第二章 みはるかす文学と漫画の境地
漫画と文学の境地たる神について。
自力で辿り着くその境地には、どれ程の価値があるか?
たとえば、「ドラゴンボール」・「北斗の拳」・「涼宮ハルヒの憂鬱」・「ひぐらしのなく頃に」。
ありとあらゆる名作と呼べる漫画と文学がその境地に至っている。
キャラクターが立っていて、ストーリーが単純明快で、名作と呼べるゆえんが神という文字に込められている。
一見、「ドラゴンボール」等は神があまり関わっていない様に思えるが、道教的世界観、「神すらも超えて真の道教の境地に至る」というテーマがある為、本来、神がかませに成る様なテーマなのだが、「人造人間編」にて、立派にピッコロと共にかませと成った。
本来、神とは客観者である事が「北斗の拳」の「天」も含めて、以上の作品に例外なく、述べられている。
まず、キリスト教的神を暗に否定した大胆な作品群と成っている。
二分心すなわち、本来のいや、元々の古代人の意識について、「神々の沈黙-意識の誕生と文明の興亡」では興味深い事が述べられている。
意識は言葉の深層に根ざしている為に人が言葉を扱わない段階では意識はなかった。
というのである。
神々の声すなわち、内心の声、良し心の神と呼ばれる良心による統率された良心の声は良心から出るものなので、疑い様がないのであるから、それが成り代わりすり替えられ、幻聴の声として、本来ピュアな幻聴もあり、また、ただ単の思い込みによる幻聴もあって、今は統合失調症として、名残を残すのみである。
「ドラゴンボール」「北斗の拳」「涼宮ハルヒの憂鬱」「ひぐらしのなく頃に」
以上の作品と関係ない様に思えるが、語りかける幻想という事で、以上の作品に大いに関係するのが、幻想という纏まりがなければ、どうして本として纏める事が出来ようか?
つづきだ。
良心の声というのは、文字として黒か白で現される。
黒であれば、一慕思慈雨の声として、(当然、これは良し心の神の名前である。)日の出ている時に。
白であれば、シンシの声として、(当然、これも良し心の神の名前である。)日の沈んだ時に。
私は現実的な全能、一慕思慈雨の側であった為に対抗する幻想的な全能、シンシの悪夢に悩まされた。シンシは、体的に全能の神であるがゆえに、何をされるでもなく体が動かせなく成ったのである。
何も神々がすべて仲間だとは限らない。
決まった事を決まっただけやるという能力に優れている為に、一慕思慈雨の現実的な力が加えられているのだが、現実的な全能の力は幻想的な全能の力には勝てないのである。
現実の上で幻想する事は容だからである。
上書きの性能として、幻想は幻想の神の力をも現すので、現実的な世界観にて、(神の神遊びを用いて現される八百万の神すら受け付けない、即現実の御六神の世界、ヤハウェ以外に五体の神がおられる。)ヤハウェ(唯一絶対神)、コノヘ(エ)(相対神)、ヤクタ(同じく相対神)、クリスティー・スカーレット(幻想の神)、幻想の神の妹カムー・スカーレット(自由の神)、幻想の神と自由の神の遠縁アマドヒ・プレイヤーズ(渾沌の神)の御六体のみである。
いや、三位三体の世界であるので、御六神、(第一世界に御一神ヤハウェ、第二世界に御二神コノヘ、ヤクタ、第三世界に御三神クリスティー・スカーレット、カムー・スカーレット、アマドヒ・プレイヤーズ。)御八体なのであるが。
この様に、幻想の神とは本来は、第三世界の方からでばって来て頂いているのである。
「鬼滅の刃」で言われている事だが、「(幻想に携わる者程、)道を極めた者が辿り着く場所はいつも同じだ。」本来、それらの道は第三世界に続いているものなのである。