再開
暗がりのスラム街で、少女の声がこだまする。
「アイリス!!!」
「ノ…ノア…どうか…生きて…」
伸ばされた手を掴めず、無残にも男たちに抑えられる。
「よっしゃ〜!!遂に捕らえたぜ悪党娘!」
「へへ、俺の作戦、どうよ」
全身を頑丈に縛られ、四輪駆動車の荷台に叩き込まれた。
その時のあまりの衝撃に、少女は意識を失った。
「…」
意識が戻ると、知らない場所にいた。
椅子に座らされ、手も縛られ身動きが取れない。
3,4人の男に囲まれ、身体を抑えられていた。
「おい、こいつ起きたぜ」
「まぁいいだろ。さっさと終わらせるぞ」
その中1人がゆっくりとなにか機械のようなものを顔に近づけてくる。
数秒後、少女に激痛が走った。
「ッ!!!」
まつりは目を覚ました。
また、知らない建物の中にいた。
ベンチに横たわっているようだ。
「夢か…」
過去の出来事が夢となって現れることが時々ある。今のは「アイリス」が死んだ時のことだろうか。
夢の記憶は曖昧で、脳裏を撫でて静かに消えていく。気がつけばまつりは、自分の左の目元に掘られたまつ毛の様な入れ墨を触っていた。
掛けられた布がひんやりと冷たい。捲ってみるとまた、下着以外の身ぐるみをすべて剥がされていた。
「…」
腹部に包帯が巻かれている。五箇条戦で負った傷だ。
間もなくドアが開いて、リアが入ってきた。
「まつりちゃん、起きたんだね」
「リア…ありがたいが治療の度に全裸にするのはやめてくれ」
「それやったのノアちゃんだよ〜」
「お前じゃないのかよ………え?」
会話の中に違和感を感じて聞き返す。
「だって、全部脱がさないとどこに怪我があるかとか」
「そっちじゃない。わたしたち以外に誰が?」
ベンチから起き上がる。
「ノアちゃん。バイクで助けてくれたんだ」
名前を聞くなり、まつりは立ち上がって部屋を出ようとした。
「ちょっ…まだ傷が!」
「もう大丈夫だ、ほら」
今度は自分で包帯を外してみせた。
自分でも驚くぐらい、傷は綺麗になくなっていた。
隣は、廃病院の診察室の様な部屋だった。
1人の女が座っていた。横顔を見るなり、まつりは悟った。
女も目をこちらにやり、口を開いた。
「…ノア」
「アイリス、だね」
【PUNCH EYES】に捕らわれる前、まだ入れ墨がなかった頃。
アイリスたちは5人ほどの少年少女で生きていた。
収入は窃盗。ただでさえ物資が枯渇しているスラムで、ひたすらモノを奪って生きる。
それを咎める者といえば、組織や軍の奴らだけだった。
アイリスには相棒がいた。名前はノア。幼い頃から両親がおらず、ドブの用水路でくたびれているところをアイリスたちに拾われた。
それからはずっと一緒で、盗みに一番長けたタッグだった。
しかし不況が進み、チームの1人だった少年が食料の欲しさから2人の居場所を組織に密告。
アイリスは勢力を伸ばす組織【PUNCH EYES】に不意を突かれ、それ以来姿を見せることはなかった。
戦友…といったところだろうか。
美しい白髪の隙間から覗く透き通った瞳は、昔と全く変わりなかった。
「話はリアちゃんから聞いたよ。はじめまして…まつり」
「…ああ」
その一言でまつりは安心感を抱いた。
暗闇を這うようにして進む日々に、心の拠り所が欲しかったのだ。
期待に応えるように、ノアはそっとアイリスを記憶の淵に葬った。
まつりは掛けてある服を着ると、もう一つの椅子に座った。
「監視塔にいたのは…お前だったのか」
ノアの姿は、記憶と照らし合わせるほど一致する。
そう、あの時監視塔でまつりたちを拒んだ者と。
「うん。ぼくだ」
ノアは目を合わさずに言う。
「降りてきたのか」
「降りてきたんだ」
林の方に降りたら生き延びることができたはずなのに、彼女はわざわざ地獄に降り立った。
まつりの思想は絡まって、躍起になって問うた。
「聞かせてくれ。あの日から、何があったのか」
