第29羽 NEXT FRONTIER
時間はすこしさかのぼる。
『只今30kmを超えました!もう琵琶湖大橋まで手が届きそうだ!』
ナスカは、琵琶湖大橋のすぐ手前まで到達しようとしていた。
「琵琶湖大橋って、あんなに大きかったのですね」
湖上から見る大橋は、その上を通過したり航空写真で見たりするときの印象よりも大きい。そのやや中ほどには、船が通れるように高いアーチが作られている。
――あそこならばくぐり抜けてその先に行けそうですわ。
息は荒くなってきたが、まだ体力には余裕がある。
そのアーチを通って向かってきた観光船を横目に見ながら、ナスカは尾翼を少し動かして進行方向をそちらに向けた。
はっ、はっ、はっ、はっ。
バサッバサッバサッバサッ。
「なんですと!?」
突然、日比の声がインカムに入ってきた。
「どうしたの、日比」
「いや、それが……」
「大会スタッフです。橋の下は危険なので手前で降りてください」
え?
日比と共に伴走ボートに乗り込んでいるスタッフからの指示に、ナスカは困惑した。
「聞いていませんわ!私はまだ飛べます!それにあれだけの大きさの空間が空いているんですのよ!」
「不意の風などによる万が一の接触事故を考えると、人工物の周辺に近づくことは大会として認められません」
「私ならばぶつからずにくぐり抜けて見せますわ!」
ここまで来て。これだけ余力があって。どうして飛ぶことを諦めなければならないのか。
そんなことをしているうちに、もう大橋は目前に迫っていた。くぐることができないと言われたナスカは、仕方なく舵を左に切った。
ゆっくりと回り、やがて大橋に背を向けて飛び始める。
「お嬢様!?逆走したら記録が縮まりますぞ!」
「わかってますわ!でも、私はまだ飛びたいのです!日比、なんとかならないのですか!」
「どうにもできないのはお分かりでしょう!ルールなのです!」
そのまま、ナスカは大きく旋回を始めた。再び頭が大橋の方を向く。
「どうしてくぐってはいけませんのーっ!!」
「いけませんお嬢様!ワガママを言わずお聞き分けくだされっ!」
大会規則の中に、湖上の建造物の周辺は飛行禁止区域とする規定がある。これは毎大会前の説明会で参加者全員に説明されることだ。建造物ということは、琵琶湖のあちこちに設置された魞だけでなく、琵琶湖大橋も該当する。
当然、ナスカも頭では分かっていた。しかし、間近でみた大橋の下の空間の大きさと、余力があるなかで着水することにどうしても諦めきれないものがあった。
どうして!どうして!
旋回しているナスカの頭が、再び大橋の逆を向く。
「駄々をこねてはなりませんぞーっ!着水を!」
「しかし!」
「お嬢様は失格となって、ここまで飛ばれた大記録を無になさるおつもりかーっ!」
その通りだった。
今旋回している行為だって、大会運営の妨害と見做されれば容赦なく失格となる。失格となれば、30キロ飛ぼうが70キロ飛ぼうが大会記録として認定も記録もされない。
「……悔しいですわ……」
ナスカは名残を惜しむようにゆっくりと旋回をしたあと、翼を水平にして羽撃くのをやめた。少しずつ高度が下がっていく。
「仕方ありません。よくぞ決断なされました」
ナスカが着水することを決めてホッとしたのか、日比の口調がやや柔らかくなっている。
ナスカは、少しだけ水の上でホップした後、着水してその動きを止めた。
火照った体を包みこんでくる琵琶湖の水が、冷たい。その冷たさが昂った自分の心も落ち着かせようとしているように思えて、ナスカはその場でダイバーが迎えに来るまでじっとしていた。
「さすがはお嬢様です!この日比、感無量でございます!」
「ありがとう、日比」
ナスカがボートに着くと、これまで見たことがないほど顔を崩した日比に出迎えられた。ナスカも笑顔を作って返す。日比の肩越しには、大きくそびえ立つ琵琶湖大橋が見えた。
ここまで飛んできたのだ。まだ悔しさは消えないものの、じわじわと喜びが湧き上がってくるのがわかる。
『注目の記録を発表します』
ウグイス嬢のアナウンスが中継モニターから聞こえた。
『只今の、富士川スカイスポーツ学園、ナスカさんの記録は――』
咳きひとつなく静かに発表を待つ会場を焦らすかのように、アナウンスにしばらくの間が開いた。ナスカも日比も固唾を飲んでその静寂の一部になる。
『――3万!4664メートル10でした!』
ワアアアァァァッッッ!!
