9.大豆さんの平和な朝
炊飯ジャーがご飯が炊けたことを知らせる音楽を奏でる。魚用グリルからは鮭の皮がやける香ばしい匂いが漂っている。大根とキャベツをいれた小鍋に味噌を少しずつ溶かしていく。
今日は久しぶりに朝ご飯を作っている。窓の外を見ると青空が広がっている。とても気持ちがよい。
大豆さんが我が家にやってきてもう2週間が経過した。
ブラック企業での勤務はいったん終了したものの、それ以上の訓練を毎日詰め込まれて、まともに朝ご飯を食べることもできなかった。
日々倒れないように何かを口に入れるというだけで、パンやカップ麺などの手軽なものばかり食べていた。僕が料理を作れなかったので、大豆さんもいつもコンビニで買ってきたおにぎりや冷凍食品などを食べていたようだ。
ずっと通い詰めていた中芋さんが病院に行くということで、訓練も今日は休みになっている。本当に久しぶりの普通の日常だ。しみじみと平和な時間に感謝をしてしまう。
朝ご飯をテーブルに並べていると、部屋から少し頭に寝癖をつけた大豆さんがふらふらと登場した。僕が訓練をする日は一緒に早くから起きて、自分も走りに行ったりしてトレーニングをしているが、今日は大豆さんも完全にオフにするつもりのようだ。
「大豆さん、おはようございます。朝ご飯できていますよ。食べます?」
「ふあ・・・・ああ、ありがとう・・・」
大豆さんと一緒に暮らしてみてわかったことがいくつかある。
大豆さんは思った以上に普通の人だった。クローンだとか、ガールズ・ファイトクラブのファイターだとか、その背景は複雑なのかもしれない。口が悪かったり、言動が突拍子もなかったりするところもあるが、普段の行動は本当に普通だ。むしろ地味。真面目。
毎日、トレーニングをして体を鍛えたり、VRでスパーリングをしたり、対戦相手の動画を確認したり、ファイターとして最善を尽くしているのがわかる。
遊びに出かけたり、誰かに電話やメールをしたりすることは基本的にない。
中芋さんをはじめとするガールズ・ファイトクラブの関係者だけが今の彼女の世界だ。それ以外に友達がいる様子もないし、知り合いもほとんどいないようだ。
むにゃむにゃした顔で席に着く大豆さんは、寝癖も治っていないし、なんなら少し涎の跡がのこっている。
「大豆さん、顔、洗ってきたほうがいいですよ・・」
「うん、そうね・・・・。痛い!」
洗面所で顔をドアにぶつけているのが見えた。どうも寝不足のようだ。
・・・珍しいな。休みの日はこんな感じなのかな?
「タマちゃん、今日は二人ででお出かけをするわよ」
ひきわり納豆をまぜたご飯の上に鮭を一切れ載せて、器用に海苔で鮭と納豆ご飯を包み込みながら、大豆さんが急に言い出した。せっかく洗面所で顔を洗ってきたのに口の横に納豆の粒がついている。
「え、ふ、二人で行くんですか?ど、どこに行くんですか?」
「ふふ、私と二人で外出なんて、デートみたいでうれしいでしょう?ここ数年ずいぶんたまっていたものね。膨らませて歩いて捕まらないように注意してね」
朝食を食べて回復したのか、いつもの毒舌が戻ってきている。ただ口のわきに納豆の粒をつけたまましゃべっているので、なんだか可笑しい気持ちになってしまう。
「あら、随分余裕な対応ね。まあ、いいわ。この前話した通り夕方にガールズ・ファイトクラブの試合があるのよ。今度の大会にも出場する選手だし、私は過去に敗戦したことがある選手だわ。大会の試合の参考になるのは間違いないわ」
たしかに実際の試合を見てみないと僕も本番の想像がつかない。まして以前大豆さんが敗れたことのある相手であれば、事前に確認することで攻略のきっかけが生まれる可能性もある。
「わかりました。一緒に行きましょう!・・・・で、あの言いずらいんですが、ここに納豆が・・・」
僕が自分のほほのあたりを指さすと、大豆さんは少し顔を赤らめながら、納豆のついていないほうの頬をさすっている。
「あ、大豆さん、反対です。反対」
「ちょっと、どこよ?取りづらいのよ。タマちゃんがとりなさい!」
大豆さんが口をへの字に曲げながら、僕の方に向かって頬をつきだす。艶やかな頬の皮膚の上に小さな納豆のかけらがくっついている。
僕は指でそのかけらをつまむと、大豆さんの前で人差し指を上向きにして見せてみる。
「とれましたよ」
大豆さんはすこしだけその納豆を見つめると、おもむろに口を開き僕の指をその唇で包み込んだ。
「え!!??」
大豆さんが唇をゆっくり離すと、指の先にあった納豆がなくなっている。僕の指先は少しだけ大豆さんの唾液で濡れ、朝の陽光を浴び光っている。
「ふふ、役得だったわね。あとで私のいないところで、その指を嘗め回してもいいのよ。2週間頑張ったタマちゃんへのご褒美よ」
僕は自分の指先と大豆さんの顔を交互に見ながら、口を半開きにしている。大豆さんが見てなかったら、この指だけ洗わないようにしてしまいそうだ。一瞬だけ感じた暖かい大豆さんの口の中の感触が、まだ手には残っていた。
「せっかく天気もいいし、ガールズ・ファイトクラブは夕方だし、早めに出かけましょう。この辺に日用品とかを買えるショッピングモールとかあるのかしら?」