焦りと王子とヒロインと
アニカは自室で一人ベッドにうつぶせになって枕を抱きしめていた。言っておくが別にお尻が痛いからではない。なんとなくうつぶせの気分なだけだ。心配して慰めようとする母や使用人を追い出し、夕食も取らずにずっとこうしている。絞るように抱きしめられ変形した枕の姿が気の毒になってくるほどだ。ひどくうちひしがれただ事ではない様子だが、ピンクと白で統一された乙女ティックなデザインの部屋のせいで悲壮感がやや打ち消されている。
アニカは珍しく本気で落ち込んでいた。さすがに肛門を攻撃されるとは思いもよらなかったし、相手がおそらく少女であるとはいえ尻を突かれた羞恥と屈辱は今まで味わったことのないみじめさだった。さらに許せないのは、それをリリアの前でやられたことだ。リリアは心からアニカを心配したのだが、それがかえってアニカをいらだたせた。今なら怒りの力で普通のツインテールを縦ロールにできそうだ。
しかも侵入者はなぜかアニカの本性と計画を知っていた。そのことを考えると焦りで頭が熱くなる。
何とかごまかしたが、リリアに不審に思われなかっただろうか。後で気が動転していたせいだとフォローは入れたが使用人たちの前でリリアに暴言を吐いてしまった。大丈夫だっただろうか。リリアを陥れるためにこれまでいろんなことをコツコツ積み重ねてきたのだ。無駄にしたくない。
(いったいどこから漏れたの?私は誰にも言ってないのに!)
悔しさのあまりアニカは唇をかみしめる。不審な侵入者の正体はわからないが、誰かに雇われている可能性もある。そうだとしたら雇い主がアニカの計画に干渉しようとしていることは明らかだ。それも転移ができるレベルの魔術師を使って。もしかしたらリリアがアニカの企みに気づいて魔術師を雇ったのかもしれない。アニカは時間をかけてリリアを陥れるつもりだったが、悠長にしてはいられなくなった。
(急がないと。瞬時に決定的にリリアを悪者にできる一撃が必要だわ!)
********
肩まである水色の髪をなびかせて、足取り軽やかに少女は秘密の待ち合わせ場所に向かっている。ひざ丈のスカートからのぞく華奢な脚は小鳥のようだ。少女は音楽室の横にいくつかある練習室のうち、一番奥の部屋へ歩を進める。貴族学院には音楽や美術を練習するための部屋がいくつかあるが、たいていの貴族の子女は自宅に教師を呼んで練習するので試験前や学園祭前しか使う者はおらず、普段はほとんど誰もいない。
少女は奥の部屋にすでに先客がいる気配を確認するとノックをして扉を開けた。
「こんにちは、イザーク様」
「ああ…よく来たね。アリス」
彫刻のように美しい先客――イザークは、小鳥のような少女アリスを見てふっと優しい笑顔を浮かべた。そのどこからともなく光が差し込んできそうな優しい表情で、イザークがアリスに好意的なのがは誰が見ても明らかだ。
お分かりだろうが、この二人はリリアの婚約者イザーク王子とこの世界のヒロインアリスである。
「その曲の練習をされていたんですね。その曲は音楽に合わせて踊るんです。とても楽しい曲ですよ」
アリスが譜面台に置かれた楽譜とイザークの膝に置かれたギターを見て嬉しそうに言った。「そうなのか、いつか見てみたいな」とイザークは小さく笑う。
この世界ではギターはカジュアルな平民の楽器という位置づけで、決して王族や貴族がたしなむものではない。貴族学院に通うような身分の者が愛好していると言えば品がないと思われてしまうようなものなので、一応備品として置いてはあるが授業で使うことはない。
しかし実はイザークは幼少期に視察に訪れた北部の街でギター演奏による歓迎を受け、その音色に感動し魅了されてしまっていた。弾いてみたいけれど、練習して上手くなってみたいけれど自分には機会がないだろう。そう思っていた。そこにアリスが現れた。
ヒロインのアリスの祖父はギター職人で、その影響でアリスはギターがとても上手い。たまたま貴族学院の音楽室で埃をかぶっていたギターをアリスが見つけ弾いていたところにイザークが現れ、そこからアリスがイザークにこっそりギターを教えるという形の交流が始まるのである。
二人の秘密の練習が始まってから2か月もたっていないのだがイザークは自分がアリスに対し特別な感情を持ち始めたことに気が付いた。男爵家の庶子で身分は低いし平民育ちのせいでマナーがおかしいところはあるが、アリスは明るく愛らしいし決して下品ではない。完璧な貴族女性である冷静で落ち着いた婚約者のリリアと違って、笑顔に屈託がなくころころ表情が変わる様子はイザークの心をときめかせた。リリアがいるのによくない、とイザークは自制しようとしたが恋慕の気持ちは増すばかりだった。
そう、この王子チョロいのである。イザークルートは好感度を上げることにおいては〈花咲く紋章の乙女〉の中で一番簡単だと言っていい。イザークルートで難しいのは前半パートでリリアを婚約破棄させなければならないという条件に気付き達成できるかどうかと、イザークは最高学年で卒業まで一年しかないためステータス上げが厳しい点なのである。
「あっそこの…三小節目なんですけど、そこはもうちょっと弾くように弾くんです」
アリスがイザークの手に触れて弾き方を指南する。小さくてつややかなアリスの手を握ってしまいたい。アリスの髪の匂いは陽だまりのようだ。そう考えてイザークは頬を染め、何を考えているんだと首を振る。イザークの周りに花が舞う幻覚が見えそうだ。なんなら二人の周りを角砂糖で埋め尽くしてやりたいくらいである。
「休憩にしよう。最近評判のクッキーがあるんだ」
イザークはアリスに煩悩を悟られないよう表情を引き締め、立ち上がって隅に置いてあった鞄の中を探る。
「街で評判の菓子だそうだ。食べるといい」
イザークは手に取った赤いおしゃれな缶をアリスに渡した。
「あっ!それ知っています。マダムララシャのクッキーですね!」
アリスは嬉しそうに缶を開ける。チョコレートやフルーツ、ナッツで飾られたかわいらしいクッキーが甘い香りを漂わせる。目をキラキラさせてどれから食べようかと迷っている様子がとても愛らしい。
(リリアなら…微笑んで礼を言うだけだろうな)
イザークはもしリリアに缶を渡していたらどういう反応をするか思い浮かべた。リリアは美しく優しい王族の妻にふさわしい女性だが、感情を管理されているかのようで面白みがなく、うわべだけのやり取りをしているように感じてしまう。
「これすごくおいしいですよ!イザーク殿下も食べてください!」
アリスが幸せそうな笑顔でイザークにクッキー缶を渡す。そう、こういう心からの笑顔をリリアは見せてはくれないのだ。
「アリス。最近はどうだ?クラスには馴染めているか?」
イザークはアリスが最初に選んだものと同じ種類のクッキーを手に取って尋ねた。
「大丈夫です。とても楽しいです!最近まで平民だったので心配していたんですがアニカ様が優しくしてくださるおかげで皆さん親切です」
「アニカ…リリアの妹か」