ウイングノーツが達成したばかりの大会新記録を10キロも更新する快挙に、会場から大きな歓声が起こった。その大きさに中継モニターのスピーカーが震える。
「お嬢様!」
日比が両手でナスカの右手を強く包みこんで喜びを伝えた。いつも傍らで支えてくれてきたその手を左手でさらに包みこむことで、ナスカも感謝を伝える。
「日比」
「はい、お嬢様」
「このままでは終われません。私は、お母様を超えることにしましたわ」
「それは……まさか!」
「私は、もっともっと飛びたいのです」
◆
ウイングノーツが乗るボートからプラットフォームのある会場が見えてきたときには、残りのフライトは2連覇中のディフェンディングチャンピオンであるマエストロだけとなっていた。
『さあマエストロ!今発進っ!』
北西から帰ってくるボートから、マエストロが向かって右方向に飛び出したのがかろうじて見えた。
『そしてそして!琵琶湖大橋を!目指しているぞー!』
マエストロがナスカと同じく南に向けてまっすぐ飛び出したことで、再度の大フライトを期待して実況と会場のボルテージがあがる。
ナスカの後も有力なトリ娘が何人も飛んだが、フーシェが15キロを飛んだ他はコロモの2.7キロが続くだけで、他のトリ娘は1キロを超えることができなかった。好条件に乗って距離を飛ぶためにも、それなりの力が備わっていないといけないということ。それが明らかな差となって現れた今大会、最後のドラマが生まれるとしたら、ここしかないのだ。
「マエストロ、どこまで飛ぶかな」
ナスカの大フライトの衝撃から落ち着きつつあったウイングノーツは、じっとマエストロが飛び去るのを眺めていた。
「そうね、少なくともフーシェの15キロには並んでくるんじゃないかしら。順調なら大橋だって……」
言いながら青葉は自身の言葉に違和感をおぼえざるを得なかった。今まで5キロを超えるか超えないかの争いをしていたものが、いきなりその何倍もの距離の話になっている。条件次第とはいえ、トリ娘のポテンシャルの高さをまざまざと見せつけられる大会となっていた。
ボートが実況席前の船着き場に着く間にも、マエストロは10キロ、15キロと順調に距離を伸ばしていく。
『今25キロを超えたー!なんという大会でしょう!ウイングノーツの対岸記録を超えて現在2位だー!』
「勘弁してよ……!」
実況席横の巨大モニターで観戦するウイングノーツの口から、思わず本音が漏れた。ナスカが大橋まで飛んだ今、同じ条件なら彼女もやるだろうとは思っていたものの、せっかく達成した『対岸』をこうも次々と抜かれると悲しくなってしまう。
しかし、その感傷も無線からの悲鳴で吹き飛ぶことになった。
『マエストロっ!翼が……!左の翼が!』
悲鳴は、マエストロのトレーナー行雲のものだった。
ウイングノーツと青葉が観ているモニターには、マエストロの左翼の先端が折れて上に曲がってしまっている様子が映しだされていた。
『わかっているわ!わかってるけどっ!』
カメラが、マエストロの苦悶の表情を映す。
『はぁっ!はぁっ!はぁっ!はぁっ!』
マエストロが、脂汗を流しながら飛び続けている。しかし、少しずつ少しずつその高度が下がっていった。
『マエストロー!頑張って!』
『あげろあげろあげろあげろー!』
行雲と、ボートに同乗している萩原レポーターの懸命な叫びがスピーカーを通じて会場に響く。
『さあ、30kmこえた!勝つのはどっちだ!女王か!三連覇の意地か!』
崩れた左右のバランスを無理やりカバーしているせいで、体力は限界を迎えているのだろう。だが、マエストロは今にも着水しそうになりながらも水面ギリギリで前に進む。
先程の気持ちも忘れ、ウイングノーツは拳を握りしめて友のフライトを見守った。
短くも、長くも感じる時間が過ぎたあと。
『あああぁぁぁーっ!!』
『マエストローっ!』
断末魔のような叫びと、行雲の声が重なった瞬間。
力尽きたマエストロは頭から水面に突っ込んだ。
画面に浮かんで、止まるマエストロ。
船着き場に立つウイングノーツ、実況、観客の誰もが押し黙った。
静寂の中を、ダイバーがマエストロを抱えてトレーナーの待つボートに泳いでいく様子が淡々とモニターに映し出される。
『――只今の、富士川スカイスポーツ学園、マエストロさんの記録は』
マエストロがボートに乗り込んだのを見計らって、静かな会場にウグイス嬢の声が響いた。