ノアの軍服の正体を知りたかった。
するとノアは微笑んで、ゆっくりと口を開いた。
「そうだねえ…相手が違かっただけだよ。
アイリスが組織で、ぼくは憲兵だった。
ロベルトの密告からそう長く持たなくてさ。アイリスがああなってから一週間くらいだった。
牢に入って一生を終えるか、軍に入って奉仕するか。選択の余地はそれだけだったよ。
元々銃を使うのが苦手だったぼくは、軍に入ってからもやっぱり下手でさ。
小さい頃から慣れ親しんだ弓を隠れて練習してたら、だんだん浮いた存在になっちゃって。
同僚からいびられたり、上官に捕まってひどいことされたりもしたな…。
でも抜け出しても居場所なんてないし、死ぬことも許されない。
思い描いてた外の世界とは正反対だった。
で、いざこの騒ぎが起こったら、案の定真っ先にここに派遣されたんだ。
ボロボロの監視塔に登って、ひたすらバケモノを見張る日々。
もし生存者が来たら言ってやろうってずっと考えてた。
『あいつらと一緒にされたく無い』って。『軍はやめてきてやった』って。
さっき連れ去られたのがまつりだったことに気づいて、どういうわけかこっちに降りてきたんだ。…フフッ、馬鹿だね、ぼくは…」
まつりが目を合わせようとすると、ノアは天井を見上げていた。
大粒の涙が目に膨らんでいるのを、こぼさないようにしていた。
酷薄な世界を睨まんばかりの横顔は、何故か、ただひたすらに、美しく見えた。
「ありがとう。大変だったんだな」
「いいや。まつりの苦労に比べたら、楽なもんだよ」
ノアは涙の粒を指で拭って、やっと正面を向いた。
「さて…感慨にふけりたいところだけど、時間がない。これを見て」
ノアはまつりに一枚の新聞紙を手渡した。日付は昨日。
一面に大きく『政府非常事態対策本部部長 レスター氏 暗殺』とある。
外の世界を知らないまつりにとって、詳細までは解らなかったが、なにか重大なことが起きている。
「政府は今回の騒ぎを確認して、それが何かを発表したんだ。広範囲に及ぶ感染症…すなわち、『パンデミック』と。」
「で、この人は…」
まつりはレスターのことを問う。
ノアは一息ついて、話しだした。
「レスター=オリファント。今回のパンデミック調査の責任者。彼を暗殺するってことは、この事件自体が陰謀っていう可能性があるんだ」
まつりの背中に悪寒が走った。
反射的に新聞をくしゃくしゃにしてしまった。
「ちょっ…まつり!?」
ノアは驚いたが、その声は届かなかった。
レスターはどう考えてもリアの父親だった。政府関係者というあの時のリアの言葉、姓の一致。親なんていないも同然だったまつりに父親をなくす気持ちは解らないが、愛する人を失う哀しみは、痛いほど解る。
彼女は隣の部屋にいる。
「まつりッ!」
「はっ…悪い、気が動転して」
「それに、目が」
「目…?」
ノアが言うままに壁の鏡を見るが、異変はない。青みがかった黒目だ。
深く深呼吸をする。
「…レスターに心当たりでもあるの?」
「直接的な関わりは無い、でも」
口には出せない、出したくない。
静かにアイコンタクトをする。気づいてくれ、と言わんばかりに。
何年かぶりのものだ。敵の位置、物資の数、すべて目で通じ合えた。
「…!」
しばらくしてノアは目を見開くと、優しく下を見つめた。
通じ合ったのだ。まつりは安堵する。それと同時に、リアがこちらの部屋に入ってきた。
空気を切り替えるようにノアが立ち上がって、得意げに話し出す。
「改めて、はじめまして。ぼくはノア=ルクセンブルク。元軍人だ。」
まつりは黙って聞いて、リアは小さく拍手した。
「まぁ…紹介することも特に無いんだけど…何が言いたいかは、解るよね」
3人が徐に部屋の中央に歩み寄る。静かに片手を差し出し、交差させる。
「全員で脱出!」「当たり前だ」「頑張ろうね!」
長く降り続いた雨は止み、夜はさらに深みを増した。
これまでの物語は序章に過ぎない。