前編
ムルタリア帝国。
私の家名であるアーミットは国に認められた、由緒正しき貴族の家系だった。
“だった”——過去形を使うのも、貴族だったのは一昔前の話で。
祖父母の代で貴族としての地位を失っていた。
いわゆる没落貴族というやつらしい。
私の父は白狼の獣人、母は人間のハーフとして生まれた。
人間寄りの身体つきをしてはいるものの、所々に父の面影がある。
特に手足の体毛は中々に威厳のある姿。
でもそれを苦に思ったことは一度もない——というより些細なことにしか思えない、当時の生活の方が深刻だった。
幼い頃から貴族の恩恵を享受することなく、生活自体は大変なものだった。
というのも、祖父母がまだ貴族だった頃の私の両親は、子供時代に堪能した贅沢な暮らしを忘れることができず散財の毎日。
狂った金銭感覚だけは貴族顔負けで、身の丈に合わない生活で蓄えはすぐに無くなっていった。
こうして私たち家族は貧乏人となり、その日の食い扶持にも困る生活に。
想像以上につらかった。
食べ物を買うお金もないので、その辺の草や木の実。
酷い時には虫を口にして、ひもじい思いをしながら飢えをしのぐ。
当然飲み水もないので、汚染された川、水溜りの泥水は当たり前。
そんな時は——私が空腹で野垂れ死にしそうな様子で家々を歩いていると。
憐れみの目で私に声をかけて、
「うんうん、お嬢ちゃん。辛かったねぇ〜、これ食べな」
そう言われて、よくご近所の方々に水と食料を分けて貰うことを頼りにしていた。
プライドは一切ない。いつまでも夢を見て、貴族にしがみつきたがる両親とは違う。
そうでもしないと生きていけないくらい私たち家族は困窮していた。
ただ稼ぎが全くないわけでもなく。
私自身も稼ぎの手段と見なされ、私は人並み以上に多くの魔力を保有していたことから、魔力売買でお金を得ていた。
この時だけは貴族の血筋が役に立ったと実感。
まあこの家の生まれでなければ、こうもならなかったとも考えが過ぎるけど。
そのお金が日々の生活の支えに——なることはなかった。
当たり前のように両親に搾取され、すぐに己が欲望を満たすために使い果たす。
長年培われた豪遊生活は、そう簡単には抜けなかった。
そんな両親に嫌気が差した私はいよいよ独り立ちを決意——十四の歳だった。
今は魔力だけでなく魔法も覚えたので、モンスター狩りや希少鉱物の採取を主に行っている。
危険は伴うけど、何とかお金に余裕のある生活は送れている。
両親に縛られることなく、割と悠々自適に暮らせていたのだが。
朝方、郵便受けを確認していると——
「手紙? ——あぁ…………」
差出人の名前を見た途端、ちょっと開封するのが億劫になる。
存在すら忘れられていたと思っていた私の元に、両親から一通の手紙が届いた。
長々と元貴族とは思えない、汚い字で書かれていた手紙の内容を要約するとこうだ。
——親愛なるセリナちゃんへ。大切な話があります。至急本家まで戻ってくるように。
手紙を読み終えた私は「はぁ〜」と一つため息を吐いていた。
「何が本家よ。偉そうな言い回しをして」
本家とか言えるほどの大層な家じゃない。
部屋も一つしかないボロ屋。
夏は茹蛸になりそうなほど暑く、冬は全身が凍結しそうなほど寒い思いをさせられる!
何なら私が今借りている部屋の方が遥かに快適に暮らせるよ。
「未だに感覚が抜けきれていないじゃない。もういい加減にしてよ!」
——戻ってこい……かぁ〜。
せっかく一人でも、それなりに楽しめてたのになぁ。
あの親のことを思い出すだけで、ちょっとだけ気が悪くなる。
でもダンマリを決め込むと、こっちまで乗り込んで来そうだし。
「——戻るしかないか……嫌だけど…………」
これ以上、私の生活圏を荒らされない為にも!
何年かぶりにあのボロ屋に帰ることを決意した。
私はその日のうちに実家に帰省——律儀にもね。
そして会って早々。
両親に出迎えられた私は開口一番「「おめでとうっ!」」と熱烈な歓迎を受けた。
——は?
状況が理解できなかった。
ただ二人の熱量だけは凄まじい——何かに魅入られたような目に怖さを感じるが。
何が何やら分からない私に、母が少しずつ足すように補足を言い始める。
「第一皇子様よ! 第一皇子様っ!」
「えっ? 第一皇子が何なの?」
「だからっ、第一皇子のベルエス様が直々に婚約者としてあなたを指名したそうよ!」
「——ん!? はぁ〜!!!」
私は呆然と固まった後、驚嘆の声を上げた。
いやいや、あり得ないでしょ。
ただの没落した元貴族にそんな上手い話、ある訳——ないない。
だから私はこう言い放つ。
「騙されてるんじゃないの?」
当然、そんな話が降って湧いてくるはずがないと、私は疑いの眼差しを向ける。
だがそう言われるのは分かってましたとばかりに、母はすぐさま一枚の紙を私に見せつけた。
「はい、これが正式通達の書面ね」
そこには今回の婚約についての文言がつらつらと記載。
正式な書面が送られたと主張する母に、私はまだ疑り深く信用はできない。
まあ確かに素材は全く違うけど。
いつも使っているような安物の紙ではなく、肌触りの良い高級なやつだとすぐに分かった。
文面の最後には“ベルエス・フォン・ムルタリア”とサインが施されているが、直筆っぽい——誰の筆跡なのかまでは分からないけど。
しかしそれだけでは無かった。
母が渡してきた書面の下にはもう一つ、大層な刻印で封をされた分厚い封筒が隠されていて。
「——え……えっ、えっ!?」
中身を見た途端、その重みに更なる動揺招いていた。
確認すると、今の生活水準だと二年は余裕で暮らせるぐらいの額が納められており。
送られた手紙は金一封のオマケつきだったのだ。
「疑いは晴れた? 私たちにここまでする理由他にないでしょ?」
「………………」
「セリナちゃんにとっても良いお話だと思うし、当然了承するわよね?」
言葉にならなかった、と同時に。
今思えば、私はこの婚約を初めから拒否したかったのかもしれない。
どうしても前向きに捉えることができなかったのだ。
疑り深かったのも、突拍子もないそんな話を信じたくない、その裏返し。
すでに私の内心は不安な気持ちに駆られていた。
本当に第一皇子から婚約の申し入れがあったのだとしても、私は——
「私はまだ結婚する気は……今の生活、楽しいし…………」
「ダメよセリナちゃん! チャンスを逃しちゃっ! せっかく相手方がその気になってくれているというのに——ていうかもう了承したけどねっ!」
「——へ……? な、な、何で!?」
私の気も知らないで両親は鼻息荒く、あれよあれよと勝手に話を進めて行く。
しかも私が書面に目を通す前に、すでに国に了承の返事をしていたという。
当然、激昂した——頭が真っ白になった。
何を考えているんだと、通すべき人に話をする前にこの人たちは!
しかし二人は私の話など気にも止めずに、大喜びしながら彼らは笑っていた。
「いやぁ、良かったわねお父さん! これで私たちは再び貴族としての地位を確立できるわっ!」
「——えっ……?」
ズキっと、刺すように胸が痛んだ。
母からしたら何気ない一言でも、私の感情は時が止まったかのように凍りつく。
両親はとても乗り気だ——本人の気持ちを蔑ろにしたままで。
この人たちは私を見ていなかった。
見ていたのは貴族としての地位、アーミットの家の名を高位の名に戻すことしか頭になかったのだ。