45.ふたりで重ねる明日は
窓の外で大きな光が見え、少し遅れて炸裂音のような音が響いてきた。
大粒の雨がぽつりぽつりとベランダに染みを作り、数十秒と経たないうちにそれは滝つぼの中心にいるような大雨に変わっていた。窓から外を見てみると、急に降り出した雨に濡れながら走っているサラリーマンの姿が見える。傘を忘れたのだろうか、カバンを抱えながらびしょぬれになっている。
「すごい雨ですね・・」
大豆さんが退院して、もう1週間が経過した。
ずっと病院で眠っていた大豆さんはしばらくリハビリが必要で、相変わらずダイズ・メディカルセンターに通ったりしていたけれど、後の時間はふたりでのんびりと過ごしていた。
ガールズ・ファイトクラブの事務局は手際よくいろいろな手続きをしてくれて、いつの間にか大豆さんの戸籍や住民票、マイナンバーカードまで揃っていた。大豆さんはさっきまでそれらを意外とつまらなそうな顔をしながら眺めていた。
今度はさっきより大きな音が、より近くで聞こえた。雨脚もさらに強まっている。
「ちょっと、怖いわね・・。近くに落ちたのかしら・・・」
マンションのダイニングから窓の外を見つめていた僕の横に、大豆さんがいつの間にか立っていた。そういえば僕のマンションに大豆さんがきてからはじめてのゲリラ豪雨かもしれない。あんなにも強い大豆さんの口から怖いというセリフを聞くのは貴重な気がした。
「大豆さんでも、やっぱり怖いと思うんですか?」
「こんなかよわい美少女にずいぶん失礼ね。こういう自然災害は同じように怖い・・・きゃっ!!」
大豆さんが言い終わらないうちに、もう一度さらに激しい雷鳴が響き、同時に家中の電気が消え真っ暗になった。
「あ、停電ですね・・」
大豆さんの手が、僕の手を握る。
漆黒が部屋を彩り、雨がベランダを叩きつける音がさっきより大きくなっていく。大豆さんは僕の手を更に強く、強く握りしめ、黙って僕を見つめている。
「タマちゃん・・・・」
ためらいがちな声が暗闇を震わせる。闇に紛れて大豆さんの表情ははっきりとわからないけれど、小さく名前を呼んだ声はどこか不安げだ。大豆さんの手を僕もしっかりと握る。また大豆さんがこの世界から消えてしまうことがないように。
「・・・・タマちゃん、私を連れて帰ってくれて、・・・ありがとう」
激しく雨粒が弾かれる音に、かき消されそうだけど、しっかりと大豆さんの声は僕の心に染み込んでいく。
「私の過去を見て、本当の私を知って、それでも一緒にいてくれて、ありがとう・・」
さっきより更に大豆さんの手の力が強くなる。大豆さんの手のひらが僕とひとつになってしまう錯覚を覚えるほど、強く強く僕たちは繋がっていく。
「タマちゃんと、1週間何も予定がない日常を過ごして・・・、私は何がしたかったのか・・・、少しだけわかった気がするの」
「・・・・」
「すごくくだらないことなんだけど、・・・毎日が幸せなのよ・・・。ふたりで買ってきたスイカをベランダで並んで食べたり、近所のかわいい飼い犬を見つけたり、料理をしてくれるタマちゃんをちょっとだけ手伝ってみたり、・・・そんな毎日が、・・・小さな出来事が積み重なる日常が・・・、きっと私は欲しかったの」
大豆さんが話す言葉の粒が、暗闇の中に優しく降り積もっていく。気持ちが詰まった言葉が、僕と大豆さんを包みこんでとても心地よい。
「なんだか、まだ夢を見ているみたいなの・・・。こんな時間を、穏やかな毎日を私が過ごしていいのかな。私はいつかまたこの時を失ってしまうんじゃないかって・・・、不安になってしまうのよ」
