子はまだ大丈夫だ。ハチ様は正しく育てればきっと素敵な人になる。なんだか私の中で使命感に似た何かが芽生えた。
長い付き合いになる職場となりそうだ。心の中で小さな決意をし、私はハチ様にプレゼントするマグカップに思いを馳せ始めた。