中編
それからは憂鬱な日々が続いた。
「は、初めまして……私——セリナ・アーミットと申します」
「あぁ、君が私の婚約者か。陛下から話は聞いている」
宮殿へと招かれ、これが初めての顔合わせだった。
婚約者というだけあって、一緒にいる機会はそれなりにあったけど——気まずい。
二人の間は重い空気で支配され、思い切って話しかけても目立った返答のものはない。
私に対して興味のかけらもなく、いつもつまらなそうに憮然としていた。
——本当にこの人と結婚するの?
婚姻の儀が近づくに連れて、日に日に不安は募る一方だが。
気づけば彼はいなくなっていた。
この空気に痺れを切らしたのだろう、何らかの理由を言い残してどこかへと立ち去っていく。
今回もそうだ。もう三度目だというのに私一人庭園のベンチに腰掛けて、寂しい時間が過ぎて行く。
何なのだろうな、何故ベルエス様は私を婚約者に?
「お姉ちゃん! あれ? 兄上はどこ行ったの?」
無邪気そうな声色で私の元へやってきた少年——ルーシュ。
歳は私の二つ下で、ムルタリア帝国の第二皇子であり、ベルエス様の実の弟にあたるお方。
「ルーシュ様……ベルエス様はまたいつものように、どこかに行かれたようです」
「じゃあ、またボクと一緒に遊ぼっ!」
「は、はいっ! 喜んで!」
私がポツンと一人でいる時に、ルーシュ様は決まって寄り添ってきてくれた。
もし弟がいたら、こんな感じなんだろうなって思いを馳せつつ。
ここに来てから心が和む唯一のひと時。
不安な気持ちを紛らわせてくれる、ルーシュ様はまさに私の癒しだった。
そんなある日。
宮殿内部を歩いていると、通路を横切るベルエス様のお姿が。
周囲を気にしながら、興奮した様子で足早に移動していた。
——ベルエス様……? 一体どこへ? もしかしたらベルエス様のこともっと知れたりして。そしたらちょっとは話のタネも見つかるかも。
私は興味本位でベルエス様の後をつけ始めた。
柱の陰を転々と隠れながら移動。
悟られないように気配を消しつつ追っていると、ベルエス様はある一室の前で立ち止まり部屋の中へと入って行く。
——あそこって、確か……ベルエス様の部屋、じゃなかったような? どうだったっけ?
まだ宮殿に来てから日も浅く、とてつもなく広い間取りを覚えきれてはいない。
私は彼の入っていった部屋の方へと近づいて行こうとすると。
「——ルーシュ様?」
突然、目の前には立ち塞がるようにして、小さき子供が私の瞳を一心に見つめていた。
その面持ちは以前までの子供らしい無邪気さは微塵も見られず、その場に立っているだけなのに圧迫感のようなものを感じていた。
「ダメだよ。お姉ちゃん。そっちには行かない方がいい」
「ですが、今ベルエス様が、そちらのお部屋に……」
「お姉ちゃんのためだよ。でも見るって言うならボクももう止めない」
首を横に振りつつ、私に道を譲る少年。
ルーシュ様は幼き容姿から発せられたとは思えない無感情な口調で忠告——私は恐怖すら覚えていた。
——やはり行かない方が良いのだろうか?
いざ扉の前まで迫ると、先ほどのルーシュ様の言葉が脳裏を過り思い悩んだ。
しかしこのまま引き下がっても——どうしても気になってしまう。
ベルエス様のあの表情、何かがある。
結局、私は好奇心という名の欲求に負け、部屋の扉を少しだけ開けて中の様子を伺った。
ゆっくりと音を立てずに息を潜める。
小さな明かりだけが灯された薄暗い部屋だった。
部屋の中心には広々と大きなベッドの上にシルエット。
ベルエス様だ、とすぐに分かったが私は部屋に広がるその光景に目を疑った。
「あんな獣女より、やっぱエリザお前が一番だよ!」
醜悪な笑みを浮かべ、ここにはいない婚約者の愚痴を溢す。
傍で金髪の女性の肩を抱いて、仲睦まじく身体を寄せていた。
「フフフッ! そんなに言ったらかわいそっ! それに今回の婚約——陛下からの直接の命令でしょ?」
「何でもあの獣女の力がどうのこうのとか言ってたけど、陛下も俺をあのような下民と結婚させようなどと理解に苦しむ」
「あら? でも案外、可愛い子じゃないっ? ケモノとしてはだけどっ! 私嫉妬しそうになっちゃったもんっ!」
「フッ! 誰があんな化物女を好き好むかよ! 婚礼の日に衆目に晒しながらあの女を捨ててやるさ——ハッハッハ!!!」
それからも彼らの私に対する罵声は続いた。
何事も無かったかのようにそっと扉を閉める。
空間の断絶。もう見ていられなかった。
一刻も早くその場から立ち去ろうと足を動かそうとするが。
「——な、なんで……?」
