乳首に生えた毛
女性としての悩み一位か二位を争うのは生理だろうが、男女共通の身体の悩みでランキングを取った時、毛についての悩みがトップにくるのは間違いない。
男性であれば、頭髪の事が非常に気になってくるだろうし、女性であれば、すね毛とかが気になってくるものである。男性であってもすね毛は剃っている人がとても多いだろう。が、男女ともに一番、謎として思っているのは、胸の乳首の周りに生えてくる毛だ。
乳輪の周りに生えてくる毛というのは、本当に謎だ。例えば頭髪は、頭を守るために生えてくるというし、陰毛であれば外部からの細菌やウィルスから守るとか、腋毛と同じく温度を一定に保つという役割がある。しかし、それであっても、乳毛というのは何の役に立つのか。
「もう嫌!」
私は毛抜きで乳輪周りの毛を抜きながら言った。
時刻は深夜1時、もうすっかり、今日になってしまった彼氏との約束があり、私は前身のムダ毛を処理していた。
毎日お風呂の時にするすね毛や腋毛は問題なかったが、体を洗っている時に、乳首の周りに毛がうっすらと細いのが数本生えてきているのに気付き、家族が寝静まった夜中に、洗面所でこっそりと毛抜きをすることにしたのである。
「こんな乳毛なんていらない!」
乳毛を全部抜き終わって、そう言ってからベッドへと入った。
「ちょっと待って!」
突然の声に私は目を覚ます。見れば、枕元には可愛らしい白い毛むくじゃらの生き物がいる。二足歩行で歩いており、私は小さくてかわいい奴を思い出した。いや、まさしくそんな感じの様子の生き物がいる。あるいは、日曜朝にやっている女児向けアニメの妖精だ。
もしかして、高校二年生の私にもついにその時が来たのか。
「あ、あなた何? もしかして、妖精さん?」
「そうっチ! 僕は乳毛の精霊、チッチキチーだっチ! 僕の話を聞いてほしいっチ!」
「最悪だ」
最悪すぎる。
なんだ、乳毛の精霊って。仮にここから何かしらの変身できるとしても、乳毛関連になるのが確定している。最悪すぎる。FANZAで取り扱われるような訳の分からない展開が待っているのが目に見える。最悪すぎる展開しかない。
「乳毛にだって存在意義はあるっチ!」
「えぇ……本当? 絶対嘘だよ」
「本当だっチ! 嘘だと思うなら地に埋めてもらっても構わないっチ! なんなら、ラーメンに混ぜてもらっても良いっチ!」
必死な態度が余計に嘘くさく感じられた私だったが、ともかく、布団を頭まで被って寝ることにした。これ以上、訳の分からない存在に関心を割くのは無意味だと思っていたからだ。どっちみち、これは夢に違いないし、朝は彼氏とのデートが、クリスマスデートがあるのだからそれに向けて眠りたい。
ぱっとスマホのアラームによって目を覚ますと、枕元で乳毛の精霊はいびきをかいて寝ていた。
絶妙に可愛くない生態をしている。
「って、そんな事を気にする余裕ないよー」
私は布団を跳ね除けて、化粧を始めた。今日は先輩とのデートだ。急ぎ足に準備をして、化粧品などが入った小さな鞄を手に家を出る。駅前まで駆け足に走って、予定していたよりも少し早い時間の電車に乗り込むと、ようやっと、落ち着けた。
憧れの先輩である。
同じ高校に所属する先輩は、かっこよくて、すらりとして、かっこいいのだ。俳優で言うなら、若い時の小栗旬みたいなそんな感じである。かっこいいから他の女の子からもわーきゃーと黄色い声が来る。そんな先輩と私がデートするようになったのは、何のアレか、偶然が重なっただけである。
「これが電車っチかぁ」
