ズドンと一発
普段アニカはリリアに対しても可愛くて人懐っこい女の子として接している。リリアさんが婚約破棄されて絶望したときに初めて自分の本性を明らかにするのだ。
だが今アニカは私という珍客とのやり取りの中で〈王子と結婚したい〉という意味にとれることをリリアさんが目の前にいるにもかかわらず言ってしまった。これはアニカにとってとんでもない失敗だ。
「アニカ、あなたイザーク殿下が好きだったの?」
リリアさんが眉を下げて困惑した表情で問う。
「お姉さま…誤解ですわ。言葉の綾です。私にもアレン様という婚約者がおりますもの」
アニカが必死に取り繕っている様子を見ながら私はイライラした。少々説教した程度ではアニカはリリアさんを追い落とすことを諦めない。まあ私ってアニカからしたら不審者以外の何者でもないから私が何か言ったところで心に響かないのは当然だけどさ。
残念だよ、アニカ。言ってきかないならこちらにも考えがある。
「リリアお嬢様!」
黒髪ボブの背の高いメイドさんが急いだ様子で部屋に入ってきた。悲鳴を聞いて駆け付けたのか、後ろに何人か引き連れている。
「お嬢様から離れなさい!」
メイドさんはモップを持って今にも殴りかからん剣幕だ。後ろに控えていた数人の使用人らしき男たちも部屋に入ってきて私ににじり寄ってくる。異世界で捕まったらひどい目に遭わされそうなので今日のところはそろそろ退散するしかなさそうだ。
私はふ~っと息を吐き、アニカに向き直ると手を組んで人差し指を伸ばした。ただでは去ってやらないぞ!
「成敗っ!!!」
ズドン!!
「うひぇっ!!??」
私はアニカの尻めがけて元気よくカンチョーをした。アニカは悲鳴にもなっていないうめき声をあげて床にうつぶせで倒れた。お尻を抑えて弱ったミミズのようなうねうねした動きをしている。
カンチョーを目撃したリリアさんや使用人たちは口をぱくぱくさせて釣り上げられた魚のようになっている。そりゃあそうだよね。目出し帽をかぶった不審者が公爵家のご令嬢の肛門に攻撃を加えるなんて誰が予想しただろうか。
ちゃんと考えての蛮行だから弁明させてもらう。女子同士の喧嘩なら普通ビンタではと思うだろう。この煌びやかな中世ヨーロッパ風異世界でカンチョーっておい、ってなって当然だ。いやでも考えてほしい。私がアニカにビンタしたらさ、アニカのことだから「お姉さまにぶたれた!」とか嘘つきかねないなって思ったわけ。なにせ性格の悪い女だから。だからこっちに転移する前からカンチョーだなって決めていたの。だってさ、悪役令嬢といえど年頃の娘が己の肛門の負傷を言いふらしたりしないでしょ?患部を見せるなんてできないでしょ?安心安全っ!それでいて精神的ダメージも与えられる、一石二鳥じゃんってこと!
「アニカ!!」
リリアさんは倒れているアニカを抱き起そうとした。
「触るんじゃないわよかわい子ぶりっ子が!!」
アニカが心配するリリアさんの手を叩いて払いのける。バランスを崩したリリアさんは床に尻もちをついた。
「リリア様!大丈夫ですか」
黒髪のメイドがモップを投げ出してリリアに駆け寄る。
「アン、私は大丈夫よ」
アンと呼ばれたメイドはそう言って起き上がろうとするリリアの体を支えながらアニカに冷たいまなざしを向けた。ほかの使用人たちはアニカの普段からは考えられない言動に驚いたのかおろおろして立ち尽くしている。
(おっ、これはいいんじゃない)
私はにっと笑む。アニカはカンチョーの衝撃で動転するあまり使用人たちの前で本性を見せてしまったうえ、リリアに暴言を吐き暴力をふるった。アニカのこれまでの工作にほころびが生まれるかも。
(それに…)
私は黒髪のメイド――アンを見た。私と目が合うとアンはリリアを庇うように前に出る。ああ、この人本当にリリアさんに心から仕えているのか。ゲームのシナリオではオーリリー公爵家の使用人がアニカの味方をしていたからリリアさんの味方が家にいなかったのかなって心配だったけどそんなことはなかったみたいだ。良かった。
「その者を捕えなさい!」
冷静さを取り戻したリリアさんが穏やかで優しそうな表情を一変させきっと私を睨みつける。美人の怒りって本当に迫力があるな。
命令を受けてはっとした使用人たちが私を捕えようと円になって取り囲む。本当にここまでだ。でも戻る前に言っておかなきゃ。
「そこのメイドさん」
私は黒髪のメイドをちらっと見てから床の割れた花瓶と散らばるバラを指さした。
「これはアニカがやったのよ。リリアさんじゃない。アニカが、自分で、自分が持ってきたバラの花瓶を、リリアさんの部屋で割ったの」
そう言うと、メイドの眉間にしわが入った。1日1回しかこの世界と現実世界を行き来できない以上、私がすべてに干渉し思い通りにすることはできない。この人に警戒心を持ってもらうことでリリアさんを守ることにつながるかもしれない。頼むよ、メイドさん。
「アニカ!心を入れ替えないとまたズドンだからね!」
私はアニカに向けてそう言うと、左手から魔法陣を出した。わっと驚きの声が上がって間もなく、私はその場から消えた。
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「な…なんだったのでしょうか。あの者は。魔術師でしょうか」
みちるが消えてすぐに黒髪のメイドがリリアに問いかけた。リリアは顎に手を当てて考え込んでいる。
「あのマスク…どこかで見たような…」