七、金炎
甲板の人影はひとつだった。
こちらに背を向けて立っている、ヨル、ひとり。
ネインは仁王立ちで微動だにしないヨルに勢い良く駆け寄ると、悲鳴を上げた。
「緑を、緑を避けなかったのですか、」
ヨルの足元には濃緑の液溜りが広がっていた。
動揺を隠せないネインには目もくれず、ヨルは正面に散らばった大量の紅い花弁を睨み付けていた。
カムカヌカは包帯人間を背から剥がしつつ、あれが将軍なのだと理解した。
つい、と、ヨルが視線に気付き、カムカヌカを振り向いた。
冷たい、冷たい瞳だった。
無表情のヨルの輪郭を、“金天郷港”と点滅光球の示す、此の世界の妖艶な金炎が、ひどく退廃的な仮面に映し出していた。
金を跳ね返す緩やかな銀髪は神々しく、眼帯の金細工がきらきらと光を反射して眩しい。
良く見るとヨルの脇腹は激しく抉られており、臙脂色の上着が血を吸って、太ももに向かう濃い染みを創っていた。
絶句しているカムカヌカと目が合うと、ヨルは笑みを浮かべた。
ヨルの紅い瞳が、カムカヌカの影を踏んだ。
背筋に誰かが触れた様なぞわりとする感覚に襲われ、硬直する。
ヨルが、恐い、。
「・・・・・・・」
無言で近付いてくるヨルにカムカヌカは恐怖を覚え、歩みを退く。
緑の足跡を遺し直進するヨルを、ネインも黙って見つめた。
金天郷の黄金虫が、金粉を撒いて舟上を飛行している。
ヨルは虫を避ける事をせずに、真っ直ぐカムカヌカと包帯人間の前に向かった。
お互いの瞳孔が見える程、接近したヨルは、身を捩り小さく咽た。
指の隙間から、緑の液状が滴り落ちる。
すっかり青ざめたネインは手で口を押さえ、カムカヌカは息を呑んだ。
「・・崩壊する、かつての皇帝は現・月の舟、天体団は冥月を夜から奪う最後の砦とは、神の下した最終宣告が此れか、」
虚ろな目でそう吐いたヨルは、上着の袖でぐい、と唇を拭うと、カムカヌカを脇に押し退けて包帯人間を見下ろした。
走り寄ってきたネインと共に、ヨルが胸元から刃を取り出すのを見たカムカヌカは、思わず声を発した。
「刺すの、その人は息をして無いけれど、還って来るものが在るんぢゃないのか、」
自分でも驚く、言い草だった。
「同然さ、魂は僕が引っ掴んだ、終曲の旅を承知したから、何処にも降りずに、巨大宇宙を永迷するのだ、」
ヨルは言葉を切り、カムカヌカを見た。
「帰らないと、言ったろう、」
カムカヌカは心臓が搾られる様に痛むのを感じた。
足元が地震みたいに揺れ、ヨルの瞳が幾重にも重なって見えた。
再びこちらへ背を向けたヨルは、ぐったりと泥の如く舟のへりに寄りかかる包帯人間の目の高さに膝をついた。
ヨルは哀しげな笑みを浮かべ、刃を高く掲げた。
「やめろ、!、」
カムカヌカの擦れた静止の号をものともせず、ヨルは銀に光る刃を、包帯人間の首根に振り下ろした。
何か太い筋が切れる音と共に、勢い良く血液が噴出してゆく。
それは囂々《ごうごう》と燃え滾る金炎の激光の中で、特別美しく惜しみなく煌いた。
「、、う、」
全く同時にカムカヌカの首にも痛みが走った。
凄い勢いでカムカヌカの動脈から噴出したのは、鮮血では無く、緑だった。
緑が血の如く体内から溢れ、金炎の空に不気味なアーチを描く。
ヨルが刺した包帯人間の首元には、深々と刃が沈んでいた。
そこから、はらり、と包帯が腐れ落ちる。
そこにカムカヌカが見たのは自分自身の肉体だった。
「毒で充足された夜に、共犯者を、」