言葉の使い方、意味
※ 物語ではありません。そして、完全に主観で書いてますので、不愉快なおもいをすることがあり得ます。ご留意の上、お楽しみください。
最近、日本語の誤用を正す番組が多く放送されている。また、巷では若者の言葉が乱れているとか、最近の若者は敬語が出来ないとか言われている。ましてや「若者言葉」なんていう言葉も生み出されている。しかし、この言葉の変化を乱れではなく進化であると捉えられないだろうか―――。
某局某番組で、
A:的を得る
B:的を射る
「的確に要点を捉えている」という意味で正しいのはどちらか
という問いが出されていた。出演者は皆Aを選択して、当然のごとく不正解が言い渡されていた。ゲスト講師の学者先生は自慢げに説明をはじめた。私は釈然としなかった。それは私なりの言葉の捉え方があるからだ。では、今回は私なりの考えを書くことにする。なぜ、「私なり」なんて謙虚な姿勢なのかというと、言葉という言葉の捉え方自体も人によって様々だからだ。では本題に入るとする。
私の考えかたでは前記した問いの答えはAだ。理由は簡単、多数派が正しいと思ったほうが正しいからだ。言葉の役割は他人に自分の思いを伝えることである。どんなにBが文学的に正しいとしても、相手に伝わらなければ本末転倒である。ましてや話し言葉になると、更に文学的な使い方から遠ざかる。「惜しい」を「ほしい」と発音する人がよくいるが私はあえて指摘しない。言いたいことが伝わればそれで万事OKである。そう考えると、若者同士で使っているいわゆる若者言葉も文学的に正しくなくても伝わっているからOKである。これは決して乱れではない。言葉は常に流動的で形を留めないものだと思う。で、あるからして、「乱れ」などというものは存在しないのだ。むしろ進化、言葉の発展なのである。若者が敬語を使えなくなるのも同じ考え方で解決する。敬語を使えなくなった原因は単純に敬語を使う機会が少ないからである。使われなくなった言葉はやがて死語となり消え去ってゆく。そして、この言葉の動きについていけなくなった人達が異を唱え、その異を唱える人が少子化やらにより多くなったことが、最近の誤用直しブームのきっかけではないだろうか。
とはいえ、この世代によっての言葉の差というのも問題ではある。しかし、これはもう仕方ないことだ。直しようがない。むしろ直すことが筋違い。目上の人には知るだけの敬語を使い、その目上の人も、誤用に気づいても笑顔で流してあげることが、スムーズな人間関係を作ることに繋がるだろう。ああ、日本語って難しい。