五、個室
再び瞬きの秒を挟んで降りた此処は、恐らく舟内だった。
列車の様な長い長い通路の左右に、小窓を設けた客室が対称に並んでいる。
後ろを振り向いても、青白く点滅する長い通路が、ずぅっと先まで延びていた。
まるで巨きな合わせ鏡の世界に迷行した予感を覚え、カムカヌカは生きた心地を失った。
「天罠を展開していたと、有り得無い、」
ヨルは包帯人間を背負い、通路を駆け出した。
ネインとカムカヌカも後を追って走り出す。
「あのひと・・・如何するつもりなのでしょう、」
ネインが走りながら不安な声を漏らす。
「奴等の狙いはひとつ、舟への攻撃・沈没、欲しい物を奪った末、
僕を如何にも這い上がれぬ緑海へ潰す事、」
「ひとつじゃないじゃないですか!」
ネインが泣きそうな声で叫んだ。
ヨルは真正面のみを見て、歯を食い縛る。
「どんなに強力な殺意で緑を翳しても、僕は止まるつもりは無い、
月を越えて宙論天文台の幻想全をこの身に焼き尽く迄は、
絶対に、」
あまりにも早口だったので、カムカヌカはヨルの言った言葉が、ほとんど聞き取れなかった。
ネインは頷き、ヨルの上着を握り締めた。
「それに証なら既に手中にしている、僕らが空腹を弱る事は無いだろう」
走り乍らネインを見てヨルが言った。
ネインは少し俯くと、黙って走り続けた。
(空腹を弱る事は無い、・・・・・・証、か、)
カムカヌカは蟲籠の双子が証が如何の、と話していた記憶を辿っていた。
それを考えたいのに、空腹を弱る事は無い、という言葉の意味が、脳を先走ってくる。
(まさか、この包帯人間を、)
荒々しくも、わりと自信の有る造り上げた例の持論に、衝撃の予測・・。
カムカヌカはこれ以上考えると恐ろしく成る事を察知し、忘れようと努めた。
ヨルとネインが、敵だろうが味方だろうが、もうどうでも良い。
二人の向かう先に、ただ、着いてゆくだけだ。
左右の客室は中が垣間見える小窓がついており、時折、乗客と思われる黒い影が見えた。
扉には番号がふられており、数字の様で、やはりカムカヌカには見慣れぬ形状をしていた。
ひとひとり背負っているにも関わらず、ヨルの足は速かった。
やがて見えてきた突き当りの個室に、三人は雪崩れる如く滑り込んでいった。
ヨルは早急に包帯人間を降ろすとぴしゃりと戸を閉め、膝をついた。
ネインが心配そうに駆け寄る。
三人の中で肩で息をしているのはカムカヌカだけだった。
呼吸を整え乍ら個室を見回すと、再び悪寒がカムカヌカを襲った。
ごく狭いこの個室には、ゆっくり点滅する真白の天井から壁、床一面全てに、どす黒い赤で細かな模様が記されていた。
模様というより、魔法陣に近いかもしれない。
円陣や数式や、不可思議な図形、小さな文字の羅列。
カムカヌカにもすぐ解った。
これが血で描かれたものであること、。
頭痛がするこの空間でヨルが呟く。
「追憶の祝福を、呪うなら呪え、彷徨う天翔ける使徒よ、夜の、夜の追悼式を、
両の腕で許しを諭すなら、偽岸華で埋めてみせろ、、」
ヨルは唱える様に瞼を伏せた。
そのまま目を閉じてしまいそうだった。
膝をつき、息を潜めるヨルが、カムカヌカには気体の様に見えた。
何か此処には無い痛みに、必死に耐えているようにも見えた。
「境界を逆巻かれよ、天体団は貴方を殺す、」
凛とした声と共に、扉が勢い良く開いた。
ヨルは悲鳴をあげたネインを庇って後ろに跳ね退くと、左拳で力いっぱい壁を叩いた。
ヴォン、、
その瞬間、内臓に響く重たい電子音と同時に、全ての赤い模様から激しい闇が溢れ出した。
どろどろ渦巻く闇は剣の切っ先に容を変え、扉口に立つ女に、真っ直ぐ突き刺さる。
「反撃は呼応するわ、!」
一斉に注がれた闇の剣は弾かれ、扉から室内に入ってきた将軍が嗜める様に叫んだ。
と、同時に何か緑色の筋が、ヨルの肩に命中した。
後方へ向かって鮮血が糸状に伸び、ヨルの瞳は静かに闇を燃やし始める。
「ヨル!」
ネインが悲鳴をあげた。
「何て事を、緑を放つなんて!」
ネインはヨルの身体を支え、怒りを露にして叫んだ。
カムカヌカは理解出来ぬこの状況を、ただただ胸を押さえて見るばかりでいた。
「殺す、と、宣言した筈です、」
僅かに刺繍布の隙間から見えた将軍の瞳は、真紅。
ヨルと、同じ、目の色、、、。
カムカヌカは呼吸が荒くなるのを感じていた。
将軍は眉ひとつ動かさず、圧力と共に、室内へ進み入った。
ヨルは流血する肩を押さえ、ネインと包帯人間を背陣に、一歩前へ出る。
「・・・・・緑、御礼に値するよ、月団戦争を思い出す、ねぇ、アラン、」
「名を、呼ばないでくだる、堕帝」
将軍は薄い布を翻らせて、ゆっくりヨルに接近した。
白く細い手が、ヨルの頬に伸ばされる。
「貴方は何故、泥を胎動するの、水面を漂う腐った熱風に至るのよ、
敵は多いわ」
「熱風?
・・・・・・・・は、天体団の人形は相も変わらず僕には・・・」
ヨルは深く息を吐いた。
「理解出来ないね!」
「、!!」
ヨルは頬ぎりぎりまで伸ばされた将軍の腕を払い除けた。
そして彼女の白く細い首を、血のべっとりと付着した手で、何の躊躇も無く、絞める。
ネインもカムカヌカも顔を引き攣らせて行く刻を見つめる他、成す術が無かった。
将軍は瞬きもせず、夜無空の夜の如く、一点に瞳孔を開けたまま、天井の向こうを仰ぐ。
やがてその紅い瞳から、黒い涙が零れはじめた。
ヨルは力を緩める事無く、親指で彼女の喉元に魔方陣を書き殴り、囁いた。
「舟は殺させない、天球法議会を屍で埋め尽くす事に成ろうとも、
神が破壊的に緑を推奨しても、
僕の存在を嘘罪夜に永久に封じられたとしても、」
「、舟は、舟は、死なせない、」
ヨルはより一層きつく首を握った。
将軍の喉に描いた血紋陣が、彼女の身体を腐食し始める。
乱雑に描かれた陣から上へ下へと呪われた文字が溢れて、蟲の様に蠢き、這いずり回った。
「哀れな夜よ・・・・自ら太陽を拒絶するとは・・・・・・・・・」
黒い涙を流したまま、途切れ途切れに将軍が呻いた。
ヨルは鼻で笑うと、足元に再び転送を創った。
二人はそのまま穴へ落ちて行き、個室には静寂と固まったままのネインとカムカヌカが残された。
突然の無音が、鼓膜を、心臓を、眼球を、いっぺんに痛ませて、
しばらく瞬きすらも、カムカヌカの脳から消し去るところだった-----------