43.灰色の世界で
森の中はとても静かで、木立は揺れているのに風の音さえしない。しんとした冷たい世界だが、寒さは感じない。さっきまで立ち込めていた霧が少しずつ晴れていき、針葉樹のような木々の隙間からは木漏れ日が穏やかな陰影を描き出している。
僕と大豆さんは並んで座っている。
僕の手のひらに中に大豆さんの手がすっぽりと収まっている。ここにしかはまる場所がないジグソーパズルのピースのようにぴったりとつながるその手が、すこしずつ暖かくなっていく。
たくさんたくさん泣いて、大豆さんはそれでもまだ少し洟をすすりながらしゃべり始めた。
「この場所に来て、タマちゃんの生きてきた世界に触れて・・・・怖くなったの」
「・・・」
「私は人間の権利を得れば、私も普通に生きていける。そう思っていたけれど・・・。そう思って、ずっと努力をしてきたけれど・・・・・。違う・・・・。違うの・・・・。愛されて、両親の愛を受けて生まれてきたタマちゃんを見て・・・・、思ったの。違うって。そんなことじゃない。権利とかそんなんじゃなく、私は・・・・違うと。最初から、生まれた時から、全然違うと気づいたの・・・」
言葉を絞り出すように、自分の中の大切なものを削り取るように、大豆さんは語り続ける。
「違うのよ・・・・。私は、愛されたこともない・・・・。好奇の目だけが、私には注がれていた・・・。タマちゃんが小さなけがをすると、タマちゃんの両親は地球の終わりみたいに心配していた・・・・。そのとき、私は・・・・誰かを殺すために、誰かを壊すために、どう戦ったらいいのかを訓練されていた・・・・。何もかもが、ぜんぜん違うの・・・。権利とか、戸籍だとか・・・そういう表面的なことではなく・・・私は人と違うのだって、気づいてしまったの・・・」
大豆さんの独白に僕は言葉をはさむことができない。大豆さんの魂を、記憶を僕は覗き見てしまった。
「そうしたら・・・、もう、どうでもよくなっちゃったの・・・・。権利とか手に入れても、・・結局私は私でしかない・・・・。きっと、私は表面だけ人になるけれど、・・・・違うと思うの。人として生きていけるわけがない・・・。・・・・タマちゃんにだって・・・、ずっと一緒にいたタマちゃんにだって・・・気づかれてしまう・・・私が全然違うってこと。・・・そんなことを知ってほしくなかったのに・・・。タマちゃんは、・・・私のココロに触れたでしょう?記憶に触れたでしょう?違うことを知ってしまったでしょう?」
大豆さんの言葉が胸に痛く、貫くように、突き刺さってくる。僕たちは痛みさえも分かち合っているのだ。
俯き、唇を噛みしめてる大豆さん。きっとすぐに溢れてしまう悲しみを必死でこらえている。僕はその手を、より強くぎゅっと握る。僕の手の熱が大豆さんの悲しみを癒してくれればいいのにと思いながら。
「大豆さん・・・」
大豆さんの頭を包み込むようにもう一度腕の中に抱きしめて、僕はそのしっとりとした髪を、優しく、そっと何度も撫でていく。
「・・・・僕は・・・。僕は、大豆さんがいなくて悲しかった。・・・大豆さんが僕の手を握ってくれるたびに、迷いや、悩みが消えて行った。すごく年下なのに・・・恥ずかしいけど・・・大豆さんは僕の憧れなんだ」
何度も何度も大豆さんの頭を撫でる。母が子供のころ自分にしてくれたように、僕は大豆さんのつるんとした髪を撫で続ける。
「まっすぐで、強くて、頼もしくて、感情がわかりやすくて、本当はとても優しくて、いたずら好きで、おいしそうにご飯を食べてくれる大豆さんは・・・、間違いなく世界で一番素敵な人だと思う。・・・・過去の大豆さんが積みあがって、重なり合って、今の大豆さんなんだよ・・・。僕たちは違うことも多いけれど・・・。僕と違う大豆さんを、誰とも違う大豆さんを、僕は誰よりも尊敬しているんだ・・」
僕は髪を撫でるのをやめて、大豆さんの顔を覗き込む。大豆さんは少しほほを赤く染めながら、また涙を溢れさせている。
悲しみではない、迷子の子供がお母さんを見つけたときのように、大豆さんの頬に再び涙が零れ落ちていく。
「えっ・・・!えっ・・・・!うっ・・・・!」
薄暗かった森に太陽が差し込んでくる。グレーの濃淡でおおわれた景色が、柔らかな緑と明るい光に包まれていく。
「大豆さん、・・・大豆さんがいないと寂しいよ・・。大豆さんがいない世界は、嫌だよ・・・。一緒に帰ろう・・・。一緒に帰ろう・・・」
大豆さんの涙でぐっしょりと濡れた頬を、僕の手がそっとぬぐう。大豆さんは涙を流しながら、でもしっかりと微笑んで、頷いてくれた。
ひとりでは迷子になる道も、僕と大豆さんのふたりなら歩いて行ける。
グレーの世界はいつの間にか、すっかりと消えていた。