1.彼女はカレーとともに現れる。
満員電車の窓から、駅前のささやかなネオンが近づいてくるのが見える。
今日はずいぶん早く帰れた。7時半に駅に着くなんてずいぶん久しぶりのことだ。最近では10時、11時頃に帰宅するのが当たり前になってしまっている。
ロボット開発をしている僕の会社「大日本帝国人造機械工業」はC国の新進企業「ラ・ブリークランド・ロボティクス」通称「ラブ・ロボ社」に圧倒され、業績が大きく傾いている。今となっては新規営業をかけてもほとんど効果もなく、過去に発売した商品のメンテナンスが事業の中心となってしまっている。
当然新商品の開発も全く低調で、会社の活気は日々失われている。いっぽう会社の不振のあおりで、社内のリストラだけは、活発に行われている。僕の同僚社員も次々と退職しており、その余波で仕事量は業績とは裏腹にうなぎ上りに増えている。
労働条件はすっかり真っ黒、漆黒、ブラックブラックである。
僕の名前は小麦 タマ男。
いかにも残念な名前だ。タマ男である。どう考えてもほのぼの感こそあれ、カッコよさとか、できる男とは無縁の名前だ。
名前の迫力のなさはそのまま僕の人生に反映されている。
僕は会社のメンテナンス部門で現場作業の主任補佐をしている。主任ではない。34歳にしていまだ主任の更に補佐だ。干されているといってもいい。同期入社の社員を見渡せば、すでに会社を見限って辞めているか、係長以上に出世している人がほとんどだ。
明らかにうだつが全くもってあがっていない。
仕事ができない、というわけではないつもりだ。
過去に発売されたロボットたちの修理技術はメンテナンス部の中でもかなり高いほうだと思う。ホントだ。自己評価だけが高いタイプの人間ではない。むしろ自己評価は常に低めだ。
仕事の評価は修理能力の高さとイコールにはならないのだ。
そう、やはり出世していくことができないのは、自分の性格が原因なのだろう。
愛想よく笑ったり、上司の言葉に絶妙の相槌をうったり、気の利いた返しをして笑いを誘ったり、そういったことが僕はとても苦手だ。前に前にでてみんなを引っ張っていくことができる人を、心からうらやましく思う。
僕は常に後ろ後ろへ引っ込んでいく。敵に襲われた時のヤドカリのように内へ内へと入っていき、目立たないように過ごそうとしてしまう。
要領もよくない。丁寧に時間をかけて作業するのは得意だが、最短ルートで必要な箇所だけ修理するのは苦手だ。つい気になるほかの部分まで修理してしまい、時間が予定よりかかってしまうこともしばしば発生している。
自分の欠点はよくわかっている。わかっていても、変えられないのだ。
まあ、出世しないのも気楽でいいのか・・・。
駅に着き改札を抜けると、近づきつつある夏の暑さが体を包み込む。
まとわりつくような熱気だ。ここ数年で地球の気温はさらに上昇している。2020年代に環境負荷の軽減を各国が騒ぎ立て、ガソリン車からEVへと車が変わっていったり、物流のモーダルシフトが進んだり、スーパーでレジ袋が配られなくなったり、いろいろ変化があったようだが、そんなことで温暖化の波は止まらなかった。
2034年、去年の夏は東京でも気温が40度を超す日が何日も観測された。いま4月が終わろうとしているが、すでに今日の気温は30度に達している。
駅から自宅までは徒歩で10分ほどだ。むしっとした空気がまとわりつき、シャツが体にぺったりと張り付いている。全身に薄い汗の膜ができているようだ。とても気持ち悪い。
マンションは両親と住んでいた時のものだ。両親は3年前に亡くなり、いまは僕がひとりで3LDKの部屋を占拠している。
両親からの遺産はほとんどなかったが、築25年とはいえこのマンションがあるのはとても助かっている。
マンションのエントランスでは羽虫が蛍光灯にまとわりついている。
少し古びたエレベーターに乗り、5階で降りる。
505号室。僕の部屋だ。
カバンからカギを出し、鍵穴に差し込んだところで、僕はなんとなく違和感を感じる。
・・・なんか、カレーのにおいがする。
よく見ると廊下側の部屋の窓が開いていて、そこからカレー臭が漂っている。加齢臭ではない。それは漂っていても不思議はない。食べ物のカレーのにおいだ。
隣室から漂っているのかと思ったが、明らかに少し開いた窓から匂っている。もちろん出発前にカレーなんか作っていない。
鍵穴にいつものカギをさしたまま、僕は動きをとめた。
・・・誰か、いる?
どうしようかと考えたが、カレーの匂いがするだけで警察に行っても何も動いてはくれないだろう。自分で見てみるほかはない。なんだろう。カレーが自然発生することはあまり考えられないので、誰かが作ったのだろう。
僕の家に侵入するような知り合いは、ちょっと思いつかなかった。彼女はもちろんいないが、友達だって極端に少ない。親類関係もほぼいない。
もしかすると泥棒とか?カレーを作る泥棒なんかいるだろうか?
役に立つかわからないが、いざというときはカバンを投げつけて逃げられるよう、カバンから財布を出してポケットにしまう。
音を立てないよう、静かに鍵穴を回し、そっと扉を開ける。
「おかえり」
想像していなかった光景に僕はぽかんと口を開けて立ち尽くす。
目の前にいたのは女の子だ。若い、20歳とかそれくらいだろう。
長い漆黒のストレートヘア、少し重めの前髪。黒のタンクトップにショートパンツ。長い脚の足元には僕のスリッパをちゃっかり履いている。
謎の少女は口にカレースプーンを咥えながら立っていた。
「カレー、残ってるわよ。食べる?」
「え・・・・・、だ、誰・・?」