鞄の中から珍獣がひょっこりと顔をのぞかせていた。ひょいと飛び出たその珍獣はふわふわと浮き上がり、電車の中のあちらこちらを飛び回っている。何の反応を他の客が見せないことから、おそらく、私にしか見えていない。反応を返すのも嫌なので、私は、窓ガラスに映る自分の姿を見て、髪型を整えた。
「よ、待った?」
待ち合わせから五分遅れて、先輩が現れた。先輩はかっこいい。もう、本当にかっこいい。ぱしっと決めたタイトなパンツに少しサイズの大きい上、キャップを被っているのは流石スポーツマンっていう感じだ。
「じゃ、いこっか」
そうして連れて回られたデートだったが、とても楽しかった。映画を見て、ショッピングをして、ゲームセンターで遊んで、そろそろ小腹が減ってきたから喫茶店にでも入ろうかと、小さな喫茶店に入った時だった。その喫茶店の大きな窓ガラスの窓辺の席へと通された私たちは、店員がメニューを持ってくるのを待った。
おすすめのパンケーキと飲み物をいくつか頼んだ時だった。
「あ、悪いけど、出て行くわ」
先輩が突如、そう言いだした。突然の事で私はもちろん固まったし、店員はパンケーキを置こうとした手をそのままに理解できないという風に固まった。何も罪もないパンケーキからは暖かそうな湯気が立ち上っているし、甘い匂いが私の鼻腔をくすぐった。
「先輩、どうしてです?」
「おいおいおい、この店員を見てみなよ」
私は言われるままに店員を見た。普通の学生に見える。私と同年代か、いや、もしかすると、自信なさげではあるが、私より先輩よりも少し年上というような男性だ。
「見た目が不快すぎるだろ。指を見ろ、毛が生えている。こんな毛むくじゃらの指で、口に運ぶものを運んできているなんてとてもじゃあないが、信じられないね」
言われた通り、見てみれば指の第二関節から第一関節にかけて毛が数本生えている。
「いや、そんな事は」
「あと、声が不快だよ。謝罪しないでほしい、耳障りだ」
店員は何とも動きが取れなくなり、パンケーキを置くと立ち去った。
「このパンケーキ! 毛が入っているんじゃないか?!」
立ち去っていく店員に向けたものではなく、店中に聞こえるように先輩は言った。
「まったく、毛深い人間っていうんは本当に困る。自らがまき散らす毛が、どれだけの人に迷惑をかけているのか理解しようとしない。人間は毛が無いのが一番だ。君はいい。すね毛もないからね。毛が生えているなんて言うのは、動物と一緒だよ。薄毛もダメだけどね、髪の毛。禿も人権はないよ」
「か、かっこいい」
私がぽろり、と言葉を漏らした。
パンケーキの隣にいる珍獣は、あんぐりと私を見た。
「んなわけないだろ」
私はテーブルの上にあった水の入ったピッチャーを手に取ると、先輩へ向けてぶちまけた。冷たい氷水を真正面から被った先輩は、顔からびっしょりと水を滴らせている。最初に、かっこいいと褒めたのは気を緩ませるためだ。間抜けに顔を誇っていた顔は、今、驚きと屈辱に染まっているし、涙かピッチャーの水かわからないものが目に浮かんでいる。
「ばーか、死ね」
私はそう言うと、買ってもらったプレゼントの入っている紙袋を残したままに店を出た。
それが私と先輩の最後の会話になった。以降、しつこいメッセージや、登下校の時に待ち伏せをされていたりもしたが、その度に、辛辣な言葉を往来で返した。さすがに先輩を不憫に思った知人が諫めてきたが、事情をクラスメイトに説明したりすると、女子生徒は味方してくれた。
男子生徒は大半が味方してくれて、とりあえず、デートに、と言われたが今の所は保留している。
「どうだっチ? 乳毛も悪くないっチ?」
「うるせー。ばーか」
私は今日も、風呂に入って乳輪周りの毛を見ながら言った。
抜いても抜いても生えてくる。
こればかりは、どうしようもない。
「で、あなた、何ラーメンにすると美味いの?」