『3万2177メートル99でした』
『うああああぁぁぁっ』
マエストロの号泣が聞こえてくる。
『もっと飛べたのに!もっと飛べたのに!』
大粒の涙を流すマエストロを、行雲が優しく抱きしめた。
『マエストロ。あなたはよくやったわ。今まででは考えられない、すごい記録よ』
一瞬、行雲が顔を上げて南を見た。カメラが追ったその視線の先にあるのは、琵琶湖大橋。
『大橋、すぐそこに見えるじゃない。こんな景色が見れるだなんて思ってなかった。……ここまで連れてきてくれて、ありがとう』
嗚咽するマエストロを行雲が再び抱きしめた。モニターに映るその師弟の光景に、誰からともなく拍手が起こる。大きなうねりとなったその拍手は、記録的となったこの大会を締めくくるように、しばらくの間続いていた。
◆
夕日が琵琶湖の西岸に沈もうとしている。
ウイングノーツは、プラットフォームの上に佇んで、夕日の右側――自身が着水した北西の方角――を眺めていた。表彰台に登った3名によるステージのために再びこの舞台に戻ってきたのだが、今日一日でいろいろなことが起こりすぎて、まだ気持ちの整理がついていない。
「早いですわね」
後ろからの声に振り返ると、そこにはナスカの姿があった。
「ああ、ナスカさん。優勝と大会新記録、おめでとうございます」
「ありがとう。貴女こそ、対岸到達おめでとう」
「ありがとうございます。でも、お二人には完全にやられました」
悔しそうにしたウイングノーツを見て、ナスカはフッと笑った。
「悔しいのは私も同じですわ。私は無様な姿もお見せしてしまったようですし」
ナスカはウイングノーツと並んで湖面を見つめた。その目線は南西を向いている。
「ルール上仕方がないとはいえ、余力を残したまま着水したのはお互い様。もし琵琶湖が今の3倍も大きければ、貴女の方が私よりも飛べていたかもしれませんのに」
「いや、そんなことは……」
「もしかしたら、の話ですわ。もっとも、その条件でも私は貴女よりも長く飛ぶ自信はありますし」
胸を張るナスカに、ウイングノーツは苦笑するしかない。
「……あ。いえ、その、私はそんなことが言いたかったのではなく」
ウイングノーツの表情を見てとって、ナスカがやや取り繕う物言いをしたあと、ウイングノーツの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「貴女の『対岸』が無ければ、私は吹っ切れなかったし、『大橋』にも行かず今日の記録も存在しなかったでしょう。それを伝えたかったのです」
「ナスカさん……」
「私の記録もね」
左翼に包帯を巻いたマエストロが、ウイングノーツとナスカの間に入り込んできた。
「マエストロ!……翼大丈夫?」
「折れているといっても翼の先だけだからどうってことはないわ。固定したからステージで歌うくらいは余裕でできるわよ」
「よかった」
「3人揃ったことですし、まずは今日の記録達成を喜びましょう。そうしませんとステージも盛り上がりませんわ。大会が今後どうなるかはわかりませんが、私はおかげさまで次の目標もできましたし、前を向く必要があります」
生徒会長らしく、ナスカが仕切りに入った。スタッフも次々とプラットフォーム上に集まってきている。
「フン」
マエストロが前に進み出て、2人の前で立ちはだかるように向き合った。
「次回は優勝を取り返して、そこから今度こそディスタンス部門初の三連覇を達成するわ」
負けじとウイングノーツも続く。
「目標だった『対岸』は達成できたけど、結局優勝はできてないんで。次こそは初優勝してみせますよ!」
「あら、簡単に勝てるとお思い?」
「アンタには絶対負けないからね!」
「なんでアタシのときだけ対抗してくるんですかぁ!?」
この日、琵琶湖とルールの限界まで飛んで大会記録を塗り替えた、ナスカ、マエストロ、そしてウイングノーツ。
この大会以降、飛行距離を伸ばすために変更された新ルールのもとで、実に10大会以上の間この3人によってトリ娘コンテストの優勝が奪い合われることとなる。
スカイスポーツ学園所属であるこの3人のトリ娘は、いつしかこう呼ばれるようになった。
――学生三強。
トリ娘コンテストの新たな時代が、今、幕を開ける。
第二章『対岸編』・完
第三章『学生三強編』に続く