気が抜けて身体が動かない。
私はそのまま地べたにぺたんと、座り込んでしまった。
身体に上手く力が伝わらない、何とかもがいて起きあがろうとすればするほど、沼に嵌ったみたいに脚は言うことを聞いてくれない。
——もう、どうでもいいや。
分かっていた。所詮私の価値なんてそんなものだと。
本当に私を愛してくれる存在なんてこの世界にはいない。
他の人とは違う容姿。
両親から受け継いだこの勇ましい姿も、私にとって初めて嫌気が差した。
こんな醜い容姿を持った私に打算なく近づいてくる——そんなお方を夢見ていた私が悪かったのだ。
遅かれ早かれ現実は突きつけられる。
だから中を見てしまった、それ自体に後悔はない——無い、けど。
「——あ、あれ……どう、して…………」
頬を伝いながら、自然と涙で溢れていた。
両親からも結婚相手からも見放され、道具として扱われ続けた無意な人生。
嫌だった。もう何のために生きているのか、自分でも分からなくなっていた。
「大丈夫だよ——お姉ちゃんっ!」
「——へっ…………?」
その時。
突如、重心が前に傾いて額には硬い感触、そして同時に視界が黒く闇へと染まった。
でも温かい。冷たく凍った私の感情が全て溶かされて行くように。
幼いながらも彼の腕の温もりは確かに感じていた。
「ここにはボクしかいない。ボクしか見ていないから」
「——ル、ルーシュ……様…………」
周囲のことは気にしなくて良いんだよ、ルーシュ様のその気遣いに私の方が年上ということも忘れて、人目も憚らず泣きじゃくる。
ルーシュ様は知っていたのだ。
ベルエスが私の元を離れた後、何をしているのかを。
だから私を遠ざけて、守ろうとしてくれていたのだ。
皇族とはいえ私よりも年下の男の子に慰められ、自分が情けないとは思いつつも心は温かい。
張り詰めた精神が続いた日々において、ここまで気が落ち着けた瞬間というのもとても久しぶりだった。
そうしてしばらくの間、私はルーシュ様の懐で甘え続けて。
ハッ! と我に返った私は——
「し、失礼いたしましたルーシュ様! それとお気遣いありがとうございます」
「元気出た? お姉ちゃん?」
「それはもうこの通りでございます! ご心配おかけいたしました!」
いつもの私を見たルーシュ様は「良かったぁ〜」とあどけない笑みを浮かべる。
ごく普通の王族としての嗜みなんだろうか。
真意は分からないけど、すでにルーシュ様はいつもの子供らしさ全開の姿に戻っていた。
「お姉ちゃんはさ。兄上と本当に結婚したいの?」
と、思っていたら。
急に核心を突くような質問を投げかけてくる。
しかしこれまでのような、人が変わったみたいな様子はない。
純粋に素朴な疑問として尋ねられているようだった。
「結婚——したいのかな……分からない。でも両親も喜んでくれるし家の爵位も元に戻るし……」
「そうじゃないよセリナ。ご両親や爵位の話の中にはセリナの本心が入ってない。それって本当に結婚したいのかな?」
ルーシュ様の指摘に心を抉られたような気分だった。
そうだ。私の本心は結婚なんて望んでない。
彼の言う通り図星だった。
「そうですね。その通りかもしれません。もし、私の結婚相手がベルエス様でなく————」
——ルーシュ様であったら。
私はそう口にしそうになったのを寸前で止める。
それをルーシュ様に話してしまうのは、愚痴になってしまい失礼に値する。
つまりは私もベルエス様と、同じ土俵に上がってしまうと考えたから口にするのを止めた。
「もう答えは出てるんじゃないかな? それに陛下である父上が何故セリナとの婚約に拘るのか——その理由もね」
「ルーシュ様は、どこまで……知っておいでなのですか? 知っておられるなら、尚のこと…………私が怖くないのですか?」
「お姉ちゃんは優しい、優しすぎるんだよ。だから周囲の人たちもその優しさにつけこんでお姉ちゃんに酷いコトをする」
「——ルーシュ様…………」
「ボクはお姉ちゃんが好きっ! だから悔いのない選択をして欲しいし、後はお姉ちゃん次第、だよっ!」
お姉ちゃん次第、ルーシュ様のそのお言葉が何度も胸の内で残響する。
このままでは悔い以外、何も残らない。
両親にしてもベルエス様にしても、このまま言われるがままで本当に良いのだろうか?
それに幸いなことに婚約は破棄される。
私自身の自由を奪い去ったあの人たちには罰を与えなければならない——心の奥底に沈めていた感情が沸き上がり私の中に宿り始める。
心の中には徐々に——少しずつではあるが黒い衝動が拡がっていった。