第28羽 Over The Top
『素晴らしい記録を発表します』
ウイングノーツがボートに落ち着いたのを見計らったように、ウグイス嬢のアナウンスが入った。青葉もノーツと一緒にスタッフのボートに積んである中継モニターの前に座る。
『――只今の、富士川スカイスポーツ学園、ウイングノーツさんの記録は――』
ボートと会場の誰もが動きを止めて、その発表をじっと待ち構えた。
『――2万4823メートル01でした』
『ウイングノーツ!ソラノセプシーの記録を超えて大会新記録です!!』
「「やったー!」」
ウイングノーツと青葉が抱き合う。風に恵まれたとはいえ、目標の対岸到達を達成し、オマケに憧れのソラノセプシーを超えた快挙に喜びが止まらない。
「ありがとう!」
ウイングノーツは空に叫んでいた。支えてくれた青葉、チームメイトのクラウドパルと春風、地元のみんな、アドバイスをくれた先輩たち。そして、厳しいトレーニングを乗り越えてきた過去の自分に。
ウイングノーツは、笑顔で再び拳を天に掲げた。
◆
ウイングノーツの歓喜の様子は、ボートのカメラを通じて湖の反対側にある会場の中継モニターに映し出されていた。そして、ナスカの目の前にある日比が持ってきた小型モニターにも。
――なんて娘だ。
ナスカはモニターの前で立ちすくんでいた。
風の条件がいいことを差し引いたとしても、ディスタンス部門挑戦4回目で、ナスカはおろかここにいるトリ娘全員、ましてや卒業したソラノセプシーの大記録まで塗り替えてしまうなんて。
『対岸』記録をさらに超えた『対岸』フライト。モニターに映し出されたGPSの航路を見ると、意図してかは分からないがうまく深い湾の奥までに入って距離を稼いでいる。これを超えることなど誰ができると思うのだろうか。ましてや私に期待することなど。
「あはっ」
意図せず、笑い声が出てしまう。
「あはっ、あははっ、アハハハハハハ」
「――お嬢様?」
いつもならば日比が端ない笑い方とたしなめてくるはずだが、さすがに彼も突然のことに訝しげで止めに来ない。
「アハハハハハハ」
笑いながら、何か自分の中にいたものが抜けてスッキリしていくのを感じる。
「ハハハハ……はぁ。……ゴホン。――失礼しましたわ」
ひとしきり笑ったところで、ナスカはいつもの『女王』モードになって襟を正した。
だが、もう重圧はない。対岸すら、ない。ただ、自分が飛べるところまで飛ぶ。それだけ。
「日比」
「はい」
真っ直ぐに、今日まだ誰も飛んでいない南方向を指差してナスカは微笑んだ。
「ウイングノーツが対岸を極めたならば、私は南に飛びますわ」
ただウイングノーツの通ったルートを追うだけではそこ止まり。
今だ天候は好条件。ならば、自分なりのルートで、自分の限界まで飛んでみるのだ。
『只今プラットフォーム上におりますのは、富士川スカイスポーツ学園、ナスカさんです』
聞き慣れたアナウンスを受けて、ナスカがプラットフォームに立った。
ウイングノーツのフライトが終わった後、何人か飛んだようだがいずれも1キロを超えるフライトではなかった。ウイングノーツと同じチームのトリ娘も飛んだようだが、すぐに距離が発表されていたのでうまくは飛べなかったのだろう。
そう。風の条件が良いからといって、誰もが長い距離を飛べるわけではないのだ。
『さあ、また注目の選手がやってきました。これまで優勝最多の5回、ナスカ選手です』
『こちらも千メートルは当たり前という選手ですが、前回は不調でした』
あはっ、とナスカは笑った。
そう。飛べる人間だって毎回同じように飛べるわけではない。前回は前回。限界まで思いっきり飛ぶと決めた今、もう何も迷いはなかった。
「ゲート、オープン!」
離陸可能の合図を受け、ナスカは翼に力を込めた。
「行きますわ!3、2、1、スタート!」
駆け出し、揚力を感じながら飛び出す。
『さあ、去年の雪辱なるか? 琵琶湖を知り尽くす風のスペシャリストが今ゆっくりと飛び出しました!』
ナスカは、プラットフォーム上で走り出したときと同じ高度のまままっすぐ南に飛び続けた。
「お嬢様ぁー!まずは多景島に向かいなされーっ!」
「日比、今からそんなに叫んでいると声が枯れますわよ」
インカムを突き破るような日比の叫びに苦笑しながら言葉を返す。そういえば、こんないつもの他愛ないやりとりも、湖上ではしてこなかった気がする。
ふと視線を横に向けると、鳥がナスカと並走して飛んでいるのが見えた。青い空と輝く湖。右前方の多景島と、湖の向こうの陸地の緑。これまでは風や他の選手達に負けずに飛ぶことに必死で周りが全く見えていなかったが、飛びながら見る景色はこんなに綺麗だったのかと、ナスカは楽しく感じた。
気持ちいい。もっともっと、行けるところまで飛びたい。
ナスカは翼をさらに羽撃かせた。
『ナスカ選手、今5キロを超えました!』
多景島が右手に見える。風も落ち着いているので飛びやすい。
「お嬢様ぁー!疲れはどうですか!」
「余裕ですわ!」
実際、トレーニングよりも疲れていない。ナスカは、今日はどこまでも飛んでいけそうな気がしていた。
◆
「ノーツ!」
プラットフォームのある大会本部に戻るボートの上。ウトウトしていたウイングノーツは青葉の声に起こされた。
「あ、青葉さん。どうしました?」
「これよ」
青葉が示したのはボートに積まれていた小型の中継モニター。誰かのフライトが映っているが、その横に見慣れない大きな島が映っている。
『何という大会でしょう!ナスカ選手が今、沖島の横20キロを超えてきました!』
「はい?」
ウイングノーツは一瞬耳と目を疑った。沖島といえば、琵琶湖の南方に位置する一番大きな島。今までトリコンの大会でそれが映像に映ったことは一度も無い。
『これでウイングノーツ選手の記録はおろか、琵琶湖大橋が見えてきました!』
琵琶湖大橋は琵琶湖の南端にあり、プラットフォームがある彦根市からは30キロ以上の距離がある。もはや『対岸』どころの距離ではない。
確かに、自分でさえ対岸まで飛べたのだから、同じ条件ならばナスカがそれ以上に飛べるであろうことは想像できる。頭の片隅ではわかってはいるものの、対岸に到達して達成感に満たされていたウイングノーツにはすぐに飲み込める状況ではなかった。
その間にも、ナスカはのびのびと距離を伸ばしていく。
『今、ナスカ選手が25キロを超えて大会新記録を更新しました!』
『この先には35キロの地点にある琵琶湖大橋があるだけですね』
『そうです!琵琶湖大橋!スタッフですら予想だにしなかった究極の目標に向けて、今、ナスカ選手が徐々に徐々に近づこうとしています!』
持っている実力を完全に発揮して自分の記録を軽々と超えていったナスカの姿に、ウイングノーツは呆然とするしかなかった。
……どれくらいそうしていただろうか。
「ちょっと雲行きが怪しくなってきたわね」
しばらくして青葉から漏れたつぶやきに、ウイングノーツは意識をモニターに戻した。もう琵琶湖大橋まで辿り着いたのだろうか。
「なぜ!?何が起こってるんですか!?」
モニターが映し出した映像に、ウイングノーツは再び目を疑うことになった。
――そこには、なぜか琵琶湖大橋に背を向けて逆走するかのようなナスカの姿が映っていたのだ。