暗闇に瞳が慣れてくる。ぼんやりとした薄紫の空間に映る大豆さんは、少し困ったような顔をしている。
「・・・・僕も・・・」
「・・・・」
「・・・僕も、同じです。・・・散歩に行ったじゃぶじゃぶ池から並んで見た夕焼け。・・・夕ご飯に何を食べるか、話しながら買いものするスーパー、はじめて大豆さんが淹れてくれた少し苦いコーヒー・・・」
大豆さんにたくさん、たくさん、伝えたいことがある。大豆さんと笑いながら、話したいことがたくさんある。
「・・・僕も、僕のことをあまり好きじゃなかった・・・。人付き合いも苦手で、リーダーシップもない。誰かに信頼してもらえるような人間じゃないって思っていました。・・・大豆さんがここに来てくれて、この部屋で出会って、最初は引きずられるように始まったけど、・・・一緒に暮らして、一緒にガールズ・ファイトクラブを戦って、・・・・気づいたら、大豆さんにだけは信頼してもらえるように、そんな自分でありたいって、いつの間にか思っていたんです」
「・・・・戦っている時も、・・・今はそれ以上に、タマちゃんのこと、信じているわ」
地域一帯が停電なのかもしれない。僕と大豆さんが佇む窓の外は月明かりすらなく、雨雲が世界を覆っている。真っ黒な世界は不吉と言うより、暖かい布団みたいに僕と大豆さんをすっぽりくるんでいる。
「大豆さん・・・・、ご褒美を何でも叶えてくれるって、言いましたよね」
「・・・タマちゃんの願うことなら、何でもよ・・・」
大豆さんはこの暗い海の中で光る灯台のように、方角を示す星のように僕の人生に舞い降りてきた。大豆さんを見て、大豆さんを信じて、僕の人生は舵を取り直した。僕も大豆さんにとってそうでありたいのだ。
「大豆さんと・・・・・大豆さんと、ずっと一緒にいたいです・・ふたりでずっと暮らしていきたいです」
大豆さんの身体が少しだけびくっと震える。シルエットの大豆さんが僕のことをじっと見つめる。手のひらの中で僕と大豆さんはもっともっと強く繋がりを求めている。
「ずっといたら・・・・タマちゃんは結婚もできないわよ・・・」
一番大切なこと。伝えなくてはいけないこと。
僕はいま、手放したくない。この時間も、この空間も、何より大豆さんを手放したくない。
「大豆さんのことが、大好きです」
輪郭がはっきりしない暗がりの中で、大豆さんの顔をしっかりと見つめる。幸せは、幸せであるほど零れ落ちそうな不安に駆られてしまう。だから、僕たちはあいまいな気持ちをできるだけ言葉にして、大切な人に伝えるのだ。少しでも不安を取り除くことができるように。
「タマちゃ・・・」
何かを言いかけた大豆さんを遮るように、部屋の中が急に明るくなった。
エアコンが駆動音とともに緩やかに風を部屋に流しだし、窓の外ではまわりの家屋の窓や街灯にも明かりがともっている。
急ににぎやかになった部屋、そのタイミングの悪さに大豆さんがクスリと笑う。
「ふふふ、なんだか、タマちゃんと過ごすと・・・面白いことばかりね」
せっかくのムードは壊れてしまったけど、大豆さんの笑顔はすべての失敗を取り消してくれる。僕も笑って答える。
「きっと、楽しい毎日が待ってますよ」
笑顔のまま大豆さんが勢いよく胸に飛び込んでくる。柔らかな髪がふわりと跳ねて、半そでの僕の腕に絡みつく。大豆さんの髪の香りが鼻孔をくすぐる。
大豆さんは顔を見上げると、いたずらをした子供のような顔で微笑む。
「優勝したら、続きをしなきゃいけなかったわね・・」
「あ・・・」
大豆さんが僕の方を見つめて、瞳を閉じる。
艶やかで淡い色の唇に、僕はそっと近づいた。